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Ⅲ
ローレンスが声をかけた時、隣人ヒューはあきらかに迷惑そうな顔をした。
火曜のみ、ローレンスの創作講座も夜間クラスがあり、その帰りのことだった。
男が家に入ろうとしていたのか、出ようとしていたのか最初わからなかったが、小さな門扉に手をかけていた。時刻としては午後十時を回っていたと思う。
歳はローレンスとさほど変わらない三十前後くらいか。いや、グレーの瞳が眠そうな瞼に半分隠れた目元からは幼い感じも受ける。うっすら生えた無精髭と、目の下のクマさえなければ、もっと若く見えただろう。
ローレンスの家の前にある外灯の光にちょうど背を向けるような形で、男は彼の方に向き直った。外灯の影になっているのもあり顔色はよくわからないが、目つきが妙な感じがする。
ローレンスは少し後悔しはじめた。
人違い? 手入れされてない前庭を見て、空き家と思って忍び込もうとしていたヤク中か?
「隣に住むローレンスといいます。お嬢さん……アリスとは先日の昼間、お会いしたんですが」
引っ込みがつかずローレンスは右手を差し出したが、男は黒っぽいロングコートのポケットに両手を突っ込んだまま、握手をする気はないようだった。
「あの、人違いでしたか? すみません、てっきり」
「……いえ、ヒューバート・モリスンと言います。アリスは……姪なんです」
モリスンは無理やり口の端を上げて、微笑んでいるように見えた。
わずかに沈黙が二人を支配した。向こうは挨拶以上の話をしたくないのだろうか。
だがすぐにモリスン自身も戸惑っているのではと思い直し「どちらかへ出かけるところですか?」と質問した。
「ええ……仕事へ」
「アリスは?」
モリスンの表情に「お前は刑事か? 根掘り葉掘り訊く権利がお前にあるのか?」と浮かんでいる気がして、ローレンスは次の言葉で引っ込もうとした。
「僕は今帰ってきたところなんです。……その、隣のよしみで、何か困ったことがあったら訊いてください。家はそこなんで」
隣の我が家を指し、立ち去ろうとした。三ヶ月も声もかけてこなかったのだから、今後もそんなことはないだろうと思いながら。
「アリスは……あなたに何か言いましたか?」
その問いが妙だったので、ローレンスは振り返った。
自分を見つめ返すモリスンの顔が……怯えているように見えた。
ふと先日のリンの言葉が頭に浮かぶ。
『誘拐されたのかもしれない』
「アリスは……姉夫婦の子なんです。二年前に交通事故で死にまして、姉も義兄にも頼れる身寄りがなく、僕が引き取りました」
急に饒舌に語りだしたので、ローレンスは逆に不自然さを感じた。
「僕自身……病気を抱えてまして、その……色素性乾皮症ってやつなんですけど、要は太陽光線を浴びられないんです。それで昼間、こもりきりでして。こうして夜間、清掃の仕事をしています」
それで昼間姿が見えなかった理由はわかったが、それもまたローレンスは容易に信じられなかった。
「はあ、それは大変ですね。アリスも、もしや同じ病とか?」
先日の青白いほどの肌の色を思い出し、ローレンスはさりげなく尋ねた。あの日は昼間だったが、たしかに曇り空で、さほど紫外線はなかったと思う。
「いいえ、彼女は普通です。ただ僕がこんな身体なので、外へ一緒に出ることができないだけで」
「今……アリスは一人で家に?」
「そうですね。でも眠ってますし、しっかり戸締りもしてますので……ご心配なく」
その言葉を最後にモリスンは軽く会釈すると、ローレンスが来た方へ歩き去った。
ローレンスはしばらくその後姿を見送っていたが、次に隣家を見た。
静まりかえっている。
他の家もそうだと言われれば、そうなのだが。現に車道をはさんで向かいに並ぶ家々の窓もほとんど灯りが消えている。
ローレンスはどこか釈然としない気持ちで、玄関の鍵を開けると、明かりをつけた。
モリスンの話は一見、筋が通っていた。だが彼の声音や目つきに警戒心と怯えを感じたのは気のせいだろうか。
コートを脱ぎ、玄関ドアの側のコート掛けにかけると、その場でしばらく立ち止まった。
そう、あれは……まるであらかじめ暗記した答えを諳んじているみたいだった。もちろん姪っ子を引き取って以来、方々で似たような質問をされただろう。それでいつしかテンプレートの応答が出来たのかもしれない。
『アリスは……あなたに何か言いました?』
そうだ、あの言葉がひっかかったのだ。
その言葉をかわきりに、モリスンが饒舌に自らのことを語りだしたからだ。
バスタブに熱い湯をため、身体を温めると、着慣れた木綿のパジャマに着換えた。暖かいココアを入れたマグカップを片手に、書斎へ向かう。パソコンを立ち上げ、インターネットブラウザを開く。
行方不明の子供の情報サイトをいくつか見ていくと、あまりに膨大な情報量にため息がもれる。ダメもとで過去十年間で「アリス」の名を打ち込んでみた。本名ではないかもしれないのに。すると十数件ヒットした。顔写真を丹念に見ていく。
ある子供のページでローレンスの手が止まった。
アリス・チェンバース。
くすんだ砂色の髪。青い目。頬に散ったわずかなそばかす。
五年前、バーモント州で失踪。当時三歳。
現在八歳。写真は三歳のものだが……五年後だってそう極端には変わらないだろう。
「はあ……バカかお前は」
ローレンスは自分の行為に呆れ、思わずつぶやいた。ココアを一口飲むと、サイトを閉じ、メールを開いた。
一通のみ。アレックスからだった。
『原稿の進み具合はいかが?』
件名を見ただけで、ローレンスはメールボックスを閉じた。
アリス。
あれから姿を見ていない。
モリスンは眠っていると言ったが……それが真実とは限らない。今では、先日のリンの提案が突拍子のないものではないとローレンスも思いはじめた。
かりにアリスがアリス・チェンバースではないとしても。
隣家の二人が揃っているところを見てみるべきだと思った。
あの病的に(実際病気だったが)落ち窪んだモリスンの目つきが、気になったせいもあるのかもしれない。
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