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「見て見て、水城。この間のシャンパン買い占めちゃった」  水城が奏のマンションに着くとすぐに、奏はボトルを差し出した。以前、客からの要望で取り寄せたヴィンテージのシャンパンは、味も勿論よかったが、その瓶の細工がいたく気に入ったのだった。 「買い占めって……安いものじゃないだろ、こんな箱で買って」  玄関先に置かれた木箱に触れ、水城はため息を吐いた。 「平気、平気」  このくらい大丈夫、と笑うと、水城は靴を脱ぎながら、お前な、と口を開いた。 「もう、一族の人間じゃないんだろ? そんな贅沢、ほいほいしてたらすぐに金なんか尽きるぞ」 「大丈夫だよ。半分は店に置く予定だし、もう半分は空にして店のインテリアにするんだから。キレイだろ、この瓶」 「けどな……」 「そういうわけだから、空にするの付き合えよ、水城」  奏は言いながらキッチンへと向かった。グラスを手に取りリビングに突っ立っている水城に瓶を渡す。 「開けて。それから、冷蔵庫に鯛の切り身あるからなんか作って?」 「こんなとこでも仕事?」  聞きながら水城は瓶の蓋をポンと飛ばした。店のソムリエにこんなところを見られたら、ぴしゃりと怒られてしまいそうだが、二人ともそういうことは気にしないので、そのままグラスにシャンパンを注ぎ入れた。 「あー、やっぱり美味い! ほら、水城、つまみ」 「わかったよ……けど、ホントにいいのか? 飲んじゃって。店に置けば採算とれるものだろ……バックもないんだし慎重にやれよ」  水城はグラスを持ったままキッチンへ入った。奏は瓶を抱えてソファに沈む。下ろしていた髪を緩く後ろに結ってから、またグラスを傾ける。 「水城心配しすぎ。実家の後ろ盾なんかなくても店は立派に黒字だし。おれは一人で何でもやれるよ」  奏の実家は飲食店を数多く経営している、桂谷グループという大会社だ。現在父がCEO、長兄がCOOをやっている。三男である奏は六年前に勘当同然でこの家を出た。その時に貰ったのがコンジェリーシュを始めるための資金と、このマンションの一部屋だった。せめて仕事と住むところは出してあげて、という母の言葉に父が仕方なく頷いてくれたため、現在の奏がある。それを忘れてはいないが、ここまで順調にやれてきたのは、店のスタッフのお陰が多いとも感じていた。 「……いや、一人じゃないか。お前のお陰だよ、水城。おれがだらだらとオーナーやってられるのも、お前が美味いつまみを作ってくれるからだ」  キッチンで作業をする水城を振り返り、奏が言うと、それだけじゃないだろ、と水城が笑う。 「お前の人選がよかったんだ。ソムリエもギャルソンもバーテンも一人分以上の仕事をしてる」 「だよなあ、やっぱおれって商才あるのかも」 「自惚れんな」  グラスを傾けながら陶酔していた奏の頭に、こつん、と優しく拳が当たる。見上げると皿を持った水城が近くに立っていた。 「鯛とピンクグレープフルーツのキュイジーヌでございます、お客様」  恭しく水城が奏の前に皿を置く。ふふ、と笑ってから奏はフォークを手に取り、一口頬張る。 「腕上げましたね、シェフ」 「美味い?」 「及第点。アレンジして店に出せるかも」  そう言うと、水城がほっとしたように奏の隣に落ち着いた。 「そろそろ新メニューの季節か?」 「そうだね。近々取り掛かろうか」  いつも新メニューは評判いいからな、と笑うと、水城は浮かない顔で頷いた。 「どうした? 水城」 「お前、家戻ったら? これだけ店も順調なら、家族だって認めるだろ?」  水城が奏の顔を見つめる。奏はその視線を感じて俯いた。 「認めないよ。どんなに店が繁盛しようと、それだけは無理だ」 「どうして?」  水城の言葉に奏は唇を噛んだ。そしてグラスの中身を呷るように一気に喉に流し込む。  しゅわしゅわと炭酸が喉の奥で消えて、アルコールが体に廻る感覚がした。 「だって、無理なんだよ……おれは変われないから」 「変われないって、なんだよ?」  わからない、と言う水城に向き合い、奏は口を開いた。 「お前のせいだ」 「俺、の?」 「桂谷家に、イレギュラーは要らないって言われたんだ。女と結婚してガキを作る、そんな簡単なことも出来ないヤツなんて、桂谷には必要ないって言われたんだ」  酒の勢いに任せ奏が言い切ると、水城の表情が固まっていくのがわかった。じくじくと胸の奥が痛い。 「それって、俺があの時あんなことしたから……?」 「正確にはもっとずっと後の話なんだけどな。でもお前がおれに男とも出来るなんて教えなきゃ、男を好きになることなんかなかった。男しか受け付けない体にはならなかった」  当て付けだと、自分でもわかっている。たった一回やられたくらいで、男としか出来ない体になんかならない。ただ、こうやって水城の傷を何度も何度も抉り返して、水城を繋ぎとめておきたかった。憎まれても蔑まれても、ここに水城が居てくれるなら、それでよかった。――まだ水城が好きだったから。どうしようもないほどに、水城に惹かれていたから。 「そうだったんだ……ごめんな、辛い思いさせて」 「別に、辛くなんかない。あんな家、どうでもよかったし、今が楽しければおれはそれでいい」  奏は隣の水城の膝にそっと手を載せた。驚いた横顔にキスを施す。 「奏……」 「抱けよ。おれの体、嫌いじゃないだろ?」  耳元で囁くと、水城は渋い顔をして奏を見つめた。 「奏、酒にならいくらでも付き合うし、メシだって作ってやるよ。だからもう、こういうのは……」 「やめない。おれん中でいけよ。これは命令」  疎まれているのかもしない。付き合いきれないと呆れられてるのかもしれない。それでも抱いて欲しいのだ。何でもいいから、水城に触れたい。そう思いながら水城の顔を見つめていると、喉元に唇が降りてきた。 「命令なら、仕方ないな」 「そうだよ。仕方ないんだ」  ソファに組み敷かれながら、奏はテーブルに置かれたままのシャンパンを見つめる。部屋の明かりを受けて輝くシャンパンはキレイで、こうなれたらどんなにいいだろうと思った。誰かの愛を受けて輝けるようなものになりたかった。今の自分とはあまりかけ離れていて、それが悲しくて、奏はゆっくりと目を閉じた。  週末金曜日の店は、最寄りの駅から歩いて二十分という立地にも負けず、多くの客が訪れる。先日地元のグルメ誌の片隅に載ったのもあり、今日は特に混んでいた。いつもは埋まることのない奥のテーブル席まで埋まっている。 「オーナー、これ、二番のソファ席までお願いしていいですか?」  両手にトレーを抱えた外山が奏に声を掛ける。ちょうど今別の注文を運び終えてキッチンに戻ってきたところだったので、奏は素直に了解した。見れば、その手にはワインの伝票も握られている。 「悪いな、ワインの方まで手伝えなくて」  グラスワインなら運べるんだけど、と奏が謝りながらトレーを受け取ると、外山がかぶりを振る。 「全然助かってます。つーか、俺もまだまだソムリエナイフが上手く使えなくて」  ほら見てください、と右手を差し出す。そこには絆創膏が貼られていた。 「痛々しいな。気をつけろよ、君はウチの看板ギャルソンなんだから」  空いた片手で外山の頭を撫でてから、奏は再びホールへと出る。 「本日のスペシャリテでございます」  席に皿を置き、奏が頭を下げてその場を離れる。するとそこでベルの音が聞こえた。この店ではテーブルに呼びベルを付けている。格式ある店を気取るなら、そんなもの付けずにギャルソンが目を光らせればいいのだが、生憎高級を気取るつもりもなければ、暇なギャルソンもいないためそうしている。奏がその音のしたテーブルへと歩み寄る。 「お待たせいたしました」 「オレも、さっきの食べたいな、奏」  その言葉と聴きなれた声に奏は眉根を寄せて顔を上げた。そこで笑っているのは予想通り、奏の従弟だった。 「(あおい)……何してる、こんなとこで」 「何って……食事? ホントは奏に会いたくて来たんだけど、店に入ったら若いギャルソンくんが『ここはワインを飲むところで、オーナーに会いにくるところじゃないですよ』って言うもんだから」  外山か、と思いながらも、その配慮に奏は口の端で微笑む。邪魔しに来るなら金を置いていけという外山の考えは自分に似ていて清々しい。 「そうか。なら客扱いしなきゃな。ドンペリでも開けるか? ロマネもあるぞ」 「いきなりたかるなよ! ハウスワインでいいよ、今日は」 「なんだ、つまらん。じゃあ、フード頼めよ」 「もう充分頼んだよ。それより奏、仕事いつ終わるの?」 「閉店後」 「部屋行っていい?」 「断る」 「別にいきなり襲ったりしないよ? オレも大台のったしね」  葵は言いながら微笑む。そういえば先月あたりに、三十になったから祝え、と店に来ていた。仕方ないのでチーズにろうそくを立てて出してやったな、と奏は思い出し、更にその時の葵の屈辱に歪む顔を思い出して笑う。葵は、なんだかんだと理由をつけては週一程度で店に顔を出す。目的は、奏に会う為、らしい。 「じゃあ、三十になった崎戸(さきと)葵くん、今おれがすごく忙しいの、わかる? わかるよな、大人なら」 「オレがすごく奏のことが好きなのもわかってくれるよね? 大人の奏さん」  ああ言えばこう言う葵との会話はいつだってこんな調子だ。奏は長いため息を零した。 「いつまでもバカなこと言ってんじゃねえよ」 「本気だよ、オレ。早くオレんとこに嫁においでよ。で、オレと一緒に仕事しよ?」 「寝言は寝て言え。おれはこの店で満足してんの」  奏は答えるとテーブルから離れようときびすを返した。 「奏、オレ、今度この近くにレストラン出すんだ。……ワイン中心の、低価格、高品質が売りの店ね」  背中に掛かる言葉に奏は、ふーん、と返す。 「一緒にやろ? 出資は本社だよ」  実家に戻るチャンスだね、と言う葵を、奏はゆっくり振り返った。 「戻る気はない。葵もいつまでも脛齧ってないで一人でやってみな」  その環境はあるだろ、と奏は歩き出した。すぐに他のテーブルの客に捕まり、瞬時に接客モードに切り替える。けれど頭の片隅では、葵の言葉を思い出していた。  実家に戻ることなんか考えても居ないし、その経営に携わりたいとも思っていない。二人の兄は優秀だし、厳格な父は時折経済紙で顔を見ている。唯一の気がかりは母だ。末っ子だったせいか甘やかされて育った奏は、この歳になっても母だけは切り捨てられず、時折電話をしていた。その母が最近電話をする度に『顔を見せて』と言うようになったのだ。何かあったのかと内心不安ではあった。気のせいならいい――奏は心の中で呟きながら目の前の仕事に意識を戻した。  市村商事さまから電話です、と言われホールから事務所に上がった奏は、いつものようにサボってソファで横になっている水城を見つけた。それでも今は構ってる暇はないので、電話を受ける。 「お待たせしました。次の入荷リストの話ですよね?」  事務所にあるデスクの電話を取りながら奏は椅子に腰掛けた。数時間ぶりに立ち仕事から解放され、奏はぐっと脚を伸ばしながら電話口の話を聞いていた。 「詳しい銘柄は葛城(かつらぎ)にメールさせますけど、個人的には女性のお客様が増えてきたんでデザートワインとかあればいいかな、と……そうですね、シャトー・ディケムあたりとかあったら最高ですね」  そんな仕事の話をしながら、奏はじっと水城の寝顔を見つめていた。寝ていても端正な顔立ちの男は、見惚れるほど魅力的でそれが悔しいくらい歯がゆい。全部を自分のものに出来ないのが寂しかった。自分は、この人に無理を強いている――そう思うなら今までのことを詫びて水城を解放すればいい。けれど出来なかった。好きになって貰えなくても、水城の傍は離れられない。 「はい、じゃあ必ず週明けには連絡しますので。はい、お疲れ様です」  話が終わり電話を置くと、奏は深く背もたれに体を預けた。階下のざわめきがかすかに聞こえる、この空間が奏は割と好きだった。そんな心地よい空間に体を投げ出すように奏は目を閉じる。本当はすぐにでもホールに戻ってあげなければソムリエの葛城も、外山も大変だろう。わかってはいたが、もう少しここに居たかった。 「大変だな、オーナーは」  その静かな時間を終わらせたのは、すぐそこから聞こえた声だった。目を開け、机の向こうを覗き込むとこちらを見つめる水城が居た。 「なんだ、起きてたのか」 「ああ、奏の声で起きた」 「まだ店閉まってないぞ。持ち場はどうした?」 「オーダー止まったから休憩。お前も少し休めよ。ホール出たり事務所で電話したり、おまけにイトコの相手したり」  最年長組には休養も必要だ、と水城が微笑む。 「葵の相手は別に仕事でもなんでもない」 「あいつ、このところよく来るよな」 「二年前に店の場所をつきとめてからな。それまでは家に来てた。あいつ、昔からおれに懐いてたんだよ」 「ふーん、仲いいんだ?」 「別に。あいつの母さんが、ウチの父親の妹に当たるから、すなわちウチが実家ってヤツでよく遊びに来てたんだ。上の兄は、葵から見たら七つも八つも上で近寄りがたかったんだろ……結局おれが相手してたからな」  そのせいだ、と奏は再び背もたれに体を戻した。寄る年波には勝てないとはこのことのようで、一度休んでしまうとなかなか立ち上がれない。尤も、五時間以上立ち仕事をしていれば当たり前の状態なのかもしれないが。 「でも、そういうのとは違うよな」 「ああ、そうだな。あいつ、おれが欲しいんだと。恋愛って意味で好きらしい」 「大胆なヤツだな、同性に堂々とそんなこと言えるなんて」  水城は言いながら体を起こした。テーブルに放ってあった煙草を咥え火を点ける。 「六年前、見られてるんだよ。おれが男とホテルに入るトコ。まあ、これが勘当のきっかけだな。どういうことだって葵が騒いだせいで家族に知れた」 「……奏が男でも平気だってわかったから、あんなこと言えるってことか……それにしても災難だったな。その、一緒に居た男は庇ってくれなかったのか?」 「遊び相手が庇うわけないだろ」  ふん、と鼻で笑うと水城は、まあ普通はそうだな、と煙草を消した。 「あのイトコとも遊んでやればいいのに」 「バカ言うなよ、めんどくさい。今は水城が居るからいいよ」  奏はぐっと大きく伸びをしてから立ち上がった。ソファの背もたれに腰掛けて水城を見下ろす。 「今夜も遊んでくれるだろ? おれと」 「……それは、命令か?」 「そうだよ。おれが水城に言うことは全部命令だ」 「そうか……でも、奏。お前にちゃんと好きな奴が出来たら、もう命令なんてしてんなよ」 「……当たり前だろ。恋人に命令なんてしない。するのはお願いだ」  本当は水城にだってしたくない。それをわかってもらえることなんかきっとない。奏は思わすじっと水城の顔を見つめてしまった。もしかしたら、すごく切ない顔を晒してしまったのかもしれない。水城が眉根を寄せてこちらを窺う。奏、と水城が指を伸ばした瞬間だった。 「いたー! シェフ、オーダー溜まってますよ! お願いします!」  事務所のドアが突然大きく開いたかと思うと、そこには両手に伝票を握り締めた外山が仁王立ちしていた。 「だってさ、シェフ。休憩お終い」  奏は笑って水城の肩をぽん、と軽く叩いた。 「めんどくせぇ……なっちゃんチーズの盛り合わせくらい出来るじゃん」 「できません、ホールで精一杯です」 「葛城は? アイツ、器用じゃん」 「葛城さんはセラーとホール往復してます」  それどころじゃないんです、と外山が水城の腕を引いた。わかったって、と水城は面倒そうに腰を上げる。 「奏も来いよ。一気に片付けるから」 「了解。すぐ行くから、先行って」  引き摺られていく水城に笑いかけて奏が答える。二人の姿が消えて、奏はゆっくりと息を吐いた。  ――一瞬、変な空気になった。水城の目が自分の中を見ているような不思議な感覚に陥って、水城の指が伸びてくるのを避けられなかった。あんな風に触れられたら、自分の気持ちを吐露してしまいそうで怖い。 「油断したな……」  ため息を吐いた奏は、更に深呼吸をしてから事務所のドアを開けた。 「戦場へ戻るとするか」
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