ⅩⅡ

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ⅩⅡ

『リン、二人は……』  クレアがリンに言った。  リンは窓辺に立ち、カーテンの隙間から真下に見えるアパートの出入り口を見つめていた。顔を上げ、視線をリビングのTV画面に移す。  夕方からずっと、ニュース番組はヒューバート・モリスンの事件ばかりだった。似たような映像の中、リンは今、初めてローレンスを見つけた。自宅玄関ポーチの柱にもたれかかるようにして立っており、傍には男女の姿があった。遠目にも美形な黒髪の男と硬い表情の赤毛の女。女かどうか断定できないくらい女性性を押し込めているような服装や髪型だが、リンとクレアにはわかった。  この二人が下の歩道を左右から近づいてきて、アパートの前で立ち止まった。 『警察の人間だったのね』 「どうしよう……なんでここがわかったの?」  リンの声が震える。 『そうね、早すぎる。もしかしたらジョンの遺体を見つけたのかもしれない……ヘイデンのヤツが』  リンの口が動いたが、それはクレアが言ったのだった。 「彼が訪ねるのは一週間に一度だったはずよ」  それに対してリンが答える。 『……誰かが、早くヘイデンに見つけさせるように仕向けた』 「どういう意味?」 『つまり……』 ――ここで、速報です。~のアパートの一室で、男性が遺体で発見された模様です。警察はさきほどのモリスン氏との事件の関連について否定していますが、遺体の状態が似ているという情報もあります。詳しいことがわかり次第、またお届けします――  クレアの言葉を遮るようにニュースキャスターの声が入ってきた。 『……モリスンの遺体が思ったより早く見つかりそうになって、注意を外らせたかったのかもしれない。私たちを捕まえさせることで』 「それって……どういうことなの? クレア」  リンはクレアに問いかけながら、寝室へ入っていった。 『あんたこそ……リン』  ベッドに腰掛け、重ねた二つの枕の下に突っ込んでいたリンの手が止まる。 『……何をしようとしているの?』  枕の下から取り出したのはS&W M&P9。リンの小さな手にも持ちやすい銃で、先日購入した。こんな事態になった時のためだ。  購入時に試し撃ちをしただけで、以降触ってもいなかったが、こめかみに当てて引き金を引くだけなら子供でもできる。 『いつのまに、こんなものを買ったの?』  クレアに知られることなく行動するなんて不可能だとクレア自身は思っているが、リンはわかっていた。クレアはリンの心が強い憎悪や深い絶望感に支配された時しか出てこない。したがって処刑対象を監視している時や彼らを処罰している数時間しか実際は共有していないのだ。 『……私をどうする気?』  クレアの声が初めて震えた。  リンの中のクレアがはっきりと姿を現したのは、高校卒業後、医大の看護学科に通っていた時だ。  単位取得を兼ねたボランティアで、地元ソールズベリーの「神の恵み」で二週間ほど雑務を手伝った。事前に大学からは、その施設は身体の不自由な人や心に問題を抱えた人の自立および就業支援を行なっているとだけ聞いていた。実際通ってみて初めて、支援対象の約半数が刑務所の出所者だったと知る。  そこでハリー・ブラウンと出会った。いや、正確には彼を見つけた。  グループセラピーでは、ハリーは自分の過去を露出癖が原因で逮捕されたと言っただけだったが、リンは事務員たちが噂しているのを聞いてしまう。ハリーは近所の少年を自宅に連れ込み、暴行した。だが警察はその件を立証できず、彼は男娼との公然猥褻の罪と窃盗などの微罪でほんの一年と数ヶ月服役しただけだった。  それでも聞いた時点では、まだリンもハリーを殺そうとまでは思わなかった。それは様々な偶然が重なった結果であった。  ある日、買い物に出かけた先で、リンはハリーを見かけた。周囲を気にして、あきらかに挙動が怪しかった。ハリーがゲームセンターで母親とはぐれた男児に優しく声をかけているのを見た瞬間、彼女の頭の中で踏切の警告音のようなものが鳴り始めた。うるさいくらいの心臓の音にわき上がる吐き気を覚えながらも、ハリーと男児の後を尾ける。ハリーが男児を通路の奥へ奥へと導き、二人は人気のない階段の柱の陰へと入った。次の瞬間、リンの耳にかすかな悲鳴が聞こえた。  柱を回りこんだリンが目にしたのは、男児を壁に押さえつけ、腰を押しつけているハリーの姿だった。その光景は、彼女に忘れていた記憶を呼び戻した。  ケビン・スタンフィールドのことをクレアの母親に言えなかったのは、彼女が脅されていたからだ。クレアが目の前の男児のようにケビンに押さえつけられていたのを目撃し、リンは怖くなって逃げ出した。ケビンは彼女をすぐに捕まえ、その裏切りを責めた。そしてその場で彼女も犠牲者となった。裸の二人を撮ったはずのビデオテープは、ケビンが逮捕された後も見つかっていない。罪が重くなるのを恐れたケビンが口をつぐんでいたからか、とうに処分していたのか。だが、それよりリンは、殺されたクレアが自分を恨んでいるのではないかという考えが数年経っても頭から離れなかった。    気づけばハリーは目の前から姿を消していた。リンはショック状態の男児を抱き上げ、通報した。緊急配備が敷かれたが、ハリーはショッピングモールから完全に脱出したようだ。防犯カメラに映った姿も後姿や俯き加減のせいか、身元の特定には至らなかった。  リンは、ハリーのことを警察に言わなかった。  いや、正確には言わせなかったのは、クレアだった。  クレアは謝るリンに『怒ってはいない』と言った。代わりに『協力して欲しい』と言ってきた。たとえば今、この男が警察に捕まったとしても、罪は軽く済んでしまう。あるいは病院で治療を受けることになるか。いずれにしろ、また同じことを奴は犯す。それは確実なことで、クレアの言う通りだった。  当然のことか、翌日からハリーは「神の恵み」を訪れなくなった。しかし、リンもクレアもハリーの居所を知ることはできた。今は実家で一人暮らしをしている。  クレアはその前に準備をしようと彼女を書店に誘う。クレアが見たがったのは、凶悪犯罪者の実録本だった。そんなものをリンは読みたくはなかったが、クレアは『あいつの処刑の方法を考えないと』と言うのだ。  読み漁った中で、二人の目を引いた事件があった。  1989年、オースティン郊外の森の中で見つかった遺体。ミイラのように干からびていた男はジュスティン・バーロー、二十八歳。彼は陸軍に所属していたが、二十二歳の時、行方不明になる。それから地元の両親や友人たちには一切音沙汰がないまま、六年後、遺体で見つかったのだ。外傷は左耳の下に空いた二つの穴のみ。しかし全身の血液のほとんどが失われており、それでいて現場には数滴の血液も落ちていなかった。  載っていたのは、未解決事件を集めた本だった。著者のカサンドラ・イネスは、この事件の犯人を【吸血鬼】と名づけていた。リンとクレアはなぜか【吸血鬼】にひどく心惹かれた。ほかにイネスがこの件について書いたものはないか探したが、無かった。しかもイネスは1992年、何者かに殺害されていた。未解決事件を扱ったから、その犯人に殺されたのではないかとも噂されてる。  主にクレアが計画を練り、リンが準備を整えた。  それでもハリーが夜間自宅をしっかり施錠していたなら、彼の処刑は成されなかった。クレアとリンは、神も悪魔も信じてはいなかったが、会ったこともない【吸血鬼】の意思には自らの運命を委ねた。  そして建物の裏側にある窓が一つ開いていた。  二人は、それを【吸血鬼】の意思と受け取った。中へ忍びこむと、眠っているハリーの顔に枕を押しつけ、その上に尻を下ろした。頭を完全に押さえつけられたハリーは当然混乱して暴れたが、やがて息ができず苦しくなったのか、大人しくなった。こんな大胆なことはリンには出来ないので、クレアがやった。右腕に浮き出た静脈にフェンタニルを注入する。麻酔薬は大学の医学部から盗んできた。注射はリンの方が慣れていた。  リンは看護科の寮に住んでいたため、刑の執行はハリーの自宅以外ありえなかった。幸い、一人暮らしだ。バスルームに運び込むと、衣服を脱がせ、バスタブに押し込む。両腕を持ち上げ、シャワーの水道管にひっかけた手錠に繋ぐ。フェンタニルはしっかり効いていて、その間、ハリーは目を開けるどころか、指の先も動かなかった。  シャワーを捻り、冷たい雨を降らせると、バスタブに水が溜まったところで、ハリーがじょじょに目覚めてきた。  その姿を愉悦とともに見つめているのは……  クレアなのか……それともリンなのか。  呼び鈴(チャイム)の音が、リンを現実に呼び戻した。 「……キルギスさん、シカゴ警察のラペルです。開けていただけませんか」  リンはその場で動かず、息を潜めていたが、相手はいないと受け止めてはくれなかったようだ。緊張を隠しきれない、やや上ずった女の声。たぶん赤毛の女性の方だろう。あの俳優のような男はどこへ行ったのだろうか。それとも横にいるのだろうか。 「お話を伺いたいだけなのです。開けていただけませんか。キルギスさん!」  焦っているのか、ドアを叩きはじめた。無理矢理開けられるのも時間の問題だ。 『リン、撃ってしまいなさいよ、その銃で』 「無理なのはわかっているでしょう? クレア。二人は警官なのよ」 『……私を消すつもりなのね』 「違うわ。二人で消えるの」 『最初から、いつかはこうしようと思っていた?』  リンは震える手で銃の安全装置を解除すると、銃口を顳顬(こめかみ)にあてた。目を閉じると、不思議なことに震えが止まった。  ふいにローレンスの温かな手の感触がよみがえる。  彼女の髪を撫でる優しい手。  ウィリアム・ローレンスに近づいたのは、たしかにモリスンとアリスを調べるためだった。モリスンは「神の恵み」に仕事を紹介してもらいにやって来ただけだったが、クレアが処刑対象だと嗅ぎとった。実際は叔父と姪という関係で、アリスは慈しんで育てられているようだった。 『まさか……あの作家が本当に好きだったの?』 「……」 『あんたが、私のことを彼に話したから驚いたわ。受け入れてもらえると思ってたの? あの男に』  わからない。でも少しは期待していたのかもしれない。 『……無理よ、誰も治せない。私たちは、すでにあいつにズタズタに引き裂かれた……ボロ雑巾でしかないの』  彼女の中のクレアは眉を寄せ、泣き笑いしていた。  リンの(まなじり)からも涙がひとすじ(こぼ)れ落ちた。 『ねえ、逃げましょうよ? 諦めることないわ。私たちなら出来る』 「……ごめんね、クレア。私はもう疲れたの」  リンは引き金を引いた。  ジョエルが管理人から借りた鍵でドアを開け、メイと中へ入ろうとしたまさに数秒前、銃声が響き渡った。軽く、乾いた音だったが、それはリン・キルギスが自分の頭を撃ち抜いた音だった。
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