大聖堂の御使い

1/8
前へ
/50ページ
次へ

大聖堂の御使い

早朝の静寂を侵すものは幾らでもある。鳥の羽音。囀り。人々の活動の始まり。足音。引かれてゆく車の軋み。カテドラルの鐘の音。 「もし。どうされたんですか」 青年の囁く声。わずかに上擦っていた。しかし、険しさはない。己の体に触れていたらしい。頬を包まれて気づく。行為の諸々が日射しの和らぎと似ている。 「よかった。ご無事のようだ」 薄目を開いた。睨んだはずだったが、青年は微笑んでいた。 大聖堂の扉口へ上がる階段に横たわって休んでいた。都市の様子に耳を澄ます内に、瞼を下ろしていたようだ。 「行き倒れている方が多いもので」 青年は教会堂の中へと導いた。 「よろしければ、施療院までご案内いたしますよ」 大聖堂の正面を飾る、天上の父の使いが降りてきたような青年だった。至巧の器が魂を得て、唇に血の温もりが宿る。 「僕は、リュシアンと申します」 青年は祭壇の燭台に火を点している。続いて身廊を駆け回り、釣り香炉にも火を落としていた。 「学生の身ですが、ここで助祭を務めています。この大聖堂の司教が師なんです。とはいえども、この通り。ただの雑用係ですが」 青年の笑顔が此方を向く。 「貴方は、巡礼の方でしょう」 答を待つ彼の顔が曇る。 「詮索などしないほうが賢明ですね。お許しください。僕の悪い癖なんです。真実を確かめずにはいられない」 彼はおずおずと微笑んだ。話の終息を見計らって背を向ける。 「ですが、名は」 青年を捨て置き、扉を開いた。 「日曜の典礼で」 追ってくる青年の言葉を閉じる扉が断ち切った。 厳かな領域から締め出されて、眼下に広がる猥雑な世界。 脳裏で閃きが弾けた。目を伏せて、こめかみを押さえる。額を覆う手を除くさなかに階段の下端に来訪者が現れた。瞳を冒す赤い髪。無情の灰に燻る炎で焼かれる生の穢れの色だ。女は自身のつま先だけを見つめ、近づくものには気づいていない。終焉の縁までの歩幅を数え、死の順番を待つ表情。目を逸らしかけた瞬間、女が肩をびくつかせて、己を見た。彼女の瞳の底へ光が射し、頬に薔薇色が開く。初な微笑みが綻ぶ少女。春野の草萌えの甘い香を運ぶ風が、肺を抜けていった。 扉が閉まる音に目を瞬く。振り返ることはせずに階段を下った。こめかみで鈍痛が疼いている。頭巾を深く被り、外気から庇った。
/50ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加