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微かに聞こえてくる寝息。
疲労が溜まっていたのか、思ったより深い眠りに着いているようだ。
僕に背を向けて、赤ん坊のように丸く縮こまって寝ている。
……無防備だなぁ。
襲わないとは言ったものの、二人きりの状況で、そんな保証はないのに。
腰まで伸びた、漆のように真っ黒な艶のある髪に、その隙間からのぞく白い項。
思わず噛みつきたくなる衝動に駆られる。
……嗚呼、愛おしい。
その髪も、その首も、背中も、全てが綺麗で、鮮烈で。
何も、変わっていなかった。
あの頃と、何一つ。
なのに、空いてしまった隙が大きすぎて。
彼女が遥か彼方へ行ってしまったような、酷くもどかしいこの感覚は、彼女が傍に戻ってきても、忘れられなかった。
耐えられなくなって、また手を伸ばす。
以前は過去の幻影でしかなかったけれど、今は指の先に、本物の彼女がいる。
もっと体を寄せれば、触れられる。
──欲しい
彼女が、そよかが欲しい。
僕は君の全てを知ってる。
なのに、どうして君は、僕を知らないの?
「何も──」
僕の中を、行くあてのない矛盾が支配する。
そよかは、まだ知らない。
いくつもの思惑が絡まるその中心に、自分がいることを。
「──思い出さなきゃいいのに」
解くことも断ち切ることも出来ない糸は、容赦なくそよかの身に絡みつくだろう。
誰も彼も、そよかの存在を放っておいてはくれない。
それは、僕もだろうけど。
だからこそ、僕が護らなければ。
例えそれが、本当の意味での君のためでなくとも、 "吉田栄太郎" という僕の存在を思い出せなくとも。
君の頬が、濡れてしまわぬように。
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