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敢えて " どんな状況でも " と比喩してくれているが、この傷口を見て察しが付かない訳が無いのだ。
確実に、斬られた傷跡。
だが医者は、斬り合いの際に生じる傷口では無いと言っているのだろう。
この医者はあまり患者への詮索を好まないのか、真実を話すのに戸惑っているけれども。
「……知りたいのです」
淡白とした、いつもと変わらぬ平坦な声音。
けれど、言葉の重さは違った。
あの日、あの瞬間、目を開けた時から、私は何もかも失った。
失っただけで悲しさは無く、ただ虚無しか残らず。
何も感じない自分が恐ろしい、目覚めてから最初の感情はそれだった。
人生の端から端まで、そよかという人物を築き上げてきた全てのものが、崩れたかもしれない、壊れたかもしれない。
そんな不確かなものしか映さなかった瞳が、今は切望に揺れていた。
「お願いします……教えてください」
例え、どんなに些細なことでも、どんなに受け入れ難いことでも、知りたいのだ。
避けてきた道は、いつだって前へ進むためのものだった。
己の中に、もう曖昧な感情はない。
「……分かりました」
医者の表情からして、あまり良さげな事を聞けそうにない。
やはり……私には何かあるのだろうか。
「勝手な憶測ですが……貴方の傷は、治りかけていたのだと思います」
治りかけていた?
ハッキリしない、中途半端な言葉だけれど……。
「私が手を施す前に、です。貴方の回復が異常に早いのかとも考えましたが、だったら治りかけで止まるはずがない」
治療をする前に、傷が中途半端に治っていた……という事なのか。
けれど、重症を負ってすぐ治ることなんてありえない。
更には、治りかけで止まっていた……と。
「本来貴方の傷は致命傷のはずだ。生きていることさえ、奇跡に等しい」
いいやきっと、この医者は分かっているはずだ。
奇跡ではないことぐらい。
ただ裏付けるものが無いだけで、その言葉でしか表現できないだけで。
「私の手には、申し訳ないが負えない。望むのならば、江戸の緒方洪庵(おがた こうあん)先生の元を訪ねなさい」
そう言われ手渡されたのは、緒方洪庵という幕府奥医師への紹介状だった。
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