68人が本棚に入れています
本棚に追加
/57ページ
医者が去った後、部屋にはどことなく気まずい空気が流れていた。
何か言わなければと、咄嗟に口を開く。
「……ありがとう」
いきなりの素直な言葉に、吉田は不意をつかれたのか一瞬たじろいだ。
「苦無、入れてくれたんでしょう? 」
凡そ、私が寝ている時にでも入れたのだろう。
「ああ、あれはそよかが逃げ道を確保する為に出ていくだろうな、って分かってたから」
そよかの事は何でも知ってるから、と自信満々に語る吉田稔麿に、思わず笑みが零れてしまう。
「今笑ってくれたよね? 」
「……さあ」
目を逸らし、分かりやすく真顔で惚ける。
眩しいくらいに明るい笑顔で話しかけてくる吉田稔麿に、敵対心はもう残っていなかった。
ただ、こんなに無邪気に笑うのに、ふとした時に見る暗い表情に、胸がちくりと痛む。
だってそれは、悲しげなものだったから。
もしかしなくとも、私が原因なのではないかと。
吉田稔麿が私に固執しているから、ってだけで、他に理由はないのだけど。
「……そよかは、記憶を取り戻したい? 」
突然の問いに迷うことなく頷くと、吉田稔麿はまた、笑った。
「なら、そよかの事を何でも知ってる僕と、契約を結ぼう」
「契約? 」
とてつもなく嫌な予感がする。
そこで、不敵な笑みを浮かべている事に気づく。
「そよかは僕に聞きたいことがたくさんあるわけでしょ? でも、それを易々と答えても面白味が無いから、僕が答える度に代償を払ってもらう」
「はぁ……? 」
「代償は、そうだなぁ……君の体の一部ってのはどう? 良いよね? 」
面白味があるとかないとかで、そんな危ない契約提案しないで欲しい。
だいたい、吉田稔麿自身に利益がないだろうに。
「誰がそんな契約……」
「えぇ、そっかぁ。仕方ないね」
私の言葉にさっと食いつき、わざとらしく溜息を吐く。
残念がるふりして絶対面白がってやがる……。
「ここに鎖で繋いで、一生出られなくしようかなぁ……そしたら、体の一部もくそもないよね」
意地汚いやつめ……身動き出来ないうちにこんなふざけた契約を結ばせようとするなんて……。
しかもまだ何一つ聞けていないってのに。
ただ面白がっているだけなら……
「冗談なんか」
止めて。そう言おうとした、けれど……。
「──じゃないよ。冗談なんかじゃない」
「っ! 」
また、まただ。
あの時と、いや……あの時よりも。
吉田稔麿の表情は、今にも泣き出してしまいそうなほど、酷く悲しげなものだった。
──ごめんね
誰も口にしてはいないのに、囁きのような弱々しい声が、聞こえた気がした。
最初のコメントを投稿しよう!