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Ⅶ
「君の言う二つ目の苦しみとは?」
すっかり温くなっているであろう紅茶を口にし、ジョエルは問うた。
「私が病院に運ばれてすぐに両親と妹たちが会いに来ました。私たちは抱き合って泣きました。……でも、とにかく外が騒がしかった。警察関係者や病院の人たちも懸命に私を守ろうとしてくれましたが、人の好奇の目から逃れることはできません。私は夕方のニュースに大写しになりましたから」
メイは喉の渇きを覚えていた。これだけ話せば当然のことだった。
ジョエルに指示されたこの通りにメイが車を停めると、彼は表通りにあるドーナツショップへ向かった。その際、メイに何か一緒に買ってこようかと声をかけることもなく、ただ行ってくるとだけ言って出て行った。
その時も変わった人だという印象を受けたが、緊張の方が上回っていて今頃気づいた。この人に「普通」の気遣いを求めるのは間違っているのかもしれないと。
「それは私も見た覚えがある。ただ四年前の九歳の時の写真だったような」
「ええ、そうです。天然パーマがきつい赤毛とそばかすをもてあましていた……男の子みたいなスナップ写真。母が庭先で撮ったものです」
メイは当時を思い出し、苦笑いした。本人としては気に入らない出来だったが、マスコミで流されたそれは、彼女のプロフィール写真のようになっていた。
「家に帰り、自分の部屋が全く変わっていなかったんで、嬉しかったのを覚えてます。でも半年は外に出られなかった。外にはテレビ局や新聞記者……果ては、母を経由して手記を書きませんかって言ってくるジャーナリストの人とか」
そこまで言って、空咳が出てきた。
メイは口を押さえながら「話が長くなりそうなので、私も飲み物を買ってきます」と言うと、返事も聞かず、車の外へ出た。喉の渇きもあるが、何より気分転換がしたかった。背後で、ジョエルの声が「ああ、気がつかなかった。すまない」と言ったように聞こえた。メイは驚き、一度振り返ったが、彼はもうこちらを見てはいなかった。いわゆる天才と呼ばれるような人物特有の、興味の範囲外のことは一切気づかないタイプなのだろう。
同じドーナツショップでカフェラテを買って戻ってくると、ジョエルは助手席で分厚い黄色の書類フォルダの中身をパラパラめくっていた。メイとしては先にその書類……ジョエルが抱える事件の中身を知りたいところだったが、全てを話すまで彼はそれを見せようとはしないのだとなんとなく感じた。
「二つ目の苦しみについては、そんなところです。好奇の目にさらされ、さらには……私がアンディとどんな生活をしていたかということが、嫌でも……特に両親の耳には入ってきます、裁判以外のところからも。そんな二人の様子は妹たちにも伝わり……学校でも何やら言われるようになったのでしょう」
コーヒーではなく、カフェラテにしてよかったとメイは胃の痛みを感じて、思った。
「とにかく四年前には戻れないことを知ったんです。私と家族の間には見えない膜のようなものが張ってしまった」
自分を見るジョエルのダークブルーの瞳からは同情とは違うものがメイには感じられた。エイプリルと同じだ。知識としてはトラウマというものを理解しているが、決して実感をともなった共感ではない。おそらく行動分析課の捜査官になるにあたって心理学諸々は勉強したのだろうが、彼が真の意味で昏さを理解することはないだろう。
「三つ目は?」
ジョエルの率直な問いにメイの片方の眉が痙攣した。一瞬、「そんなものはない」と言おうとした。
「きっと君は私には理解はできないと思っている。そしてそれは正しい。……だからこそ教えてほしいのだ」
そうか。もしかしたら私から本当に聞きたかったのは、この部分だったのか。
メイは驚いた。
ジョエルを探るように見たが、彼の表情には依然からかいも同情さえも混じっていない。それは純粋にただ、自分がわからないものを「知りたい」という欲求だった。メイは深く息をすうと、吐くタイミングで答えた。
「……セックスができなくなりました」
メイはわざと、はっきり言葉にした。
「十四歳で、なんとか中学校に復学しました。その頃にはもう事件のことを覚えている子も少なくなっていました。……わざと離れた学校へ行ったのもありますが。友人もでき、親に内緒で夜遊びもしました。あなたにも覚えがありません?」
ジョエルは表情を変えることなく、首を横に振った。それは答える気はないということなのか、それとも品行方正で一切遊び歩いたりしなかったのか、メイにはわからなかった。彼の少年時代に興味を持ったが、今ここで彼が話すとは思えなかった。
「……すみません、そういう記憶がないなら。とにかく年頃になり、ボーイフレンドができました。こんなチンチクリンにも」
メイの脳裏にセオドア・ハントの顔が浮かんだ。もう十年以上会っていないのに……優しい眼差し、触れるとチクチクした短い金髪、唇の横に残る傷跡(五歳の時、ツリーハウスから落ちたらしい)……細部まで思い出せた。
「彼からデートに誘われました。十七歳の時です。映画を見に行った帰り……車の中で、別れ際にキスを」
まるで映画の一場面のように、その時のことがよみがえった。彼はメイの顔を両手で包み込むと、優しく触れてきた。そう、セディは紳士だったと思う。
でも……突然
「突然……あいつの顔が浮かんできたんです。アンディの……唾液の匂いまで……」
当時と同じ反応で、メイは眉根を寄せていた。
「もちろん彼が好きだったので、懸命に我慢していました。我慢って……その時点でおかしかったんですよね。でもきっと……そのうち素敵になるだろうって」
メイは思わず笑った。少し、涙がにじんだ。
「いわゆる……フラッシュバックというものだね」
ジョエルの冷静な言い方が憎たらしく、上司だということも忘れ、メイはきつく睨みつけた。
「エイプリルもそう言っていました。あなたより、気遣った言い方をしてくれましたけど」
聞くだけ聞いて、「参考になった、ありがとう」で終わりはしないだろうか。しかも自分の話がどう事件に関係するのかもわからない。
メイは訝しげに、黄色いフォルダを見る。それはジョエルの膝の上、浅く指を組んだ彼の両手の下にあった。
「でも当然、彼は次の段階に進みたがる……ですよね?」
ジョエルの表情が変わらないのを見て、メイは感心した。この美男子の少年時代が全く想像できない。彼は好きな女の子に触れたいという衝動がなかったのだろうか。それとも今自分のことは関係ないということか。
「決定的だったのは……高校の卒業パーティ(プロム)で、彼と……」
「……彼と?」
「その……行為の途中で、思わず吐き気がこみ上げてきて、本当に吐いてしまいました」
このことを話したのはエイプリル以外で彼が二人目だった。まさか男にするとはメイも思わなかった。
「その後、彼とは?」
「その場はなんとかごまかせましたが……私がもうダメでした。自覚してしまったから」
「それは……彼への、あるいはアンディへの嫌悪感ではない。君が……快楽に溺れることへの嫌悪感なのだと思う。もちろんアンディは密接にからんでいるのだが」
ジョエルの言葉がエイプリルとほぼ同じだったので、驚いた。
「私……あなたに分析されるために呼ばれたのですか?」
「いや、君をいじめるためにこんな話をさせたのではない。思い出してもらいたかった、今でも君に影響を与え続ける男に対する気持ちを」
悔し涙かわからないが、メイはわいてきた涙を右手の甲でぬぐった。
「気持ち……」
「君は今でもミード医師からカウンセリングを受けている。薬も処方されていることはデイビス刑事部長からも聞いている。君はタフだが……なぜあえて、大学を卒業後、わざわざ警察学校へ入った? まだまだ男の割合が多い職場を選んだ?」
ジョエルの目はあいかわらず何を考えているのかわからなかった。言葉の通り、理由が知りたいだけだろう。メイは軽く頭を振った。
「……自分でもよくわかりません。今でも凄惨な現場では動揺するし、自分でも向いている職場とは思えません。でも……エイプリルが言うには、私はアンディの代りに罰する対象を欲しているということらしいです」
「たしかに……アンディ・ヘンドリクセンは十年前に死刑が執行された」
当時、その事実を耳にしたメイは自分の辛さが何も終わってないことに気づいて愕然としたのだった。
罰したい相手はもうこの世にいない。
「やつの死を知った時、実は……死のうとしました。手首を切り、バスタブに突っ込んだ。家族に見つかり、すぐに助けられましたが。あんな思いまでして生還した私がなぜそんな行動に出たのか、家族は図りかねている様子でした。やつのことを思い出したせいだと……」
「が、違うと?」
「……エイプリルの言う通りかもしれない。アンディが……」
語尾が小さくなったせいか、ジョエルは無意識に顔を近づけてきた。
今までで一番距離が近い。鼻頭がくっついてしまうかと思った。
メイの怯えに気づいたのか、ジョエルは彼女の顔から少し離れた。
「言っていい。私しか聞いてないから」
「あいつを……殺せるなら、私が殺したかった」
声が震えてしまったが、ジョエルはわずかに唇の端を上げ、うなづいた。満足したのだろうか。その表情の意味を図りかねていると、ジョエルは自分の膝の上にあったフォルダをメイの両手に乗せた。
「十五件の未解決殺人事件の捜査資料だ。原本があるもの、コピーだけと入り混じってはいるが、事件ごとには分けてある」
メイはフォルダを開いた。厚みは様々だが、それぞれクリップで留めてあるのが事件別ということなのだろう。一番古そうな資料を見て驚いた。
「一九六一年……ニューオリンズ。こんな頃から?」
「今のところ類似した事件として、こちらで遡ることが出来たのはそれが最古だが……それ以前にもあるかもしれない」
当時の写真はモノクロだが、酷いのは充分伝わってきた。ミイラのように乾燥した皮膚の男の遺体。喉に噛み傷のような二つの穴。
被害者アーデン・パインズは死亡時三十五歳。
ただ、その死に顔はなぜか安らかに見える。どういう殺され方にしろ、この顔で死ぬことはない気がした。
当時の新聞記事の切り抜きも入っていた。『吸血鬼の仕業か?! 男性失血死』と大きな見出しが躍る。
「吸血鬼」
メイは失笑した。
「こちらを見てくれ。何か気づくだろうか」
ジョエルが手を伸ばしてきて、資料の最上部からクリップ留めした紙束をメイに手渡した。
「二〇〇八年……ミシガン州デトロイト」
「廃墟で見つかった。二〇〇七年十月に出所後、わずか数ヶ月後に殺されたケイレブ・ウィットワース」
ジョエルは数枚の遺体のスナップを広げた。こちらはカラー写真で、細部にわたり撮られている。
「この……首の穴、少し妙ですね」
「そう、それは錐状のもの……検死官の個人的推測だが……ネイルガンではないかと言っている」
「つまり……」
「加えて、この遺体は長時間水につかっていた。丁寧に拭き取られ、後から服を着せてはいるが、皮膚はふやけていたらしい」
メイは……ケイレブの死に顔に目を凝らした。
目を閉じてはいるが、口元は苦痛に歪んでいるように見える。
「手首にも擦過傷がある。長時間どこかに縛り付けられていた可能性が高い」
ここまで言われればメイにもジョエルが何を言いたいのかわかった。
「こちらは……模倣犯ですか?」
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