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「こっちはオリーブが強いな。これは岩塩の方が合うんじゃないか? こっちはナンプラーもう少し効かせて」  葵が自宅を訪ねてから数日経ったある日の開店前、新メニューを作ろうと水城と奏はキッチンに篭っていた。フォークを咥えたままの奏は目の前に並んだ料理一つ一つを指差しながら感想を述べる。隣では水城がそれをメモしていた。 「なるほどな。基本はこれでいいか?」 「いいんじゃないか? そのへんは水城に任せる」 「了解しました、オーナー。――しっかし、お前の舌はすごいな。味覚にも絶対音感みたいなのあるんだな」  コックコート姿の水城が奏に微笑む。奏は、フォークを唇から離して水城に近づいた。 「だろ? 昼も夜も水城によーく尽くしてると思わないか? この口は」  耳元近くで囁くと、水城は耳を押さえて飛びのいた。その姿に、奏が面白そうにくくっと笑う。 「そういうこと言わなきゃ、もっといいのに」 「そう? じゃあ、毎日大人しくしてた方がいいのかな? 夜も」  作業台の上に腰掛けて奏が笑う。それを見つめる水城が、そうだな、と浅いため息を吐いた。 「行儀よく一人で寝てくれる方がいい」  その言葉に、奏の心はちくんと痛む。わかっていてもやっぱり言葉にされると辛い。それでも奏は笑顔を絶やすことはなかった。 「そっかあ、でもおれ寝相最悪なんだよね」 「知ってる。何度ベッドを譲ったことか」 「嘘、朝起きて居なかったのってそういう理由?」 「それもある」  答えながら水城が大真面目に頷く。奏が眉を下げ、ごめん、と謝った。 「まあ、それだけが理由でもないし、謝るなら今、作業台に乗ってることを謝れ。そこでこれから料理作るんだぞ」 「ついでにおれも料理する?」  奏は作業台に両腕をついて、首を傾げる。水城は表情を変えずにそれに近づくと、その腕で奏を抱きしめた。そのまま、ひょいと奏の体を持ち上げて床へと降ろす。 「お前は煮ても焼いても食えないヤツだから、遠慮するよ」  そろそろ仕込みしなきゃ、と水城は白いタブリエを巻き直した。 「りょーかーい。じゃ、おれは外山でもからかってくるかな」 「邪魔だけしてやるなよ」  長いため息をついて奏がキッチンのドアを開けると水城はそれだけ言って冷蔵庫を開けて作業を始めた。  その姿をしばらく見つめてから、奏はホールへと出た。外山が一人で忙しそうに店内の掃除をしている。 「外山、手伝おうか?」 「あ、オーナー。じゃあ、テーブル拭きお願いできますか?」 「いいよ。しかし、外山はよく働くな。楽しいか、この仕事」  テーブルを拭きながら奏が聞くと、元気な声で、はい、と返ってきた。 「今まで俺、『俺じゃなきゃダメ』っていう感覚に出会ったことなくて……でも、ここでは皆さん俺を必要としてくれるから、なんか嬉しいんです」  少しだけ頬を染めて笑う外山は、さすがこの店のアイドルだけあって可愛らしかった。 「そうだな。ウチのギャルソンは外山奈津(なつ)じゃなきゃ困る」  そう言うと、外山はまた嬉しそうに笑った。よく働くし、物覚えも愛想もいい、おまけに顔も可愛いとくれば店にとってプラスの要素しかない。彼目当てにくる客もいるほどなのだから有り難い話だ。  従業員に働く喜びを、店に利益を、なんてすごいオーナーなんだ、と自画自賛していると、ふいに店のドアが開いた。奏も外山もそれに視線を合わせる。 「あの、まだ開店までお時間が……」  ドアが開いて、姿を見せた客に外山が駆け寄り、そう声を掛ける。けれど、それを奏が制した。 「外山、いいよ。おれの身内だ」 「え、オーナーの?」  驚いて外山が再び客に視線を向ける。上等なスーツを着こなす長身で眼鏡の男は、奏の長兄だった。啓はまっすぐ奏を見つめ、ゆっくりと口を開いた。 「……六年振りか、奏」 「そうだね。お変わりないですか、お兄様」  奏の言葉に、啓が口角を引き上げた。 「奏も随分常識的な言葉を使うようになったな」  それがイヤミだということはすぐに分かった。六年前、常識外れだと散々罵ったのは啓だからだ。 「それはどうも。で、何か用? こんなところに啓兄が来るなんてよほどのことじゃない?」 「まあな。それなりに大事な話だ。どこか場所借りれるか? なければ出てもいい」 「外山、一番奥のテーブル借りていいか?」  啓の言葉に、奏が店の奥に視線を移す。外山は、はい、と言って奥のテーブルを整え始めた。そこへ啓を通す。 「外山は普通に開店準備してて。あ、あと葛城にハウスワイン、グラスで二つ用意してって頼んでくれる?」 「はい、わかりました」  外山は奏の言葉を受け取ると、すぐにセラーの方へと向かった。 「もちろん運転手付きで来てるんだよね、啓兄」 「近くで待たせてる」 「じゃあ、飲んでいって」 「ハウスワインだってとこがお前らしいな、奏」 「ウチのハウスワインは国産なんだ。無農薬で育てたブドウから丹念に作ってる」 「そりゃ楽しみだ。店の雰囲気もいい」  啓が言いながら辺りを見渡す。そこへグラスワインを運ぶ葛城が現れた。 「失礼します。当店ハウスワインでございます」  葛城が丁寧にグラスを並べる。 「ありがと、葛城。セラー、問題ない?」 「少しシャンパンが足りないかもしれませんが……今日は週中日ですし大丈夫かと」 「わかった。注文は葛城に任せるから」 「はい。ごゆっくりどうぞ」  そう言うと葛城は頭を下げて仕事に戻っていった。 「従業員もいいな」 「でしょ。葛城はおれより二つ下だけどシニアソムリエ持ってるんだ。後はバーテンダーが一人にシェフが一人。少数で頑張ってるよ」 「それでお前もその格好か?」  啓が顎で指す先に居る奏は、今日もギャルソンの制服を着ている。奏が頷いた。 「おれの店をおれが守って何が悪い」 「そりゃ、当然だ。お前にはこの店しかない」  啓はそう言いながらグラスを手に取った。くいと傾け一口付けると、美味いな、と笑う。 「で、話って?」 「葵がこの間家に来た」 「行ったって聞いた」 「お前の差し金か?」 「だと思う?」 「……ではないだろう、と思っていた。葵が一人でやってることか」  啓は大きくため息を吐きながら、何がしたいんだか、と零す。 「あいつの考えてることはわからん。小さい頃はわかりやすかったんだけど、最近はちっとも」 「バカはバカなりに思惑を隠すことでも覚えたか?」 「いや、行動がアホすぎて、おれの思考がついていかない」  奏が答えると、啓は可笑しそうに笑った。ああそうか、この人だって人間だからこんな風に笑うよな、と奏は改めて気づく。奏の中の啓は、いつだって不機嫌だった。小さい頃から素直に笑っている姿をあまり見たことがない。いつも何かぴんと張り詰めたシールドの向こうにいるような気がしていた。自分に会いにくるくらいだ、歳を取って丸くなったのかもしれない。 「葵が、奏はすごく順調に経営してる、能力はあるんだから本家に戻してやって……なんて言うんだが、お前の気持ちは?」 「今更戻ろうとも、戻れるとも思ってない。おれは、この店さえあれば充分だ」  奏がきっちり啓の目を見つめて答えると、そう言うと思ったよ、と啓がため息を吐いた。 「だが、こっちも状況が変わってな。お前を本家に戻さなきゃならなくなった」 「状況?」  奏はグラスを傾けながら訝しげな表情を作る。啓が頷いた。 「親父にガンが見つかった。ステージ4だそうだ」 「それって、末期ってこと?」 「そうなるな。出来るのは苦痛緩和の対処だけだと、医者は言ってた」 「そっか……じゃあ自宅で? それともホスピス?」 「自宅だ。看護師を雇うと言ってた。まあ、それはともかく、会社の方だがな――俺が継ぐ形になった。(りょう)に今の俺のポストを譲ろうと思ってる」  啓は奏の質問にはさらりと答えて、会社の話を始めた。啓は昔から感傷に浸ったり感動を表に現したりすることは少ない。いつも合理的で機械的だ。一人息子の(あきら)が生まれた時だって笑顔を見せなかった。だから、実の父親の死が近いと聞かされても動揺すらないのだろう。 「おれに、陵兄の枠に入れってこと?」  次兄は会社のブレイン的役割をしているはずだ。父親が会社の顔なら、啓は実際に采配を振る役目、陵は現場レベルまで監視し、啓に報告する役だ。だから陵はいつもどこかしら飛び回っている。 「実際にいきなり引き継ぐのは難しいことくらいわかっている。初めは名前だけでいい」  啓は言い切ると、くいとグラスを傾け空にした。そのまま立ち上がる。 「考えておいてくれ」  また来る、と啓は一言置くと歩き出した。入り口で頭を下げる葛城と外山に、ご馳走様、と告げると颯爽と店を出て行った。  椅子から立ち上がることもせずにそれを見送った奏は、その後姿が消えるとテーブルにため息を吹きかけながら突っ伏した。 「何そのワガママ……」  要らないと言ったのは他でもない啓と父親だ。それを今更戻れだなんて調子がよすぎる。  そんな風にふて腐れていると、葛城が寄って来て啓が使ったグラスを片付けた。 「葛城、もう一杯!」 「……奥で、自費でどうぞ。開店時間五分前です、オーナー」 「なんだよ、ケチ」 「ご自分で店の質を落とす気ですか?」 「……わっかりましたよ、ホール主任」  奏はグラスを持ったままふらふらとキッチンへ向かった。 「水城。酒くれ、酒」  キッチンの扉を開けて冷蔵庫を覗く。調理用のワインを一本引き抜くとそれを豪快にグラスへ注いだ。 「奏? お前、今日は店に出るんじゃないのか?」  そんなに飲んでいいのかよ、と水城が眉を寄せて奏に近づいた。 「ああ、今日は出ない。出たくなくなった」  ぐっぐっとグラスの中のワインを呷り、口元を手の甲で拭いながら奏が答える。 「ホール、平気なのか?」 「平気だろう。おれだって毎日出てるわけじゃない」  更にとぷとぷとワインを注ぐと、その手を水城が止めた。 「飲みすぎるな。これから仕事だろ? 飲みたいなら今すぐ家に帰れ」  士気が下がる、と水城が厳しい目をする。仕方なく奏はワインの瓶とグラスを作業台に置いた。 「どうした? さっき、外山が奏の兄さんが来てるって言ってたが」 「……啓兄が来た。おれのことを一番罵った兄だ」  水城の肩にこつん、と額を乗せて奏は小さく言葉にした。 「何か用だったのか?」 「親父が、ガンだってさ。末期だ」 「……そうか。もちろん、顔出しに行くんだろ?」  水城の遠慮がちな手がそっと奏の背中に触れた。宥めるように撫でる手が心地よかった。 「行かない。おれなんかが行ったら病状が悪化するよ。親父だっておれのことを毛嫌いしたんだから」 「奏……」  背中の手が止まり、力が入るのがわかった。奏は顔を挙げ、なんてな、と笑う。 「別に六年前のことはなんとも思ってない。むしろ、家出られたことはラッキーだったんだから」 「ホントか、奏」 「おれな、あんまり家族に執着ないんだよ。小さい時は叔母さんに育てられたし、中学から寮だったから、家族で何かした記憶ってあんまりないんだよな」  いつも忙しく家には滅多に帰らない父と、その秘書として行動を共にしていた母の間に生まれた奏は、物心ついた時にはいつも家に取り残された状態だった。兄たちが幼稚舎から帰ってくるまでの数時間、忙しく家の中の仕事をするお手伝いさんの姿を見ながら一人で遊ぶことが習慣になっていた。  寂しいとも辛いとも思わなかった。そういう家なのだと思って育ってきたから、友人から田舎の祖父の家に行った話や海や山でキャンプをした話を聞いても羨ましいとは思わなかった。それらは、すごく特別な人たちが行ける、特別な場所だと思っていたから。 「母親とか、叔母さんは末のおれを気に掛けて時々庭で遊んだりしてくれたけど、父親とはそんな交流はなかったんだ。だから大丈夫。そんなこと心配しないで、仕事してくれ」  鍋焦げるぞ、と奏は水城から離れた。 「奏が言うなら……でも、何か力になれることがあるなら、言ってくれ」 「別に何もないさ。お前はただ美味い料理作ってりゃいいの。これは命令。わかった?」 「……了解」  水城は渋々頷くとまた仕込みに戻っていった。奏はその姿を認めてからキッチンを出て事務所へと上がる。  ――自分のことなんか気にして欲しくない。これ以上の何かを背負わせたくない。ただでさえ、軽罪を責めるようなことをして繋ぎとめているのだから、水城にはそれ以上迷惑を掛けたくない。  何も気にしないで笑っていて欲しい――そう願いながら奏はため息を零した。  今日は家に来ること、命令――店が終わって帰る頃、奏は水城にそう伝えた。水城はいつものように少し渋って、それでもいつものように頷いた。そして多分、いつものように律儀に家に来るのだろう。  奏はぼんやりと時計の針が動く音を聞きながらワインを開けていた。今日は帰り際に客から生牡蠣を貰ったので、店からシャブリをくすねて来たのだ。それも割と高いものを。  葛城には怒られたが、客がオーナーにぜひシャブリと一緒にマリアージュを楽しんで欲しいと言ったのだから、そうするしかないだろうと丸め込んできた。 「シャブリも牡蠣も久しぶりだしなー」  もちろん牡蠣の処理は水城に頼み、帰ってすぐに食べられるようにしてもらっている。抜かりはない。一瞬水城を待ってからにしようかとも思ったが、まあいいか、と相変わらずとぷとぷとワイングラスにシャブリを注ぎ、一口飲もうとしたその瞬間だった。  玄関からチャイムの音が響く。水城だな、と思い、奏はグラスを置いて玄関へと向かった。インターフォンで確認することもなくドアを開ける。 「何してたんだよ、水城」  文句を言いながら顔を上げると、そこに居たのは予想とは違う人物だった。 「あの人じゃなくて悪かったね」  そう言って短いため息を吐くのは葵だった。奏は、なんだ葵か、とドアを閉めようとノブに手を掛ける。 「ちょっ、ここで閉めるかよ、普通!」 「だっておれ、葵に用ないし」  更にドアを閉めようとすると、葵はそこにつま先をねじ込んで、シャンパン、と叫んだ。 「シャンパンとキャビア! 好きだろ、奏」 「好物だな」  うん、と頷いて奏がドアノブから手を離すと、葵はドアを開けて玄関へと入り込んだ。差し出す紙袋の中にはワインの瓶と箱が一つ入っている。奏はそれを受け取って笑った。 「これ、手土産? それともなんかの賄賂?」 「両方。もっと言えば奏を餌付けしようかと思って」 「こんなんで懐くかよ。……まあ、いいか。すぐ水城も来るだろうし、上がれよ」  奏は葵に告げるとふらふらと廊下を戻っていった。葵がそれに慌てて付いて行く。 「奏、飲んでたんだ。一人で?」 「ああ、これから飲むところだった。客から牡蠣貰ったから」  キッチンでキャビアの缶を開ける奏が答える。 「客からって、奏の店、ホストクラブじゃないだろ?」 「違うけどよくあるよ? バレンタインなんてイベントの時は、外山あたりはトレーいっぱいにチョコ乗せて裏に帰ってきてたし、葛城は滅多に手に入らないヴィンテージワインを貰ったりしてたし」  奏がトレーを持ってリビングに戻る。そのまま立ち尽くしている葵の前を横切ってソファに沈み込んだ。 「……それって大丈夫なのか? 夜道気をつけなきゃいけないレベルじゃないだろうな?」 「違うよ。アイドルにプレゼントを贈るみたいなもんだ。まあ牡蠣をくれた人は、孫に何かあげるような気分なんだろうけど。どっちにせよ有り難い店のファンだよ」  奏は言いながらグラスを傾けた。 「やっぱり牡蠣とシャブリは最高だな。葵も飲めば?」  そんなトコ立ってないでさ、と奏がソファを叩いた。葵は頷いて奏の隣へ腰掛ける。 「奏は大分楽天的なところがあるから、心配」 「そうか?」 「たとえば、ほら、コレとか」  そう言うと葵は奏の腕を取ってシャツの袖を捲り上げた。上腕に長い傷跡があった。 「コレ? 別にちょっと引っかかっただけだろ」 「ナイフで切られてそんなこと言えるのは、奏くらいなもんだ!」  葵の怒った顔に、そうかなあ、とのんびり答えながら、奏は中一の夏を思い出していた。 初めての寮生活から久しぶりに実家に帰ってきた奏は、その日も案の定葵に捕まり、遊ぼうとせがまれていた。当時の葵は、ギャングエイジ真っ只中で例え奏の言うことでも容易には聞いてくれなかった。ちょうどその頃、桂谷の家では大きなM&Aが行われたばかりで、三人の息子たちは単独行動を控えるように通達されていた。勿論それが自分の身を守るためだと奏も分かっていたし家には人も物も揃っていたからそれが窮屈とは思わなかった。  ただ、葵は違っていた。 「オレ、こんなのじゃなくて、コンビニのアイスが食べたい」  パティシエが作る濃厚なジェラードを投げ出し、葵は膨れっ面で奏を見つめる。宥めるように傍にいた使用人の一人が、カキ氷にしますか? と微笑む。けれど葵の機嫌は一向に直らなかった。 「嫌だ。奏とコンビニまで行きたい」  葵は気に入りの温室とはいえ、閉じ込められるのが嫌だったのだろう。少しでいいから外に出たいだけなんだと奏にも分かったので、奏は仕方なく頷いた。 「いいよ。ただし、すぐ戻るからな」 「奏さん、ダメです。今、外に出られるのは……」  使用人の男性が慌てて奏を止める。けれど立ち上がった奏は首を振った。 「おれが誘拐されるタマかよ。大体、歩いて三分の距離だよ? 父さんには黙ってて」 「でしたら私も……!」 「目立っちゃうよ。父さんにバレたら何言われるか」  また経営学の授業増やされるかも、と奏が大袈裟にため息を吐く。 「しかし、何かあったらどうするんですか」 「何もないって。五分したら戻ってくる。ほら、走るよ、葵」 「うん!」  無邪気な笑顔で頷く葵を連れて、蒸し暑い庭を走りぬけ裏門を出た、その時だった。奏、と自分を呼ぶ声が後ろから響いて振り返ると、見知らぬ男に抱え上げられた葵がいた。恨むなら自分の父親を恨めだとか、コイツをダシに一生分の金をふんだくってやるだとか、そんなことを男は捲くし立てていたが、奏はそれを酷く冷静に見ていた。 「バカだな、おっさん。さしずめ、今回の合併であぶれちゃった人の一人なんだろうけど、その子攫っても桂谷は動かないよ」 「なんだって?」 「その子は分家の子。桂谷の息子はおれだ。離してやれ」  ごく近くまで歩み寄ると、男は即座に奏の腕を掴んだ。弾き飛ばされた葵が道路に尻餅をつく。 「奏!」 「葵は帰れ。ここは危ないから」 「ヤダ! 奏を離せ!」  葵は立ち上がると男に突進していった。その葵に向かって男がナイフを振り下ろす。  咄嗟のことだった。奏は葵を庇うようにその体を盾にしていた。腕に鋭い熱が走る。 「いってぇ……」  奏の白いシャツがじわじわと赤く染まっていく。暑さも相まって、目の前がくらくらしてきたその時だった。  裏門の扉が開いて使用人の男が顔を出した。すぐに駆け寄り男の手を蹴り上げ、ナイフを取り上げるとそのまま取り押さえる。 「奏さん、葵さんを連れて中へ!」  言われた通り葵の手を引き、敷地内へ入ったところで、奏は座り込んでしまう。 「奏、平気?」  泣きそうな葵の頭を撫でて、奏は、平気じゃない、と細く笑う。 「五分すりゃ誰か出てくるの、わかってたのに。葵が余計なことするから」  五分で戻ると言って五分で帰らなかったら、必ず動くのが桂谷の使用人だ。それがわかっていたから冷静でいられた。 「ごめん、奏」 「これからはちゃんと言うこと聞け。いいな」  奏が言うと、珍しくしおらしい顔をして、葵が頷いた。 「あれは楽天的じゃなくて、ちゃんと勝算があったんだ。葵さえバカなことしなきゃ」 「だって、目の前で好きな人が捕まってたら動いちゃうのが男だろ?」 「状況を判断して最善の行動を取るのが、イイ男だよ」  葵はまだまだだ、と笑いながら奏はグラスを呷る。 「そうだ、状況判断っていえば、啓兄が店に来たよ。啓兄が興味を示したってホントだったんだな」  グラスにワインを注ぎながら言うと、そっか、と葵が答える。 「で、啓さんからなんか言われた? 戻ってもいいって?」  葵の口ぶりから、父親の病気のことは極身内だけに知らされているのだろうとわかった。おそらく、父や啓にはきちんとした計画があるのだろう。それをダメにするほどバカでもないので、奏はそのことを口にはせずに、そうだな、と答えた。 「おれは戻る気はないって伝えたよ」 「奏!」  なんで自分でチャンスを潰すんだよ、と葵が真剣な目を向ける。それを横目に奏が短いため息を吐いた。 「おれは、あの家に戻る気はないし、葵と温室で過ごす気もない。いい加減わかれよ、葵。おれにとってお前はいつまでも弟だ。好きになることはない」  葵だけではない。この先、水城以外に誰かを好きなることなどないと思っていた。たとえ、水城に嫌われていても気持ちに変わりはない。 「……なんでだよ……なんでいつも奏はオレのこと子供扱いすんだよ? そんな邪険にすんだよ! ねぇ、アイツ? この間のアイツが原因なの?」 「アイツ? 水城のことか? あれは関係ない」 「嘘だ。させてんだろ? 色々と。オレだって、奏を満足させられるよ? オレにしときなよ、奏」  葵はそう言うと、突然ソファに奏を押し倒した。手放したグラスがラグを転がっていく。 「……葵、離せ」 「嫌だ! 奏はオレのものだ! オレだけのものだよ」  馬乗りになった葵がそのまま奏の体をきつく抱きしめた。昔抱きついてきた、その小さな体とは随分違っていて、奏はぞくりと悪寒を覚えた。 「葵、何する気だ。離せ」  葵の手が奏のシャツを乱暴に開くのを見て、奏がそれを止めようとする。けれど腕は頭上で一つに纏められ、脱がされたシャツできつく縛り上げられた。見上げた葵の顔は、大人だった。もちろん、普段から大人だとは認識している。もう三十路だし、顔つきだって渋さを備えてきている。けれど、どんなに外見が変わっても奏の中の葵はいつまでも『子供』だった。こうされて初めて、自分がどれだけ葵に対し油断していたのかを思い知らされる。 「奏……好きだ、奏……」  奏の体を抱きしめ、耳元で囁く葵に奏は切ない思いを抱いた。けれどそれも一瞬、葵が奏の中心に手を伸ばしたことでそんな思いも吹き飛ぶ。 「やめろ、葵!」 「嫌だ、やめない。奏を、ちゃんとオレのものにするんだ」  顔を上げた葵はにっこりと微笑んだ。影になったそれに奏は恐怖を覚え、手足をばたつかせる。しかし、それも葵に押さえ込まれてしまい為す術がなくなってしまった。いつの間にか葵の方が体力的に上になっていたなんて、これまで知らなかった事実だ。小さな頃の葵の笑顔が瞼の裏から消えていく。 「そんな顔しないで、奏。大丈夫、連れて行くのは天国だから」  葵はそう言うと、服の下に手を入れ、全身に愛撫を始めた。 「やめろ、やめてくれ……」  ぐっと奥歯を噛み締め葵の愛撫に耐えていると、玄関からチャイムの音が響いた。瞬時に水城だと思った。 「葵、客だ…っ、出、なきゃ……!」 「出さない。そのまま帰す」  もう一度チャイムが鳴る。――水城、助けて、助けて……小さく叫ぶけれど、厚い鉄のドアはそんな声を通すこともなかった。  このまま理不尽に蹂躙されるのか――そう覚悟した、その時だった。玄関から金属を打ち鳴らすような派手な音がして、葵が手を止める。  今しかない、と思った。  戒められた両手で拳を作り、それを一気に葵の脳天へ振り下ろすと、葵がぐっと喉の奥から声を漏らし、体勢を崩した。すかさず奏は葵を蹴り飛ばし、不自由な両手のまま玄関へと走る。鍵を開けると、すぐに向こうからドアが引かれ、水城が顔を出した。 「奏……!」  驚いたその顔に奏がへらと笑う。 「サンキュ、助かったよ」 「オーナー、テーブル三番の伝票です。キッチンまでお願いします」 「了解。こっちソファ一番のオーダーだ」  トレーと伝票を交換し、外山は了解しました、と笑顔でホールに戻っていく。比較的客の入っている今日は、葛城が団体に付きっ切りな分忙しかった。 「何がワイン会だよ。大体、レンガのような赤色、濡れた犬のような香り、油気のある味わいとか言われて飲みたくなるかっての」  ため息を吐きながらキッチンに入ると、奥で水城がくくっと肩を揺らした。 「相変わらず、ああいうテイスティングは気に入らないようだな」 「ワインは美味けりゃいいの。はい、オーダー」  水城に伝票を渡すと、その顔が嫌そうに歪む。 「今日はホントに忙しすぎだな」  サボる隙もない、とため息をつく横顔に、サボるなよ、と眇めた目を向ける。 「けど、お前と話をする時間もなかったから、困ってた」 「話?」 「昨日のこと」 「あ、ああ……なんか、色々してもらって」  あの後、逃げるように帰った葵を見送った水城は、何も言わず風呂の用意をして、風呂から出た奏のために食事を用意した。それから珍しく、今日は泊まらない、と自分の家へと帰っていったのだ。  悪かったな、と奏が笑うと、真剣な目を向けて水城が、そうじゃない、ときつく返す。 「別に葵とふざけてただけだってば。おれが嘘つくと思う?」  心外だな、と口を尖らせると、嘘つけ、と水城がため息を吐く。 「……奏の手、縛られてたよな? そういう遊び? SMごっこ?」 「そんなことするか!」  さすがにそう勘違いされるのは嫌で、つい語調が強くなる。一瞬その勢いに奏自身も驚いて一呼吸置いてから、再び口を開いた。 「……油断しただけだ。未遂だったし、大丈夫だから」 「大丈夫なもんかよ。あんなことされて、大丈夫なはずないだろ?」  水城はぐっと唇を噛み締めて奏の頭を撫でた。また、水城の脳裏に高校の寮が思い出されているのが奏にもわかった。半ば無理矢理に奏を抱いたことを、後悔しているのだろう。 「ホントに平気だよ、水城」  奏が言って微笑むと、水城は不意に奏の体を抱きしめた。 「バカなこと言うなよ。昨日、震えてただろ、奏。怖かったなんて、絶対言わないと思ったから聞かなかったけど、ホントはものすごく怖かったんじゃないのか?」 「水城……」 「ごめんな、奏。昨日、もっと早く行ってやれなくて――」  ごめん、と耳元で謝られて、奏はゆるく首を振った。 「もういいよ。ホント、水城が気づいてくれたから助かったんだ。それだけでもう充分」  奏が水城の胸を両手で軽く押して離れる。眉を下げたままの水城に奏は微笑んだ。 「そして、さっさとオーダーを仕上げてくれ。これは命令」  いいな、と言うと、深くため息を吐いた水城が、了解と作業台へと戻った。
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