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「君には極めて不快な記憶とわかった上であえて聞く。……実はシカゴ市警へ行く前に君の主治医のミード医師に会った」 「エイプリルに?」  メイは思わず顔を上げ、ジョエルを見た。ダークブルーの瞳がこちらをまっすぐに見つめ返していた。 「……でしたら、私のことは全てご存知なはずでしょう?」 「いいや。守秘義務というやつで、何も具体的なことは教えてもらえなかった」 「自分で言うのもなんですが、有名な事件です。調べればわかることですよね?」  メイは声が尖ってしまうのを隠せなかった。 「……一九九二年八月九日、当時九歳だった君は母親と二人の妹と一緒にサンタモニカにあるショッピングモールへ行った」  ジョエルがかまわず語りはじめたので、メイは目を閉じると浅く息を吐いた。 「午後二時頃、君はトイレに行きたくなり、母親に断り、一人で近くのトイレに入った。その頃母親の……」 「……母の過失ではありません」 「彼女は二人の幼い娘たちの買い物で目が離せず、君を一人で行かせてしまった」  メイは思わず口をはさんだが、ジョエルは話を続けた。彼にとって母のことは重要ではないようだ。 「トイレを出た時、駐車場の入口で困っているアンディを見つけた」 「……あいつは松葉杖でした」  今なら言えることだが、それは常套手段だった。相手を油断させるための。 「組み立て式のベビーベッドの部品を積んだカートを押していた。君に駐車場まで押すのを手伝ってもらえないかと言った」    メイは思い出した。そう頼まれた時、幾分迷ったことを。  だが、アンディは娘の話をした。このベッドは娘のために買ったと。もうすぐ生まれるんだと嬉しそうに。  一度メイは断った。アンディは当然のように明るく笑みを浮かべ「そうだよね、警戒されるのも当然だ。すまなかったね」と言って、再びぎこちない動きでカートを押して歩き出した。  思い出すと目の奥がチリチリと熱くなる。あの時、母のところへ戻っていれば。 「君は結局、アンディを手伝い、車までカートを押した。車はAMCイーグルワゴン。ベビーベッドを積み込む際、背中を向けた君にアンディはスタンガンを当てた」  その瞬間のことはよく覚えている。  痛みより衝撃の方が強かった。アンディは素早くメイの両手を背中に回し、結束バンドで縛ると、口には粘着テープを張りつけた。手馴れていた。  しびれるような痛みからか、恐ろしさからか、涙がにじみ、視界がぼやけた。 「アンディは君をトランクに押し込むと、十号線をアリゾナ州フェニックスの自宅まで延々走らせた。……その間、君はどうしていた?」  何でそんなことを聞くんだろう。本当に思い出したくもないのに。 「……寝かせた上からベビーベッドで押さえつけられていたので動けなかったし、男を刺激して殺されたくなかったから、動きませんでした」 「その冷静さが君を救うことになったのかもしれない」  本当にそうか。私は救われたのか。  メイは笑い出しそうになったが、()えた。 「自宅に着くと、アンディは君を地下室に入れた」  正確には地下室の配管に首を(くさり)でつながれた状態でね。メイは心の中で付け加えた。 「一週間、君はそこに閉じ込められていた。何度か助けを求めた?」 「ええ、でも犬の鳴き声が返ってきただけでした」  アンディの飼い犬、黒いラブラドールレトリバー。名前はケルベロス。メイの首をつないでいた鎖もケルベロスのお下がりだった。 「君は覚悟を決めた。生きて家に帰るために」  そう。もう一度、両親とアンバー、ジジに会うために。アンディに気に入られようと決めた。  聞きたいなら聞かせてあげる。  メイは一度深く息を吸うと、目の前のジョエルをアンディであるかのように睨み、自ら話を続けた。      「一週間、着替えはもちろん、トイレも許されず、出された食事はオートミールばかりでした。おかげで、それまでは嫌いではなかったオートミールは今では見るのも嫌に。トイレはバケツでした。かなり屈辱的でしたが、トイレットペーパーは与えられた」 「……アンディは君をどう言った?」 「いい子だ、賢い子だと言いました。君とならいい関係が築けるかもしれないとも」  ここ数年曖昧になっていたものが、録画した映像を見ているかのように、メイの網膜にアンディの顔がはっきり浮かびあがってきた。  冷静に描写すると、醜い男ではない。髪の色と同じ茶色の瞳は、まるで悪気がない。大人になった今、私情を挟まず見れば、むしろ異性を惹きつける魅力があるとも言えた。  しかし、彼は大人の女性を相手にできなかった。 「一週間後、君は後ろ手を縛られたままではあったが、家の中へ上がることを許された。家の外は見えたか?」 「『叫んでも、走って逃げようとしても無駄だ』と裏口から外を見せられました。たしかに周辺1ブロック四方は廃車に囲まれていて、ほとんど何も見えませんでした。いったいどんな場所なのかも最初はわからなかった」 「アンディの母親は彼が幼い頃病死。父親も一九八九年に事故死している。以来、彼は父親の自動車修理工場を継いでいた。仕事上の人付き合いは若干あったようだ。父親ほどではなかったが」 「親しくしている人はいなかったと思います。私がいた四年間……家に誰かが訪ねてきたこともありません」  ジョエルが少し逡巡(しゅんじゅん)しているのにメイは気づいた。  同じ顔を見たことがある。あの質問をするときのエイプリルと一緒だ。 「私が……あの男との行為にいつ応じたのか、聞きたいんですね?」  ジョエルは怒りのにじむメイの視線をしっかり受け止めた。  メイも彼がこの態度を覚悟したうえで聞いていると思い、和らげるつもりはなかった。  と言うより無理だった。  怒りを抜きにして、あの話をするのは無理なのだ。 「家の中を一通り案内され、最後に二階の彼の寝室に通されました。アンディは……まず私に……アレを(くわ)えさせました。はっきり言った方がいいですか?」 「いや、かまわない。君は抵抗したか?」 「はい、もちろん。最初は泣いて懇願しました。初めて、殴られました。あの男にあんな力があるのは驚きましたが、部屋の隅まで私は吹き飛び……気づけば、鼻血が出ていました」  耳のすぐ側で鐘が鳴り響いているような、耳鳴りがした。眩暈(めまい)もあり、しばらく床から起き上がれなかったのを思い出した。 「『いい子に戻れ』、そう言われました。私は……目をつぶって、銜えました。頭を押さえつけられ、喉の奥まで突っ込まれ、胃の中のものを戻してしまいました」 「……アンディはまた君を殴った?」  何だろう。この人は、この拷問をいつまで続けるつもりなんだろう。 「いいえ、それよりも『よし』と()めてくれました。その後、初めてお風呂に入れてくれました」  ああ、また「くれました」の口調に戻っている。  メイはきつく目を瞑った。  それは後遺症のひとつだった。アンディとの主従関係が口に出る。エイプリルは「あることだ」と言ってくれたけれど。 「……久しぶりのお風呂は本当に嬉しかった。身体を……あの男に洗われていたとしても」 「その後、アンディは何か要求してきた?」 「……いいえ、その晩はそれで。……次は三日後でした」  その時のことは断片的にしか思い出せない。  アンディのやけに白い、湿った手。電球の笠のオレンジ色のギンガムチェック模様。色あせた緑色のカーテン。  何も感じないようにしようとしていた。ただひたすら数分か数時間かわからない時が過ぎるのを待った。それなのに今、メイは吐き気がこみ上げて口を押さえた。手のひらに冷や汗がにじんでいた。 「……その時のことも話さなければいけませんか?」 「いや、いい。それから君は十二歳まで約四年間、アンディと暮らした。その間、彼との関係はどんな風に変化していった?」  喉までせりあがっていたものが、胃に戻った。  メイが呼吸を整えるまで、ジョエルは何も言わず待っていた。 「あの男は……私に恋人であり、母親であることを求めました。私も……言うことさえきいていれば、彼は優しかったので、恐怖心を……同情に変えて、接していました」 「君に……生きる気力を持続させたものは何だ?」  ジョエルの質問で真っ先に浮かんだのは、ドロップの空き缶だった。 「初めて地下室から出された晩、まず見せられたのがドロップの空き缶でした。中には髪留めが……ゴムとか、ヘアピンとか……女の子のものです」 「六つ入っていた。ちょうど、アンディの家の裏庭から発見された少女の遺体の数だけ」  ジョエルの言う通り、それはアンディに殺された女の子たちのものだった。アンディはアクセサリーを見せた後、メイを裏庭兼廃車置場に連れ出した。アンディは懐中電灯で地面を照らすと『君も仲間入りしたくなければ、言うことをきいた方がいい』と言った。  それからの四年間、メイは気持ちがくじけそうになると、缶の中の髪留めを思い出した。自分の短い巻き毛を留めていたグッディのピンは、ショートパンツのポケットにしまった。母親にスーパーで買ってもらった、黄色い星がついている、お気に入りのピンだ。 「私のピンは……決してあいつのコレクションに加えてやるもんかと思っていました」  よし、また怒りが戻ってきた。よかった。  メイは怒りを持続したかった。そうしないと(みじ)めな記憶に押しつぶされそうになるからだ。 「……君は強かった。アンディを四年かけて、懐柔(かいじゅう)した。性犯罪の被害に遭い続け、気持ちを持続させることができるのはまれだ。…… 一九九五年十二月十八日、アンディは君をショッピングモールへ、初めて人前へ連れて行った」  その瞬間を思い出したメイの瞳には涙がにじんでいた。 「女子トイレに逃げた君は、その場にいた女性に声をかけた」 「……四年ぶりに泣きました。ちゃんと『助けて』って言えたことが嬉しくて。夢じゃないかと思いました」  アンディの家で何度も見た夢だった。またあの薄暗い部屋で目覚めて絶望的な気分になるのではと怯えた。 「君は保護され、アンディ・ヘンドリクセンも逮捕された」  女性警官に身体に毛布をかけられ、救急車に乗った時、ようやく現実だと受け入れられた。涙があふれて、止まらなかった。  泣いたのは苦しかったからじゃない。歓喜の涙だった。  ついにアンディを屈服させたのだ。私は勝ち抜いたんだ。  もうすぐ、パパとママ、アンバー、ジジに会える。赤ん坊だったジジなんて大きくなっているに違いない。  メイは近くの州立病院へ運ばれ、すぐに身体検査を受けた。  悪夢はもう終わったのだ、当時メイは思っていた。  早く家に帰りたかった。だから女性警官にアンディとの生活を尋ねられてもありのまま答えることができた。 「……終わったんだ、もう全部終わったんだ。私は家に帰る日まで、そう思っていました」 「ところが、違っていた?」 「エイプリルが言っていました。『サバイバーは勇者にもかかわらず、二重三重に苦しむことになるんだ』と」
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