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タイムリミット
「あ、ちょっとだけ待ってもらっていいですか。トイレ行ってきます。」
看護師さんに案内されて親父の病室。医者の先生を呼んできますと言う看護師さんのおそらく困っているであろう顔を見ないふりして病室を抜ける。時計を見ると深夜十一時五十四分。
八月十日。お盆休みに入る直前、携帯に病院からの電話があった。親父の心臓が止まったらしい。
「そうですか、これからそちらへ向かいます。ただ、まだ職場の方なのでちょっと時間がかかるかもしれません。」
時計を見ると午後十時四分。
通常の入り口は閉じられてしまうので、着いたら守衛さんに言って裏口から入れてもらうようにと病院の方の声が告げた。
「しばらく戻ってこれないから会社への連絡と、喪服の準備と。お金もおろさなきゃか。」
冷静な頭でやらなきゃいけないことのリストを組み立てる。長いこと入院していたから頭のどこかでわかっていたことだ。
「最後に会ったのは二ヶ月も前になるのか。ちょっと間が空いてしまったな。先月、いや先週会いに行っておけばよかった...。」
後悔は何の役にも立たない。わかってはいるけれど。
ぼんやりとハンガーからクリーニング上がりでビニールがかかったままの礼服をスーツケースに入れる。黒ネクタイ。靴下。
「ああ、そうそうハンカチもあったほうがいいな。」
誰が聞くわけでもないのに独り言を言いながら荷造りする。
「二ヶ月前、なんて言ってたかな。」
「ああ、今度来る時に電気髭剃りを買ってきてほしいとか言ってたな。」
「何だよ、いらなくなっちゃったじゃないか。」
独りの部屋に零れた言葉が、心にことんと落ちた。
「ばかやろう。」
あまり乗り慣れない経路の電車に右往左往しながら、やはりぼんやりした頭で病院へ向かう。携帯で乗換案内を検索する。到着予想時刻二十三時五十分。うちからだとちょうど百分かかるらしい。京急線の赤い電車が何だかとってつけたようなレトロ感を演出してノスタルジックに浸るみたいで腹立たしかった。
駅からタクシーで向かう海辺の終身医療向け病院。夜中の海は風が強くどす黒く、駐車場から見たそれは蠢く闇そのものだった。
静かな院内。慣れたものなのだろう淡々としたスタッフの対応。全てがそらぞらしい。
「死亡確認をするので、先生と一緒に立会人としてついていてください。今から呼んできますので。」
「あ、ちょっとだけ待ってもらっていいですか。トイレ行ってきます。」
時計を見ると深夜十一時五十四分。一息ついて。鏡を見て。もう一度大きく溜息をつく。
真っ暗で静かな院内に煌々と灯る自販機の明かりが見えた。
「ホットにしとくか。」
コーヒーを飲んでもう一息。時計を見ると十一時五十八分。
もう一口だけ飲んで。ゆっくりと見回す。
「こんなとこにずっと長いこと住んでたんだな。」
重い足を引きずりながら病室へ戻る。
「すいません、お待たせしました。」
「いえ、大丈夫です。それでは。」
眼鏡を掛けたいかにも医者らしい風体の男性が静かに、親父の瞳孔と心臓に生命反応が医学的にないことを告げる。
「八月十一日。零時一分、ご臨終です。」
「悪いな、親父。もう死んでいいよ。あと誕生日おめでとう。」
零れた言葉が、心にことんと落ちた。
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