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水城を家に持ち帰って迎えた朝は、決まって穏やかに優雅に目覚めることが出来る。
「奏」
優しく低く響く声に導かれて目を開くと、すごく近くに愛しい顔がある。奏は、その顔に微笑み、おはよう、と手を差し伸べる。すると水城はその手を引いて奏が起き上がるのを助けてくれる。
「紅茶は、フォション? フォートナムメイソン?」
「……フォションのアールグレイ」
指を組んで、ぐっと伸びをしながら答えると、水城はベッドに寄せたワゴンの前で紅茶を淹れてくれる。奏はそれをぼんやりと見つめながら徐々に覚醒していく。
「ほら、これ飲んでしっかりしろ。着替えたら出て来いよ。ブランチ用意するから」
奏にティーカップを渡し、裸の肩にローブを羽織らせた水城はそれだけ言うと寝室を出て行く。その後姿を見送りながら、今日もいい男だな、とぼんやり思った。
いつもはやっかいなだけの低血圧も水城がいる朝は、なんだか幸せだ。命令なんかしなくても水城は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。何も言わなければ、恋人同士みたいなこの時間は何より愛しかった。
キッチンからの水音をかすかに聞きながら、奏はベッドに放られたままのローブを引き寄せた。背の高い水城のために奏が特別に用意したものだ。
「……好きだよ、水城……」
告白は、誰の元にも届かずに、アールグレイの香りと共に立ち消えていった。
着替えて水城と共にブランチを取ると、午後四時の出勤時間までは自由な時間だ。奏は店の経理や事務処理をこの時間に済ますようにしている。水城は家に帰る日もあるが、大抵は家で掃除や洗濯などハウスキープ的なことをしてくれていた。普段はなんでも面倒がるくせにこれだけは何も言わなくてもやってくれるのが不思議で仕方ない。前に一度聞いたことがあったが、その時は「家事やってると余計なこと考えなくて済むだろ」と笑っていた。この日も天気がいいからと、リネン類の洗濯や窓掃除をしていた。
「奏、そろそろ休憩したらどうだ?」
咥え煙草のままパソコンと睨めっこだった奏に、後ろから声が掛かる。
「これが終わったらな」
「そんなこと言って、もう四時間だ」
ため息を吐きながら水城が机に近づいた。手にはコーヒーカップが握られている。一つを奏に手渡すと、すぐ近くの窓辺に水城がもたれかかる。
「そんなに頑張ってどうする? 給料でも上げてくれるのか?」
「ばーか。外山なら上げてやってもいいけどお前はダメだ。サボった分天引きしたいくらいなのに」
奏は大きく体を伸ばしながら言う。水城が、なんだよそれ、と口を尖らせた。
「こうやってウチのことしてくれてるから引いてないだけだ。感謝しろよ?」
奏は立ち上がると水城に近づいた。窓辺に手を掛けると水城と対峙する。
「どうした?」
口調は軽いが、水城は奏の目からすっかり視線を外して窓の外に向けていた。わかっている。自分とこうして向き合うのは嫌なのだろう。この後、どんなことをしかけてくるのか、水城は知っているから。
「給料、上げて欲しかったらキスしろよ」
「バカなこと言うなよ。今のままで充分だから、そろそろ出勤準備しろ」
奏はやたらと時間かかるんだから、と水城が奏の胸を軽く押した。
「命令だ、と言っても?」
静かに水城の目を見上げると、その目が辛そうに眇められた。そしてそのまま奏に近づく。顎先を片手で軽く上げられ、奏の心臓は早く打ち始めた。
けれど水城が顔を近づけた、その時だった。部屋のインターホンの音が響いて、水城が動きを止める。
「来客だ、奏」
「……だな。出てくれ」
奏は水城を解放するように体を斜めに開いた。了解、と浅くため息をついた水城が部屋を出て行く。その後姿を見送った奏は、くくっと自嘲を洩らした。
「何してんだよ、おれ……」
水城が自分を心配してくれたのが嬉しかった。この穏やかな時間を持てることが幸せだった。だから、水城にそれを伝えたかった。どうして、ありがとうと素直に言えないのか。強要したキスで感謝なんか伝わるわけないじゃないか――
ふう、とため息を吐いたその時、部屋のドアが勢いよく開いた。
「奏! これ、誰?」
ずかずかと部屋に入ってきたのは葵だった。後ろに立っている水城に不躾に指を差し、喚き散らしている。
「ウチの店のシェフだ。それが?」
「それが、じゃねえよ! どうしてこの部屋に上がってるわけ? オレでさえ上げてもらえないのに!」
「今、上がりこんでるだろ。勝手に、だが」
奏が微笑むと、葵は、あ、と声を漏らした。
「何か用か、葵」
「あ、うん……まあ。話がある」
少し落ち着いたらしい葵が頷く。それを見て奏が、なら、と口を開く。
「さっさと用件を言え。おれはこれから仕事に行かなきゃならん」
奏は窓辺から離れ水城を呼んだ。水城が奏の傍に寄る。
「おれのスーツだけ用意しておいて。後は自分で出来るから、先に店に。あ、それから事務所に何か摘めるもの作っておいといて」
そう伝えると、水城は頷きながらも、平気か、と小さく聞いた。
「大丈夫だよ。ちゃんと遅刻しないで店には行くからさ」
「わかった……気をつけて」
最後の一言は極小さく、奏の耳元に告げて水城は部屋を出て行った。
「いいの? 人払いして」
「おれはお前のこと、そこまでバカにしてないよ。話があるって来たんだから、それ以外のことをする暇人でもないだろ、葵」
奏は机に置きっぱなしにされていたコーヒーを手に取った。なんの甘みもないブラックは水城のものだ。間違った、と思ったが飲みかけの冷めたそれすら愛しくて、奏は手を離せなかった。
「そりゃ、オレだって忙しいけど」
「だったら用件を」
「昨日、本家に行ってきたよ。奏の話をしてきた」
葵の言葉に、奏は眉根を寄せた。おれの? と聞き返すと、頷きが返る。
「奏の店の現状を色々伝えてきた。従業員から店の雰囲気、客層、売り上げも調べられるところまで」
「誰かに頼まれたのか?」
葵の言葉に奏が目を眇める。葵は、いや、とかぶりを振った。
「奏に、戻ってきて欲しいから。桂谷の家の温室、あそこに戻りたいんだ、オレ」
葵は切ない表情を浮かべ、まっすぐに奏を見つめた。
実家の広い敷地の一角には祖母の趣味で作られた温室があった。中には年中草花が咲き乱れ、その中心には噴水のようなプールもあった。祖母が亡くなってからも手入れはされていたものの、誰も立ち入ることはなかったので、奏と葵の遊び場になっていたのは言うまでもなかった。二人だけの楽園だったのだろうと、奏は葵の思いを察する。
「おれがあの家に戻れるわけないだろ?」
「そんなことない。伯父さんは相変わらず興味なさそうだったけど、啓さんが興味示してたよ」
「……啓兄が?」
そんなはずない。奏は、口の中でそう呟いた。長兄である啓は、奏の性癖を知ると一番に否定した。桂谷の血に、そんなイレギュラーはいない、と言われたのは今でも覚えている。蔑むような目も、気持ちの悪いものをみたように歪む口元も全部覚えていた。
「啓さんだって、鬼じゃないよ。奏のことを認めたんだ。だから……」
「おれは、温室には戻らない。葵と遊んでる暇はないんだ」
「奏!」
歩き出した奏に葵は手を伸ばす。けれど、奏はその手を避けるようにドアに向かった。
「そろそろ出勤時間だ。おれは準備するから、葵は勝手に帰れよ」
そう言うと奏はドアを開けた。部屋を出て閉めたドアの向こうから、奏を呼ぶ葵の声が聞こえたが、奏は立ち止まることなく廊下を歩いた。
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