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私とて、最初から身を犠牲にしてまで隙を作ろうなどとは思っていなかった。
何せ苦無が懐にあるなんて知らなかったのだから。
けれど、人斬りの腹に突き刺した苦無は確かに私のもので……。
「──そよか! 」
駆け寄ってくる足音と共に、聞き覚えのある声が近づいてくる。
「あな、たは……っ」
何かを言い終える前に、膝から崩れ落ちたそよかを、その男はしっかりと抱きしめた。
限界だったのだろう。
身体は所々斬られ、右肩の深い傷口からはだらだらと血が溢れており、男の着物に朱を広がらせた。
貧血で冷えた身体が、温もりを取り戻す。
不思議だ。
人斬りはすぐ近くにいるのに、もう大丈夫だと、安堵してしまっている自分がいる。
この温もりに対しての嫌悪感は微塵もなく、寧ろ心地いいくらいで。
懐かしいものを見ているような、そんな気がしてならなかった。
この男にとって、私はどんな存在だったのだろうか。
ふと、そんな事を思う。
敵だという私を、こんなに焦ってまで、息を切らしてまで、助けるほどの関係とは何なのだろうか。
仲間、親友、家族、恋人、どれをとっても、そんな単純で、浅い関係ではないと思える。
きっと、知っていけばいくほど、後戻り出来なくなる。
それほど、脆く、壊れやすいもの。
ならば、知って後悔するくらいならば、知らなければいい。
そう、さっきまでの私はそう思っていた。
" あの事 " だけが気がかりで、本気で記憶を取り戻そうとは考えていなかったのだ。
そんな卑屈で、臆病な私は、命の危機に晒されてやっと目が覚めた。
私はこの男、吉田稔麿に聞きたいことがある。
けれど私の意思とは反対に、身体はぴくりともせず、ゆっくりと意識を閉じていく。
……気のせい、だったのだろうか。
地面に身体を押し付けられ、心臓を貫かれる直前。
心做しか、左頬が熱くなったのは……。
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