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ⅩⅤ
あの日――メイがあわただしく出て行った後、ローレンスはラグについたコーヒーのシミをとるのを諦めた。
警察、マスコミともに調べつくされた隣家から引き上げ、今は近隣の安眠を守るためのパトカーが一台止まっているだけだ。
時計の針が夜中の一時を過ぎていることに気づいたとたん、ローレンスの身体は急に重くなった。
もうこのまま寝てしまおう。明日は講義もないし、朝、シャワーを浴びればいい。二階へ上がろうと、引きずるように足を動かした時だった。
ギ――ッ
階段の裏にあるドアが軋む音をたてて開いた。たしか地下室への入口だ。
ローレンスは動けなくなった。
闇に包まれた廊下の奥を凝視していると、暗がりから影が床を這うようにこちらへ伸びてきた。やがてそこから白いサマードレスの裾が見え、続いて裸足の白い小さなつま先が現れた。
ミシリと床板が鳴る。
「……アリス?」
その声が相手に聞こえたかわからない。ローレンスの喉は張り付いたように強張り、声は震えていた。
次の瞬間、何者かにローレンスの身体は引き倒された。
顔に何かが降りかかる。くすんだ砂色の髪。
アリスが彼を見下ろしていた。
信じられない力で押さえつけられ、身じろぎもできなかった。ローレンスは廊下の真ん中で、アリスに押し倒されていた。
アリスが笑った――ように見えたが、違った。口を開けたのだ。
小さな白い歯が並ぶ前歯の左右に二本だけ、牙のように尖った犬歯。
叫ぶ間も与えられず、ローレンスの首にそれがめり込む。
ローレンスは痛みに叫んだはずだが、自分の声が聞こえなかった。いや、悲しいほどのかすれ声はもれていた。喉から口にかけて自分の血が逆流し、吐き気がこみ上げる。こめかみの辺りでドクドクと血の流れる音が聞こえる。
身体の感覚が無くなり、アリスに噛みつかれている部分だけが、熱い。
ところが次の瞬間、不意に痛みも恐怖も消えた。
かわりに今まで感じたことのない高揚感がローレンスを支配する。
不思議な感覚だった。大学生の頃、ルームメートに勧められてマリファナを吸った直後に似ていた。肉体と精神が分離する……そんな感覚。諦念ではなく、心地良い感覚だった。
初めて「死」を間近に感じた。理解した。
ゴクッゴクッ
アリスが喉を鳴らして飲む音が聞こえる。
ダメだ、待ってくれ。
ローレンスはあわてた。
「ま……待つ……んだ。この……ままでは……君が……マズい……こと……になる……」
アリスがゆるゆると彼の首から離れた。
その目は血走り、青い瞳孔は不気味なほど輝いている。小さな唇からしたたる血が、ローレンスの首元を濡らす。
「き、君には……保護者が必要……なはずだ」
アリスはローレンスを押さえつけていた力をわずかに緩めた。
「君は……次の保護者を……見つけないうちに……モリスンの家を……出なければ……ならなかった」
気が遠くなりそうなのを必死で堪え、ローレンスは彼女に話しかけた。
「思……いのほか……早く警察が来たからだ」
アリスは何も言わず、ただローレンスを見下ろしている。
「ぼ、僕なら……君の……保護者に……なれる」
「……何のつもり? 自分で何を言っているのか、わかっているの?」
初めてアリスが言葉を発した。
それは今まで彼が見てきた、装った子供の口調ではない。本来の彼女自身の言葉だ。
「今までのように……異常者を選ぶ必要もない。僕なら警察に追われることもない」
力の入らない手で首の傷を押さえると、不思議なことに出血が止まった気がした。しかも声もしっかり出るようになった。アリスが不気味に輝く目で、彼の目をじっと見つめているのと関係があるのだろうか。
我ながら変なことを言っているとローレンスもわかっている。だが一方で、否定しようもなく、人外の者に出会い興奮している自分がいた。
「僕ならば……君は安心していられる」
「何が安心ですって? あなたも……子供が好きなの? 目的は何?」
ローレンスはかぶりを振った。
「僕は……君の物語が欲しい」
「どういう意味?」
「君のこと全て。いつ、どのような状況で、今のような姿となったのか。そして……君をそんな風にした相手について……教えて欲しい」
アリスは血に濡れた口元を拭うと、呆れたようにローレンスを見返した。
「あなた……別の意味で異常よ」
五日後、警邏のパトカーも去ると、荒れ果てた隣家には、夜中に興味本位で訪れる若者だけとなった。世間の注目はワシントンの高校で起きた銃の乱射事件に移っている。何の進展もない事件は、マスコミも次第に扱わなくなっていった。
そしてモリスンが殺害された日から、二週間経った。
アリスはその間、ローレンスの言うことを守り、家から一歩も出なかった。じつは、彼女は初めて会った朝のように直射日光さえ避ければ、昼間でも外へ出られるらしい。しかし、やはり身体的には夜間の方が活動しやすい。理由は彼女自身わからないのだが、ローレンスには伝え聞いてきた吸血鬼のイメージそのものだった。紫外線に弱いのは確かなようだ。
あの日、陽が傾くのを待ったアリスはモリスンの家の裏口を出ると、すぐ隣のローレンス家の地下室上方につけられた明かり取りの窓――わずか十インチ(三十センチ弱)の隙間に身体をすべりこませた。
彼女が身を隠してから三十分も経たないうちに、FBI捜査官がモリスンの家に踏み込んだ。彼女が侵入時にたてた物音もローレンスが家にいれば気づいたはずだが、彼はちょうどメイたちの車を不審に思って外に出ていたところだった。
「いろいろと幸運が重なったのね」とアリスは大人びた笑いをもらした。
アリスの荷物は、傷だらけの赤いサムソナイトのスーツケースのみだった。それをローレンスはいまだ見せてもらっていなかった。彼がアリスの部屋として提供した客間のベッドの下に置いてあるのは気づいている。正直言うとローレンスはその中身に非常に興味があったが、触れないことにした。まずはアリスの信用を得たいからだ。
アリスはモリスンと十年近く一緒に暮らしていた。
モリスンは少女の誘拐未遂で逮捕されたが、その目的は性的欲求からではなく、アリスに言わせれば、美しい人形を愛でるようなものだそうだ。事実、彼は精神的にとても未熟で、アリスを姉や母のように頼りにしていた。
モリスンは幼少時父親に捨てられ、身体を売って生計を立てていた母親も性病で亡くなる。その後養護施設へ送られたが、そこで自分より幼少の子供たちの面倒を見ているうちに変な衝動に気づいたらしい。しかしどんなに人形のように美しくても、人間の子供は口をきく。大人しいモリスンは逆にからかわれることが多かった。
「そういう意味ではヒューは異常だった。女の子が……女にならない、永遠に変わらない事を求めたの。皮肉だけれど、私は彼の理想だった。だから私もヒューとは長くいられたのね。私と出会っていなければ、彼は理想の人形を求めて、女の子を攫っては殺していたかもしれない」
アリスの前のパートナーであったレイ・スーザンからモリスンへと移行した経緯をアリスは語ることはなかったが、ローレンスにとっても特に関心はなかった。アリスはモリスンとの出会いをただ「十年ほど前」とだけ話した。
アリスはモリスンの孤独を埋め、殺人衝動を抑える代わりに、時折モリスンから血をもらっていた。初めてローレンスが吸われた時のように思いきった量ではない。わずかな渇きを癒すだけだ。
「あなたの血を吸った時は……殺してしまう気だったから」
そう笑うアリスにローレンスは慄いた。少女の見た目から、つい忘れてしまうが、アリスは人ならざる存在だった。子供の力でないのは知っている。その気になればローレンスの首を捻るのも容易いだろう。
「もしや……誕生日だと言ったあの日……食べたのはチェリーパイではなくて」
モリスンは具合が悪くて出てこられないと言っていたのをローレンスは思い出した。
「……あなたにドレスの染みを指摘された時には正直動揺したわ」
アリスの答えにローレンスは絶句した。
「でもそれで、彼女の正体に気づく事ができたから……あなたには感謝しているわ」
「……リンのこと?」
「あの女が私の服を脱がせるため身体を近づけてきた時わかった。彼女から血の匂いがしたの。……男の血の匂いがね」
「そんなことまで、わかるのか?」
「そりゃ……私は色んなものの血を吸ってきたから。老若男女、犬、猫、ネズミ……」
「うっ……」
思わず顔をしかめたローレンスをアリスは小馬鹿にするように笑った。
「生き延びるため、穴蔵みたいなところで過ごした時期もあったわ。……生き延びるためって、おかしな言い方だわね」
アリスの笑い声はガサガサと掠れていった。その暗い瞳は、少女のものではない。
ローレンスは粟立つ腕を搔き抱いた。しかしアリスから目を離すことができなかった。
「僕は……最初、勘違いしていた。君がヒューに攫われて、監禁されているのかと」
モリスンの事件の後、ローレンスはあらためてアリス・チェンバースのことを調べた。アリスの正体だと思っていた少女の名前だ。
だが彼女は別人だった。失踪直後の三歳で殺されて、自宅近くの沼に沈められていた。もっとも遺体が見つかったのは五年も経った今年のことだが。
「私の名前は、アリス・マイルズ。生前の名前だけどね。八歳で私は……人ではなくなった。子供の身体の中で、精神だけはあなたよりずっと年老いているわ。私はイギリス人よ。貧民街で……死にそうだったのを彼に救われた」
「彼?」
「……あなたが知りたがっていた私を怪物にした男よ」
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