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966b722f-cea6-43a6-a56f-88ce65581229  陽の光が稜線へと消え、夕闇が辺りを支配する頃、この辺りは屋台の明かりと人が溢れだす。賑やかな音の洪水の中、桂谷奏(かつらやそう)はぽつりと呟いた。 「……やっと見つけた」  日本を離れて一週間。興信所から情報を貰ってから、奏は日々バンコクのマーケットを練り歩いていた。目的はかつての親友、水城功多(みずしろこうた)を探すためだ。そして、今目の前の屋台の中でその懐かしい顔を見つけ、奏は口の端を引き上げた。 「久しぶりだな、水城」  異国で聞く母国語に驚いたのか、客寄せに声を上げていた水城は驚いたように肩を震わせた。土産物らしい民芸品を手から滑り落としそうになり、慌ててそれを丁寧に置く。そうしてから、じっと奏の顔を見つめた。そして目を見開く。 「……奏?」  どうしてここに? とか、どうして自分を訪ねてきた? とか、その表情からは色んな疑問が読み取れた。それでも奏は、それらを一切受け付けない顔で、しっかりと水城の陽に焼けた顔を見つめ、口を開いた。 「お前、来週オープンするウチの店でシェフやれ」 「……はあ?」 「調理師免許を取ってることは調査済みだ。問題ない」  きっぱりと言うと、段々と冷静になってきたのか、そうじゃなくて、と水城が言葉を返す。 「そうもこうもない。これは命令だ」  奏の言葉に、水城は言葉を失くす。じっと奏の顔を見つめてから、ふと表情を緩めた。 「いつ帰るんだ? 奏」 「お前を見つけるのが目的だったからな。明日帰る」 「じゃあ、俺も帰るよ。いいだろ?」  男らしく締まった頬が笑みを作る。その顔が懐かしくて、奏は頷いた。 「仕方ねえ。一緒に帰ってやる」  その日から、五年。今日も奏をオーナーに持つワインバー『conge riche』は元気に営業中だ。 「いらっしゃいませ。コンジェリーシュへようこそ」  ドアを開け、微笑む奏の姿は白シャツに黒のベスト、スラックスに長いタブリエと、ギャルソンと同じ格好をして< 肩に届く茶の髪もきちんとと結わえている。仕事のない日や客の多い週末などはこうしてオーナー自らホールに立つことも少なくなかった。奏自身にワインの知識は少ないのだが少数精鋭でやっているからには仕方ない。 「あ、オーナー。キッチン行くなら、これお願いしていいですか?」  ギャルソンの外山(とやま)が裏に向かおうとする奏を呼び止めた。手にはクーラーに入ったボトルが抱えられている。差し出す紙はフードの伝票だった。 「了解。これはこっちで引き受けるよ」  忙しい状況を察して、奏が微笑んで伝票を受け取ると外山は、助かります、と苦く笑ってホールへと出て行った。その姿を見送って奏はキッチンへと向かった。 「おーい、水城。オーダー……っていないし」  キッチンのドアを開けながら中に向かって声を張った奏だったが、そこに目的の人物は居なかった。深くため息を吐いてキッチンを出ると、すぐ横にある階段を駆け上がる。その先にあるドアの向こうが事務所、その奥に更衣室がある。  奏がドアを開けると予想通りの画が広がっていた。中央に置かれたソファで堂々と寝そべる長身のコックコートにずかずかと近づくと、奏は思い切り腕を振り上げた。振り下ろす先は、当然このトドのように寝そべる男の脳天だ。 「! ……いっ…てぇ! 何? 何事?」 「痛いのはこっちだ。いちいち殴らせるな、アホ」  目を覚ました水城の前に仁王立ちした奏は、その顔を冷淡な目で見下ろす。水城が叩かれた頭を擦りながら体を起こした。ソファにだらしなく座った水城はそのまま奏を見上げる。 「起こすならもっと優しく起こせよ。で、何?」 「何って、まだ店営業中だから。閉店まで後一時間もある。てめえの持ち場はここじゃねえ」  言いながら水城にオーダーを突きつけると、その顔が面倒そうに渋く歪む。 「なっちゃんにやらせて、このくらい」 「外山だって忙しいんだ。キッチンに入る暇なんかない。そもそもアイツはソムリエ見習いだろ」  キッチン要員じゃない、と言うと、水城はだるい、とあくびを始めた。奏が長いため息を吐く。 「せめて給料分仕事しろ。これは命令だ」 「命令か……じゃあ仕方ないな。奏の命令は絶対だっけ?」  ぐっと伸びをした水城に、奏はゆっくりと頷いた。 「当然だ。お前はおれの人生を変えたんだ。忘れてないだろ?」  奏がしゃがみ込み、水城と視線を合わせる。その目が泳いで、それでも奏を見ようと懸命に我慢しているのが窺える。当然だろう、これは脅しだ。水城にとって小さな、たった一つの汚点を、奏は容赦なく攻撃しているのだ。 「忘れてない。忘れるわけないだろ」  水城が深く頷く。その脳裏には十七年も前のことが、多分今でも色鮮やかに浮かんでいるのだろう。  奏も同じだ。いつも思い出すのは、晩夏の風に揺れる白いカーテンからだった。 「……水城?」  高校三年の夏休みが終わり、寮に帰ってきたその日だった。同室だった水城は、ふいに奏をベッドへと押し倒した。何の前触れもなく、何を言うわけでもなく、ただ水城は奏に馬乗りになる。  外から野球部の放つ声とバッドの音、吹奏楽部が奏でるマーチが響いてきて、二人の沈黙が余計に浮き彫りになる。それが怖くて、奏は、どうしたの、と普段どおりに笑ってみせた。 「抱きたい」  なのに、水城から出た言葉はひどく単純で、そのくせいつもとは全く違うものだった。 「何、血迷ってんだよ。おれ、男だよ?」 「わかってる。だから、遊びだ。気持ちよくしてやるから、黙ってろ」  耳元で囁かれ、肌に指を伸ばし始めた水城を、奏は振り解こうと抵抗した。 どうしても嫌だった。――好きだったから。  親友である水城に淡い想いを抱いていた奏は、それでもこの想いは一人で抱えていこうと心に決めていたのだ。相手は男で親友で、そんな対象にはどうやったってなれない。それがわかっていたから、水城の傍で水城自身の幸せを見守っていくと決めていたのだ。なのに、こんな遊びなんかで体を繋ぎたくなんかない。 「離せ! 性欲処理なら他所でやれよ!」  水城の体を押し返そうとするが弓道で鍛えられた体を、小柄な奏が押し返すなど到底無理な話で、暴れている間に奏の衣服はすっかり取り払われてしまっていた。 「やっぱり……さらさらしてて触り心地のいい肌だな。前からキレイな肌だなと思ってたんだ……ここも、可愛いなって思ってた」  水城の指は奏の肌を滑り、下半身へと辿りつく。中心を柔らかく握られて、奏の体は意識を置いて、過剰に反応する。 「離せよ、水城……離してくれ」  これ以上みじめになりたくない。好きな人に遊びで抱かれ乱れるなんて、そんな屈辱は受けたくなかった。 「ちゃんと勃ってるじゃん。怖いことないから、安心して俺に任せな」  水城は言うと、吸い付くように胸の突起にキスをした。想像していたよりもずっと官能的な唇の感覚に、体温はみるみる上がって、吐息には淡く色がつき始める。 「たいして触ってないのに、完勃ち。敏感で可愛いよ、奏」  不敵に笑みを浮かべ、口の端を舌で舐める水城の顔は親友から男の顔へと変わっていた。色気さえ見えるその顔はこんな状況でなければずっと見ていたいほどのときめきを覚えただろう。今は、そんなことさえも悲しい。 「も、許して……水城、許して……」  涙が溢れた。それでも水城はその涙を指先で掬って、いきたいの? と聞く。違う、そうじゃないと首を振るが、中心をもてあそぶ水城の右手は止まることはなかった。水城に強引に手を引かれるように駆け上がった絶頂の先に見えたのは、途方もない絶望と後悔だった。なのに水城はその先へも手招く。 「まだ終わりじゃない。俺は奏を抱きたいって言ったんだよ? 覚えてる?」  双丘の狭間に指を差し入れられ、奏は身構える。押し広げるように割って入る長い指に、奏の体はしなることで快感を逃がした。痛みよりも快感が先行する自分の体が憎かった。好きな人に捧げ、拓かれ、貫かれることは当然奏も望んでいたけれど、こんな形ではなかった。好きな人の腕の中なのに、悔しくて泣けてくるなんて考えてもいなかった。 「水城…も、ヤダ……」 「もう少しだ。もう少しで何にも考えられなくなるから」  水城は奏の両脚を抱えあげて、自身をぬれた入り口へと挿入し始めた。鋭い痛みと圧迫感が奏の中を走っていく。 「抜いて、水城…抜いて……!」  必死で訴えるが、水城はぐいと腰を進める。すぐよくなるから、と耳元で囁いて深くまで穿つ。  痛みと、それに見え隠れする快感の両方に押し潰されそうになりながら奏は必死に水城を受け止めた。最後まで水城がいうように気持ちよくなどならなくて、ただ必死だった。  そうやって水城を受け止め、それでも友達を貫くと決めた奏だったのに、その日から水城は奏を徹底的に無視した。会話もなければ、目を合わせることもない。悲しくて辛くて、それでも受験勉強という忙しい要素があったので、なんとかそれに縋って半年を過ごした。そして、卒業式の日に半年振りに奏は水城に声を掛けたのだ。 「お前のしたことは絶対許さない」  その言葉を聞いた水城は、素直に頭を下げた。 「……悪かった。この先、奏の言うことは何でも聞くから……償いはする」 「あ、そう。じゃあ、おれから会いに行くまで絶対おれの視界に入らないで。この命令は絶対だ」 「……ああ、わかったよ」  そうして水城は進学が決まっていた大学に行かずにどこかへ姿を消した。水城が行く予定だった大学は、奏と同じところだった。 「……お前の命令は絶対だ。あの時からそう決めてる」  ソファに座り込んだままだった水城がしっかりと奏の目を見つめる。 「だったら仕事に戻れ。これは命令だ」  奏が言うと、浅くため息を吐いた水城が、わかった、と立ち上がった。伝票を手に取り歩き出す。その後姿に奏が、水城、と声を掛けた。 「今日、仕事終わったらおれん家。来れるだろ?」 「……それも命令か? 俺はもう……」 「命令だ。いいな?」  奏が立ち上がり、振り返った顔をじっと見つめる。少し困った顔をした水城がそれでも諦観したように頷く。 「わかった」  その言葉に奏の胸はちくりと痛んだ。
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