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現の境界へと浮かび上がってゆく中、春野の草萌えの甘い香を運ぶ風が肺に満ちていった。
教会堂が薄紅色の時に浸かっている。指で目尻を伸ばす。瞼の硬直を除いた。己の体に掛けられていた毛皮の外套に気が付く。掴み上げようとしたとき、
「ご気分はいかが?」
此方を覗き込んできた影。赤毛の女の姿を捉える。これは伯爵の子女。名がジョゼフィーヌ・ルヴィエ。
「お久しぶりです。ムシュー」
好奇の瞳が己へと直下していた。身を起こしてまなざしに構える。取り損ねていた毛皮を彼女の前にもたげた。
「お召し物はどうされたのですか。それでは体が冷えてしまいそう」
受け取った毛皮を、彼女は己の膝の上に広げた。
「何か、香る」
「薔薇ですわ」
独り言ちた言葉に彼女が答えた。
「下女が作りましたの。匂い袋を。花弁や果実で」
彼女は口元に指を添えて、目を細める。
「これは、父の薔薇なのです」
彼女の頬に開いた笑みが一気に色づき、肌に染みわたっていく。
「わたくしの父は、芸術家の夢を嗜む人です」
みだりに秘密を孕む愛嬌。瞳の中で悦に入り、視線が着飾られる。
「ムシュー。詩歌はお好きでしょうか。わたくしは父の計らいで、幼い頃から吟遊詩人が詠ずる物語を聴いて、育って参りましたの。騎士と姫君の逢瀬に憧れたものです。詩人が屋敷を訪れるときを待ち遠しく思っておりましたわ」
言葉の端々から弾みをつけて零れていく無防備な媚。
「父は、旅芸人を呼ぶこともありました。異国の音色を、父は甚く気に入って。芸人達の舞踏を真似て、母の手を取り、思いのままに踊り始めたことがありましたの。兄や姉は戸惑っていましたけれども、わたくしは楽しくて」
厳粛の部屋に迷い込んできた小鳥の歌声は、よく、響く。
「父たちと過ごしたときが恋しいですわ」
彼女は体を回しながら長椅子から離れた。巻き取られた衣のひだが解けて膨らむ。裾をたくし上げて、彼女は一礼し、
「挨拶を済ませると、騎士は姫君の前で跪いて、庭の外へと誘い出します。二人は手を取り合って、踊るように出掛けてゆくのです」
彼女は裾をはためかせ、つま先を突き出して歩く。
「ムシュー。素敵な夜ですこと。特別な日ですから、わたくし、お気に入りの若草色の衣装を纏いますわ。星の瞬きが音楽ですの」
跳ねる彼女の目に祭壇の灯がよぎる。ジョゼフィーヌは動きを止めた。
「戯れが過ぎてしまいました」
彼女は膝をつき、手を握り合わせた。天上の父を仰いでいる。
犯した罪に対して許しを請うのか。生きてゆく上で犯す罪に対しての許しの確約なのか。
悔い改めることに意義はない。罰無くしての容赦などあり得ないことだ。全てが許しのためにあるのなら罪とは何だろう。
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