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大聖堂の御使い
早朝の静寂を侵すものは幾らでもある。鳥の羽音。囀り。人々の活動の始まり。足音。引かれてゆく車の軋み。カテドラルの鐘の音。
「もし。どうされたんですか」
青年の囁く声。わずかに上擦っていた。しかし、険しさはない。己の体に触れていたらしい。頬を包まれて気づく。行為の諸々が日射しの和らぎと似ている。
「よかった。ご無事のようだ」
薄目を開いた。睨んだはずだったが、青年は微笑んでいた。
大聖堂の扉口へ上がる階段に横たわって休んでいた。都市の様子に耳を澄ます内に、瞼を下ろしていたようだ。
「行き倒れている方が多いもので」
青年は教会堂の中へと導いた。
「よろしければ、施療院までご案内いたしますよ」
大聖堂の正面を飾る、天上の父の使いが降りてきたような青年だった。至巧の器が魂を得て、唇に血の温もりが宿る。
「僕は、リュシアンと申します」
青年は祭壇の燭台に火を点している。続いて身廊を駆け回り、釣り香炉にも火を落としていた。
「学生の身ですが、ここで助祭を務めています。この大聖堂の司教が師なんです。とはいえども、この通り。ただの雑用係ですが」
青年の笑顔が此方を向く。
「貴方は、巡礼の方でしょう」
答を待つ彼の顔が曇る。
「詮索などしないほうが賢明ですね。お許しください。僕の悪い癖なんです。真実を確かめずにはいられない」
彼はおずおずと微笑んだ。話の終息を見計らって背を向ける。
「ですが、名は」
青年を捨て置き、扉を開いた。
「日曜の典礼で」
追ってくる青年の言葉を閉じる扉が断ち切った。
厳かな領域から締め出されて、眼下に広がる猥雑な世界。
脳裏で閃きが弾けた。目を伏せて、こめかみを押さえる。額を覆う手を除くさなかに階段の下端に来訪者が現れた。瞳を冒す赤い髪。無情の灰に燻る炎で焼かれる生の穢れの色だ。女は自身のつま先だけを見つめ、近づくものには気づいていない。終焉の縁までの歩幅を数え、死の順番を待つ表情。目を逸らしかけた瞬間、女が肩をびくつかせて、己を見た。彼女の瞳の底へ光が射し、頬に薔薇色が開く。初な微笑みが綻ぶ少女。春野の草萌えの甘い香を運ぶ風が、肺を抜けていった。
扉が閉まる音に目を瞬く。振り返ることはせずに階段を下った。こめかみで鈍痛が疼いている。頭巾を深く被り、外気から庇った。
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