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『彼女は黙っている方が綺麗だ。  ガイは思った。  こうして裸で横たわる姿を見ていると……なおさら、そう思う。  血の気が失われたリズの肉体は青白く、大理石みたいな色になってきた。そっと指で(へそ)の横に触れると、生前のように押し返してこない。  ほんの二時間前まで、ガイはリズと抱き合っていた。  心地良い疲労の中、ガイは眠っている彼女の顔にいきなり枕を押し当てた。当然彼女は暴れ、ガイの腕を強く掴んだ。血がにじむほど食い込む爪に顔をしかめながら枕を押し続けていると、やがて彼女の手は力尽き、ベッドから落ちた。  その瞬間、とてつもない快感が彼を襲った。  彼女をファックしていた時よりも強烈な快感だった。  静かになったリズは、美しい。デュラン家の地下室に並べられていた、防腐処理を(ほどこ)した美しい女性たちを思い出す。  万能感が全身を満たしたが、すぐに、自分のしてしまったことに愕然とした。両手で身体をかき抱き、ガイは震えはじめた。  俺はミスター・デュランになってしまった!  希代の殺人鬼、伝説の殺人鬼……パーカー・デュランに!』  そこまで書いて、ローレンスはデリートキーに右の中指を乗せたが、押さなかった。とりあえず保存はしたが、鼻から重い息がもれた。口にしたコーヒーもまるで泥水のようだ。  デュランをよみがえらせはしなかったが、十七歳になった前作の英雄ガイ・トレスは、同級生のそこそこかわいい女の子を衝動的に窒息死させてしまう。  目覚めてしまうーー殺人の快楽に。  デュランの気持ちがわかってしまう。  デビュー作のラストに描いた、デュランの担当医でガイの良き相棒だった精神科医ジョシュの懸念(けねん)が当たってしまったというわけだ。  陳腐(ちんぷ)すぎる。  ニーチェの言う、長く深淵を覗き込んだため「自らが怪物になってしまった」パターンだ。この後、ガイにリズの脳ミソをソテーさせたらどうだろう。  アレックスは笑うだろうか。  電話がかかってきて、ローレンスは出た。  リズのモデル……に勝手にしていたリン・キルギスからだ。 「今、ホールフーズの前にいるの。……来られる? 私が買い物して、そちらへ向かってもかまわないのだけど」  思いのほか、リンの口調は遠慮がちだった。 「いや、僕もそっちへ行く。ちょうど気分転換したかったところだ」  通話を終えると、ノートパソコンの電源を落としながら、ローレンスは思った。  気持ちを切り替えなければ。  リンに会った時、頭の皮が()ぎ取られ、頭蓋に開いた穴から脳ミソを露出させた姿を想像しないように。  スーパーで買い物をしているうちに、ローレンスは実際リラックスしてきた。  リンは隣人の話(美男子だがゲイで、同棲相手がしょっちゅう変わる)をしながら、(すずき)にパプリカ、ズッキーニなどをカートに放り込んでいく。一般的によく聞く女性脳はマルチタスクだというのを目の当たりにしているようだった。 「デザートにアイスクリームとかどうかしら?」 「それは……僕に聞いてるんじゃなくて、アリスにどうか?と言うこと?」 「ええ、もちろん」  ローレンスは首を横に振った。 「買ってもいいけど……まず二人が家にいるかどうか、いたとしても来てくれるかどうかもわからない」  モリスンと会った翌日すぐ、ローレンスはリンに話した。アリス・チェンバースのことは伝えなかった。今の時点では憶測の域を出ていないからだ。  もし自分たちの疑惑が杞憂(きゆう)だったとしても、隣家の様子を見に行く口実として、ディナーに誘うという意見は一致した。 「私はチョコが大好きなの……特にマシュマロ入りのやつ」 「好きなのを買うといいよ」  ローレンスの口からつい笑声がもれた。リンは恥ずかしそうに頬を染めながらも、冷凍庫からアイスを取り出して、カートへ入れた。 「それより……料理は大丈夫かな? 僕は正直言うと、苦手なんだ」 「白身魚なんて大体バターでソテーすれば食べられる味になるでしょ。あとはミートボールスパゲティ。これ、嫌いな子供はいないわよ」  ソテーと聞いて、ローレンスはさきほどまで書いていた小説を思い出し、苦笑いした。そんな彼をリンは不思議そうに見つめていた。  リンがキッチンで格闘している間、ローレンスは普段使わないランチョンマットを四枚、テーブルに並べた。一応、アリスとヒュー二人とも出席できた時のためだ。ナイフとフォークを揃え、キャンドルグラスを二つ、中央に置く。キャンドルに火を(とも)すと、オレンジ色の暖かい光に包まれた。  時計を見ると、午後六時を回っている。  そろそろ隣家を訪ねてもいい頃かもしれない。  ローレンスがリンに声をかけようとした時、ちょうど彼女もミートボールスパゲティの入ったボウルと鱸のバターソテーを盛った皿を手にキッチンを出てきた。 「すごく美味しそうだ」  ローレンスは心から言った。お世辞でなく、レストランのように盛り付けられていた。鱸のソテーにかかっている緑色のものは、バジルソースだろうか。褒められて、リンは恥ずかしそうに目を伏せると、テーブルの上に料理を並べた。  二人は隣家の緑のドアの前に立った。 「ノッカーなんて……昔の家みたい」 「前の住民の時は、呼び鈴が取り付けられていたんだけど、外したようだ」  リンは驚きつつ、ライオンの顔が輪を噛んでいるノッカーを打ち付けた。 「……留守かな」  何度か鳴らして、リンが残念そうにつぶやいた時、ドアが突然開いた。  隙間からアリスが顔を出した。  今日はきちんと髪も(くしけず)られ、パーティにでも行くかのようなバラ色のドレスを着ている。心なしか、先日より顔色もよく見えた。唇も先日と比べて子供らしい血色だった。 「こんばんは。ヒューはいるかな?」 「あの、よかったらディナーを一緒にどうかしらって……誘いに来たんだけど、もう何かお祝いしてるみたいね。素敵なドレス」  アリスの予想外の格好にローレンスよりもリンの方が驚いたようだ。 「ちょっと待ってて」と言うが早いか、アリスは家の奥へ姿を消した。 「ヒューは具合が悪くて寝ているの。でも私は少しならお邪魔してもいいって」  戻ってきたアリスははにかむように答えた。  その瞬間、ローレンスの鼻を濃い匂いがついた。  この香りは何だろう。花の香り……バラだろうか。  ローレンスはアリスの背後に目を凝らしたが、廊下に灯りはなく、奥の居間らしき部屋からもれる明かりが見えるだけだった。TVかラジオか、かすかに音が聞こえるので、ヒューはそこにいるのかもしれない。 「待ってて、コート着てくる」  アリスは階段を上っていった。  リンが非難するようにローレンスを見たので、驚いた。 「……嘘は言ってないよ。初対面と違いすぎて、僕自身驚いてるくらいだ」  出された料理をアリスはあまり食べなかった。 「ごめんなさい。実は今日はお誕生日で……さっきヒューが大好きなチェリーパイを買ってきてくれて……つい食べ過ぎちゃった。お腹がいっぱいなの」 「ううん、いいのよ。こっちが急に誘ったんだもの」  アリスが申し訳なさそうに肩をすくめると、リンは微笑みながら首を横に振った。 「そう? ママは誘ってもらったら、なるべくお断りしないようにねって言ってた」 「そうなの……ご両親のことは聞いたわ。辛いでしょうね」  ローレンスはリンの左隣に座るアリスを見つめた。チョコレートアイスを口に運んでいる。  ドレスの胸元に……何かが染みていた。赤茶色の何か。血だろうか。しかし、アリスは鼻血を出したような感じでもない。  それとも今食べているアイスをこぼしたのか。だがその小さな染みはもう乾いているように見えた。 「アリス、かわいいドレスが汚れちゃったみたいだ」  ローレンスが自分の胸元を指してアリスに教えると、わずかに彼女の顔色が変わった。本当にわずかな動揺だった。 「あ……チェリーパイ、こぼしちゃった……」  みるみるうちに、青い瞳に涙があふれてきた。 「ああ、大丈夫よ。お湯で洗えばすぐ落ちるわ。ウィル、バスルームは?」 「二階だよ。キッチンのちょうど真上だ」  顔を押さえて泣き出したアリスの肩に手をかけると、リンは二階へ導くように歩きはじめた。リンは一度こちらを振り返り、ローレンスに妙な目配せをしてきた。意味がわからず困惑したが、二人は三十分ほどバスルームにこもった後、何事もなく戻ってきた。ドレスの染みはなくなり、すっかり乾いていた。ドライヤーでも使ったようだ。  少しTVを見ながら、リンはアリスに質問した。学校はどうしているのか、という問いにはヒューが教えてくれると答えた。さらに質問しようと口を開いたリンを制するように、アリスは「帰る」と言い出した。なんだかんだ九時近かったので、引き止める理由はなかった。 「私、恥ずかしい」  アリスを家に送り届け、帰宅したとたん、リンは両手で頰を押さえて、呟いた。ローレンスは背後から彼女の細い肩を見つめていた。 「まだもう少しだけいてもいい? アリスのこと……私がなぜ彼女を気にするのか……その理由を話すわ」  ローレンスを振り返ったリンの瞳は濡れて光っていた。ハシバミ色というのか。琥珀のような、透き通った茶色だった。 「わかった。食後のコーヒーはどう? それともアイスをまた食べる?」  リンはかすかに微笑み、うなづいた。
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