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「私が十二歳の時、隣の家にクレアという子がいたの」  リンはそう言うと、チョコレートのアイスを口に運んだ。  間接照明だけにした薄暗い部屋で、ローレンスはリンとソファに並んで座っていた。目の前のTVではモノクロの古いホラー映画らしきものがやっているが、二人とも見てはいなかった。 「クレアは私より一歳下だったんだけど、すごく気が合って、学校から帰ると毎日のように遊んでた。……ママは私たちのこと本当の姉妹みたいねって言うくらい」  ローレンスは黙ってうなづき、コーヒーを飲んだ。  少し熱過ぎたのか舌がひりついたが、アイスを食べながら口にする分には問題ないかと考えながら、視線はリンの濡れた唇の上で止まった。 「けど……クレアが十歳になった時、全てが変わったの」  そう言ってからリンはどう話し出そうか逡巡しているように見えた。アイスも本当に食べたかったわけではなく、サイドテーブルに置かれた小皿の上で溶け、すでに液状になっていた。 「両親が離婚して、クレアはママ……ジーナと一緒にその家に残った。しばらくしてケビン−−ジーナの恋人−−が出入りするようになったんだけど……」  リンは言いたいけど、言葉にするのは気が進まないという感じだった。  なんとなくローレンスにはわかった。そういう話を書いたことはないが、話しづらい内容というと想像はつく。 「……その……ケビンは……異常者だったの」 「うん。クレアに手を出してきた……とか?」  リンはソファの上で膝を抱えていた。深刻な話をしているのに、ローレンスは不謹慎にもぴったりしたジーンズに包まれた彼女の脚の線を魅力的だと思った。 「はっきりそうは言ってなかったけど……たぶんそう。すごく困ってた。でももちろんクレアからジーナには言えない。私も助けてって言われたけど……十二歳の子供には何かできるとは思えなかった」  リンは膝の間に顔を埋めた。 「でも私がジーナに言わないと……あの子は言えないのだから。明日こそ言おう、そう思った晩……」  リンの小さな肩が震えはじめた。  ローレンスは伸ばした腕を彼女の肩に回し、なだめるようにさすった。柔らかな髪の感触を指先に感じる。 「隣にパトカーが来て……泣き叫ぶジーナの声が」  ローレンスは肩をなで続けた。 「ケビンが手錠をかけられて警官に引っぱられて出てきた……その後から黒い袋を乗せた担架が……」  リンはローレンスの肩に顔を埋め、嗚咽をもらした。 「クレアは……死んだ。ケビンに殺されたの」  ローレンスはリンをそっと包み込むように抱いた。柔らかいブルネットの髪が両腕に流れ落ちる。 「明日こそ言おう、なんて、先延ばしの言い訳だった」 「そんなことない。僕だって、その歳だったら何も……できなかったと思うよ」  リンが顔を上げた。  黒い睫毛は濡れて輝き、揺れる瞳は美しく、胸をしめつけられた。 「君がアリスに一生懸命になる理由がわかった」 「……すごく後悔してるの」 「わかってるよ。クレアはきっと、君の気持ちをわかってる」 「ありがとう」  ローレンスの腕の中で、リンの指が彼の胸にそっと触れた。どういうつもりなのかわからなかったので、ローレンスは動けなかった。するとリンは何度か躊躇しながらも目を閉じてローレンスの唇にキスしてきた。  なおもローレンスが遠慮していると、リンは啄むように何度も唇に触れてきた。そうなるともう応えない方が失礼な気がして、ローレンスは彼女の顔を両手で包み込むと、キスを返した。  あとから思えばリンの仕草はぎこちないものだった。けれどもローレンスの方も火がついてしまい、彼女の細い腰に腕を回し、抱き寄せた。狭いソファーの上で彼女を抱えたまま押し倒す。ソファの上に広がった彼女の髪に顔を埋め、わずかに体重を預ける。リンはその間、じっと身動きしなかった。身体が硬い。ローレンスは少し身体を離し、彼女を見下ろした。リンは目を閉じていたが、眉根はかすかに顰められている。いや、薄暗くてよくわからなかったが、そんな空気が伝わってきた。 「……リン?」  どういうつもりなのだろう。  海老茶色の古いワゴン車の中で、二人は隣り合って座っていた。  メイ・ラペルは助手席から横目でジョエル・ランバートをチラチラと見た。  通った鼻筋、長いまつげの下の青い目、適度に日焼けした肌。クルーカットの黒髪は彫像のような顔を際立たせている。俳優の誰かに似ていると言われたことがあるはずだ。もっともメイにも今すぐに名前が浮かんでこないが。  とにかく、そんな整った容姿の男を間近で見るのは初めてだったので、つい不躾に見てしまう。  しかも彼が自分を相棒(パートナー)に指名したというのだから驚いている。  ジョエルはメイより三つ歳上の三十歳。  FBI行動分析課(BAU)特別捜査官になったのも今のメイと同じ歳だと聞いた。学校を飛び級し、大学では様々な博士号をとったという。彼はちょっとした有名人だった。同じ刑事課の同僚だけで、三人は彼のことを知っていた。その同僚たちはやや畏怖の念すら抱いているようにメイは感じた。 「……君は今『なぜ自分が指名されたのだろう』と考えているところか」  ジョエルは前方を見つめたまま、呟くように言ったので、メイは最初自分に言われたのだと思わなかった。彼が近所のドーナツショップで買ってきた紙コップの紅茶を口をつけ、ダークブルーの双眸をこちらに向けたので、初めてメイの肩が跳ねた。 「え、ええ。正直言って戸惑っています」  ただの話の切り口に過ぎない。なのになぜか緊張感を覚える。  まるで何かの面接試験を受けているような気がした。  こんなに相手を緊張させるのは、捜査官としては優秀と言えないのではないのだろうか。メイは思った。それとも自分だけが萎縮してるのだろうか。  FBI捜査官が地元警察と事件を捜査するのは決して珍しいことではなかった。特に彼らが担当するのは、州を跨ぐ犯罪者だ。むしろ地元警察の協力が欠かせない。その点は疑ってはいない。メイが解せないのは、ほかに優秀な刑事は山といるのになぜ自分なのかということだった。  その答えは彼がシカゴ(ここ)に来た理由を語った時にわかった。  三日前、朝一番で刑事部長に呼び出しを受け、メイは緊張した面持ちでデイビスの部屋へ入っていった。  いち警部補の自分が、刑事部長のオフィスに一人呼び出されるということは、なにかやらかしてしまったからに違いない。先日の殺人事件の現場で吐き気がこらえきれず、あわてて廊下へ出ようとして鑑識が調べていた足跡を思いきり踏みつけていったことだろうか。始末書は書いたはずだ。  ところがオフィスにはもう一人見知らぬ男がいた。それがジョエルだった。  デイビスも首を捻っているように見えた。FBIの優秀な捜査官が、こんな落ちこぼれ女警官をわざわざ指名したことに。 「ランバート特別捜査官は……ある事件を追っている」  女性のパートナーが欲しい場合もたしかにあった。容疑者(ターゲット)が女性の場合などだ。トイレから逃げられるのを防ぐため、一緒に入ることもある。 「それらの事件が……はたして連続したものかも断定できないのだそうだ」 「そうなんです。もちろん上司の許可を得てここに来ていますが、まだ関連性を見い出せていないというのが正確なところです」  デイビスの言葉を継いで、ジョエルが客用のイスから立ち上がった。 「……ということは、複数の事件なのですか? どのような?」  ジョエルの返事を聞いたとたん、メイは自分がなぜ呼ばれたのか、敏感に察知した。 「主に児童性愛者(ペドフィリア)が多い。被害者は全員男……そして遺体には共通した特徴がある」 「……特徴?」 「全身の血の七〇%以上を抜かれ、死亡している。首には……二つの噛み傷のような穴が開けられている」  異様な死体を散々見てきたデイビスもジョエルの言葉に顔をしかめた。 「君を指名したのは……」  ジョエルに見つめられたメイは、わざとらしく肩をすくめて答えた。 「……署内で一番暇だからですか?」  ジョエルの冷たい表情にメイは鼻から息を吐いた。  これは冗談の通じないタイプのようだ。 「私が、”サバイバー”だからですか?」  ジョエルはうなづいた。  彼と初めて交わした会話を思い出し、メイの気分は緊張からうんざりしたものに変わっていた。  あの地獄の日々を思い出させる気なのか。  自分を誘拐した異常者アンディ・ヘンドリクセンとのことを。
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