ⅩⅢ

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ⅩⅢ

「気持ちはわかるが……手を離せ」  ジョエルに言われて、メイは自分の手を見た。あまりにも強く拳を握りしめていたのか、両手の爪が手のひらに食い込み、血がにじんでいた。  ジョエルが差し出したアイロンのかかった高そうなハンカチをメイは断り、自分のチノパンの尻ポケットから出したタオルを手に巻きつけた。あらためて痛みを感じ、顔をしかめる。  数時間も経たずモートンの現場からここに呼ばれたメイの同僚たちにも疲労の色が隠せなかった。  ジョエルに続き、メイもリンの部屋に入る。リンの遺体は、すでに司法解剖へ回された。状況から自殺と断定されるだろう。  普通の女性の一人暮らしの部屋だ。「神の恵み」の給金は准看護師だった彼女でも年収二万ドルほどである。基本的には質素に暮らしていたようだ。この部屋で唯一豪奢(ごうしゃ)な部分は、ガラス張りのシャワールームくらいか。 「アレが、彼女がここに住む決め手だったんだろうな」  数人の鑑識官がシャワールームにはりつき、試液を振りかけたり、指紋を採取しているのを見ながら、ジョエルが言った。このシャワールームは前の住人が勝手にリフォームして造ったもので、家賃は他の部屋と同じだそうだ。アパートの家主が「良心的だろう」と言いたげに説明していた。  ここで血抜きが行われたのはあきらかだった。シャワーヘッドの部分からジョンの指紋も出るだろうし、ジョンの衣服からもリンの指紋が採取されているので、証拠としては十分だ。  予想外だったのは、リンが力持ちだったことだ。ジョン・モートンが小柄な方とはいえ、引きずりながらだろうが、130ポンド(60kg弱)はある男を四階の自分の部屋へ運び上げたのだから。  そして大胆すぎるところもあった。モートンの遺体をエレベーターで運んだに違いないが、夜遅くとはいえ、途中誰かに見られるリスクはあったはずだ。だがリンは幸運に恵まれていた。近隣住民に聞き込みはしているが、今のところ目撃情報はない。  それからメイの予想通り、リンが車を所有してないというのは嘘だった。誰も盗みそうにないオンボロのフォードのワゴンを通勤にも使っていた。アパートから少し離れた場所に駐車場をちゃんと借りていた。その車内も今は徹底的に調べられているはずだ。  メイはバスルームから離れるとキッチンを見回した。あまり自炊する方ではなかったようでシンクには水垢が目立つが、油汚れはなかった。引き出しの中に調理道具に混じってネイルガンと手錠が無造作にしまわれていた。それはつまり彼女の部屋に訪ねてくる親しい者は誰もいないということだ。 「……凶器らしきものを発見しました!」  メイが声をあげると、手袋をした警官が取りに来た。  メイはバスルームの左側にある寝室へと入っていった。  ライティングデスクのようなものはなく、ベッドの横にドレッサーが一台あるだけだった。メイはクローゼットを開けると上の棚に手を伸ばした。手にしたのは、ステッカーでデコレーションされた靴箱だった。箱を床へ降ろすとフタを開く。 「……女の子はみんな、そういう箱を持ってるのか?」  いつの間に入ってきたのか、ジョエルがメイの向かいにしゃがんだ。 「さあ……私はスクラップブックを作るのが好きでしたけど」  メイはポツリと答えた。  箱にはたくさんの写真が詰まっていた。その中の数枚をジョエルが手に取り、メイも見た。両親と弟。顔にそばかすがある金髪の少女と二人で写っているのもあった。  リンはブルネットだったので、そばかすの少女がクレアだろう。写真の中のクレアは目の前のケーキのロウソクを吹き消そうと口を尖らせ、頰を膨らませている。写真を裏返すと「永遠に友達。クレア十一歳、お誕生日おめでとう!」と丸くかわいらしい字体で書かれ、ハートのシールが貼られていた。  同じものをクレアも持っていたに違いない。  クレアのことは、先ほどジョエルから簡単に聞いていた。  リンがローレンスに語った通り、1992年バーモント州ソールズベリでクレア・ハーディングはケビン・スタンフィールドに殺された。クレアの遺体には性的虐待も認められ、ケビンは児童ポルノの製作に関わっていた前科もあり、重罪が科せられた。今も州刑務所にいるはずだ。  そしてリンドレイ(リン)・キルギスは当時、クレアの隣の家に住んでいた。  リンもケビンの性的被害に遭っていたかどうかは、日記など書き残されたものが何もなかったので断定できなかったが、メイの中では確信があった。  靴箱の写真やスマートフォンの中にも異性の友人の写真はいくつかあったが、プライベートの、たとえば二人仲睦まじく撮ったようなものは一枚もなかった。それは三十歳という彼女の年齢からするとあり得ないことだった。もしかしたら異性と全く性的関係をもてなかったというのは間違っているかもしれない。それでも特定の相手と恋愛関係を築けなかったのは確かだろう。メイには理解できた。  メイとリンは似ていた。  同じ苦しみを何度も味わい、やがて諦めたに違いない。  そしてメイがアンディを殺したいほど憎んでいるのと同様、リンもケビンへの殺意を持て余し、苦しんでいたはずだ。  その激しい衝動をメイは警官として犯罪者を捕らえることで昇華したが、リンは別の小児性愛者を直接殺害することで癒した。  殺害方法は、靴箱と一緒にしまわれていた未解決事件の書籍がヒントになったようだ。そこには1989年のジュスティン・バーローの事件が記されていた。バーローの件は、ジョエルの事件簿の中に含まれている。書籍の【吸血鬼】事件のページに後ほどリン自身が調べたのか、シドニー・ウッドとレイ・スーザンの事件の新聞記事が挟んであった。  書籍や新聞記事とともに見つかったメモ帳に人名と時刻や地名が書き残されていた。人名は模倣犯の被害者たちと一致する。 「彼女は被害者の選定、生活サイクルの観察などには非常に慎重な反面、指紋や毛髪には驚くほど無頓着だったようだな」  ジョエルがメモ帳を見ながら呟いた。 「彼女はなぜ……この事件にこんなに心酔したのでしょう?」  謎の部分はまだまだあった。リンが自ら命を絶ってしまったため、詳しい動機の解明は難航しそうだ。  数日後、2001年ハリー・ブラウンの事件から、今回のジョン・モートンを含む六件がリンドレイ・キルギスの犯行とほぼ断定された。  リンは2001年にブラウンを殺害。翌年、大学卒業と同時にニューヨークへ移住。その後、バージニア、ノースカロライナ、テネシー、ミズーリと各州で一件ずつ犯行を重ねては移動し、最後にここイリノイへ来た。看護師としては優秀だったらしく、勤め先の医院には不自由しなかったようだ。  全ての件で必ずしも「神の恵み」が関わっていたわけではない。しかしリンは出所した児童性愛者を何らかの方法で探し出し、殺していた。おそらくは地域で開示されている性犯罪者の居住情報ではないかとみられている。  このセンセーショナルな連続殺人事件はマスコミ各局で報道合戦が繰り広げられた。メイやジョエルの元にも記者が殺到したが、デイビスが盾となってくれた。全ての事実は刑事局の会見でのみ語るものとして、二人はノーコメントを貫いた。  世論は二つに割れた。たとえ相手が性犯罪者だったとしても殺人は許されないと、ミーガン法の是非にまで論議は及んでいく。犯罪被害者の遺族側はコメントを避ける者がほとんどだったが、中にはリンの行為を擁護する遺族もいた。そしてそれを非難する者も出る。パーリアヴィルのような性犯罪者を隔離する町を各地に設けるべきだとホワイトハウス前をパレードする人々まで現れた。  それらの喧騒と離れた静かな刑事局のミーティングルームで、メイはジョエルと向かい合っていた。 「キルギスの件が、あんな形で終わったのは非常に残念だが……君とはここでお別れだ。私はこれから」 「クレアモントを追うのですね?」  メイはジョエルの綺麗なダークブルーの瞳を見つめた。  驚いたことに彼とは二週間、モリスンやキルギスの件で一緒に動いたのはわずか四日ほどだった。しかしメイはアンディのことを話したこともあり、ジョエルに対し親しみのような感情を抱いていた。  もちろんジョエルの方がそんなことを思ってもいないことはわかっている。彼にとってメイの存在は模倣犯をあぶり出す為の参考資料みたいなものだったということも。 「個人的には……追わないで欲しいです」  そんな言葉は無駄だとメイもわかっていた。そもそもジョエルはこちらの件を追っていたのだ。 「あなたはアリスという少女を……何だと思っているのですか?」  メイはその名を口にするたび、背筋に悪寒が走るのだった。というより本能が、彼女の存在を深追いしない方がいいと警笛を鳴らしていた。 「私に明言できない。ただ、クレアモントと彼女はつながっている。間違いなく」 「カサンドラ・イネスの著作では、バーロー殺害の犯人を【吸血鬼】と呼んでいました。そしてリンのメモにも何度も【吸血鬼】の文字が」 「……吸血鬼か。君はそんなものが存在すると本気で信じているのか?」  言葉とは裏腹にジョエルの目に軽蔑の色はなかった。本当は彼自身も何かに気づいているが、それを言葉で認めるのは慎重になっているかのように。 「……説明のつかない存在なのは、確かです」  レイの貸倉庫を訪ねた少女とアリスが同一人物だと考えるのは乱暴な話だとメイにもよくわかっている。しかしローレンスから聞いたアリスの外見的特徴とジョエルが見た防犯カメラの映像の少女が多くの点で一致することは確かだった。ただ、それを認めてしまうと恐ろしい矛盾が説明できない。レイの件は、もう十年も昔のことなのだ。 「アリスがそうだと?」  だからジョエルに問い返され、メイはうなづくことができなかった。  ただ一方で、あれらの被害者はリンの犯行と比べてもあきらかに違っていた。同じ大量出血が死因でも、あのように安らかな顔をしたミイラのような遺体にはならない。【吸血鬼】の被害者たちは、まるで母の懐に抱かれた赤子のように微笑みすら浮かべているものもあった。  メイも実際にヒューバート・モリスンの顔にそれを見ていた。 「……アリスは存在が定かではないが、クレアモントは銀行口座があり、元貴族だという身元もある」 「しかし彼を追った人は……」  あなた自身が言ったではないか。  山中で遺体で発見されたと。  【吸血鬼】の被害者たちと同じ状態で。  ジョエルは何も答えなかった。  メイも決意を秘めたその顔にそれ以上何も言えなかった。
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