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雨が降った翌朝は少し憂鬱だった。 アスファルトや土の湿った臭いが鼻を突く、嫌な感覚。いつもより早く家を出た湊は、また雨の降り始めそうな空の下、駅に向かう道の途中で信乃を待ってみた。信乃とは一緒に登校する約束をしているわけではないし、連絡をしても今回は曖昧に逃げられる気がしたから、もう直接本人を捕まえるしかない。 (あの顔は…なんとなく、バレただろうな) 一昨日の会話で信乃が見せた表情を思い出し、湊は小さな息を吐いた。信乃は昔から勘が鋭いところがある。 いや、その表現よりかは、人の表情をよく読むと言った方が正しいだろうか。それは本当に良くも悪くも。今回に関しては、湊が長年の片想いに焦れてしまったのがいけなかった。本当はちゃんと告白の一つでもしたかったのに。 「あっ、」 思わずといった風に洩れた声が聞こえ、視線をやった先で信乃が居心地悪そうに立っていた。 「ど、どうしたんですか?こんな所で」 「お前のこと待ってた」 率直に理由を述べれば、作られたぎこちない苦笑が消える。しかし、信乃はすぐに表情を繕い、数歩先まで距離を縮めた。 「ごめん。この前のこと……本当は、ちゃんと言うつもりだったんだけど」 そこまで言って、信乃がまた気不味そうにするのを見た。それもそうだろう。幼馴染の、それも同性の先輩から恋愛対象で見られていたなんて、何も思うなという方が難しい。 「信乃のことは友達だと思ってる。でも、付き合いたいと思ってたことも本当で…」 「それ、答えないと駄目ですか?」 湊はその返しを奇妙だと思った。返事を待ってくれと言うなら分かる。しかし、考える時間が欲しいのではなく、返事が必要かどうかと問うのだ。友人関係の方がいいという意味だろうか。 「今の関係がいいって言うなら、はっきり俺のことふってよ」 「それは…。分からなくて」 「考える時間が欲しいってこと?」 「いや、えっと…」 しどろもどろ、濁すばかりで信乃からの明確な返答はない。他に歩行者のいない道を車が一つ通り過ぎ、二人の間に沈黙が流れた。 「分からないんです。友達と恋人の好きの違いが分からなくて、常識に収まるにはどの反応が正しいのか………」 信乃はそこまで言いかけ、ハッと何かに口を閉ざしてしまった。失言を悔いるようなその様子に湊は見覚えがあった。思い出されるのは彼の両親の存在で、稀に見え隠れする信乃を下に見る発言、思想を制限する言動。いつ頃からか気にかかってはいた。 「家で何かあった?」 問いかけた先で信乃が静かに狼狽える。しかし、数回瞬きをした後、薄い笑みが浮かんだ。 「何もないですよ」 繕われた声色に隠された本音。酷く痛々しく見えた。 (嘘つき) そんな呟きは口に出せず、長年一緒にいた幼馴染はそんなに信用出来ないかと、やるせない感情が蔓延る。本当に何もないなら、どうしてそんなにも寂しそうに笑うのか。どうして今にも泣き出しそうなのか。 「変なこと言ってすみません」 それは遠回しな拒絶にも聞こえた。信乃は先に行くと言い置いて去ってしまい、その背中を追いかけることが湊には出来なかった。 幼馴染だ、好きだと言っておきながら、頼られすらしない現状が情けない。信乃の背中が見えなくなって暫く、湊はゆっくりと歩き始めた。 「今日は後輩君いないんだ」 午前中の授業を終え、湊の向かいにある空席に座ったクラスメイトが揶揄うように言った。コンビニの袋を持っているということは、一緒に昼食を摂るつもりで来たのだろう。 「別に約束してるわけじゃないし」 「ふぅん」 「なんだよ」 鼻先での返事が癪に触って、心なしか低い声で聞き返した。そのニヤケ顔も正直言って腹が立つ。 「あっ、噂をすれば例の後輩君だ。女子と歩いてる」 窓の外に目をやった友人の発言に、湊は反射的に顔を向けた。そのミルクティー色の髪は、黒や茶の中では少し目立つ。異性と並んでいるから何かあると決め付けはしないけれど、今の湊にはあまり面白い場面ではない。 (こっちは何年片想いしてると思ってるんだ) 恋なんて可愛らしい単語は似つかわしくないこの気持ちは、果たしてどう表現すべきなのだろう。一度は乾いたコンクリートの地面に雫が落ち、色の変わったグレーを見て再び降り出した雨を知る。 (そう言やあいつ、天気が悪いといつも顔色悪かったな) 薄暗い空を見て、普段より数段大人しい信乃を思い出した。湊の記憶が正しければ物心ついた時からそうだ。久しく見ていない姿だが、不意に心配になった。 「なぁ、湊。今日バイトないだろ?帰りカラオケ行かん?」 「悪い。用事ある」 「彼女?」 「うるせぇ。いないの知ってんだろ」 友人からの誘いを蹴り、放課後になると湊は早々に学校を出た。受験を控えた三年生は入試対策と称し、他学年より一時間多く授業が行われることが稀にある。今日も例に洩れず通常授業に加えて授業を受けた為、下駄箱に信乃のスニーカーはもうなかった。 (何でも知ってるつもりだったのになー…) 何が好きで、何が嫌いなのか。どうされると喜ぶとか、こうされると嫌がるとか。本当に文字通り何でも知っているつもりだった。それこそ信乃本人よりも。けれどそんなのは湊自身の思い込みで、信乃が知って欲しかったのは、もっと別のことなのではないかと。 インターホンに伸ばした手は、少しだけ怖気づいていた。また信乃に干渉の拒絶をされてしまったら、今度こそどうしたらいいのか分からなくなる。しかし、やっとの思いで押したインターホンに反応はなかった。 (まだ帰ってない?) そんな予想が浮かんだものの、二年生は三年生より早く放課しているし、こんな雨の日に長時間寄り道するとも思えない。散々迷った挙句に引いたドアは容易く開いた。 (なんだ。帰ってんじゃん) 見慣れた信乃のスニーカーを見つけ、ほっと息を吐いた。 「おーい」 共働きの両親はまだ帰っていないようで、電気の点いていない部屋に湊の呼びかけだけが響く。普段ならここで引き返すのだが、この前のことがあったからか嫌な予感がした。 湊は少し考えた後、靴を脱ぎ信乃の部屋へと向かう。開けたドアの向こうにはベッドに横たわる信乃の背中があって、寝ていたのかと胸を撫で下ろした直後、視線をずらした先のそれに背筋がひやりとした。床に落ちたブレザーのジャケットとリュック。その上に重なる鎮痛剤の箱が二つ。片方は中が空で、血の気が引くのと同時に信乃の背中へ駆け寄った。 「お、おい…信乃!信乃?!」 「…っ、!」 横たわる体に飛びついた途端、湊の予感とは裏腹に信乃はすぐ目を開いた。 「ぇ、なに……みなと、さん…?」 目を丸くさせ、やや掠れた声が湊を呼ぶ。眠そうに瞬きを繰り返す様は至って普通だ。 「お前……寝てただけ?」 「は、はい」 切羽詰まる湊を見つめ、信乃が頷く。呆気ないほどにいつもと変わらなかった態度だった。 「どうしたんですか?」 「信乃が…変な気でも起こしたのかと思って……」 「は?」 脱力した湊に、信乃の口から間抜けな声が出る。しかし、床に落ちたそれを見て納得した声を上げた。あまりに突飛した思考回路だと言われるかもしれないけれど、鎮痛剤を大量摂取したと咄嗟に勘違いしてしまった。 「前のやつがなくなったから、新しいのを開けただけですよ」 ベッドの縁に座り直した信乃が微笑する。そのガラス一枚隔てたような笑い方に、湊は朝と同じ焦燥感を覚えた。どうして空漠と空虚を合わせたような目をするのだろう。 「ねぇ、やっぱり俺じゃ駄目?」 屈んだまま信乃を見上げると、薄暗い空間でその目が瞬いた。 「信乃は友達との好きの違いが分からないって言ったけど、俺もそんなのよく分からないよ。でも、ずっと隣にいたいとか、相手に何かしてあげたいとか、そういう感情だけで付き合ったっていいじゃん」 懇願にも似た湊の声は切なく震えた。恋愛感情はないと言われたっていい。昔、血の繋がらない夏芽と二人、好奇な視線に晒される中で酷くどうでもよさそうに笑ってくれたのは信乃だけだった。湊が信乃に隣にいて欲しいのだ。 「俺、結構変わってますよ」 「そうかもね」 「大分面倒くさいし」 「うん」 「周りの顔色ばっかり気にして、その場に見合った言動を探して、あれこれ考えて、勝手に疲れる厄介な性格なんです。変えられないんです。ずっと…何年も何年も、ずっとそうしてきた癖が直せない」 「直さなくてもいいよ」 「でも、そうしたら……俺は、湊さんに何がしてあげられるって言うんですか?好きなはずなのに、嫌いじゃないのは本当だけど…きっと湊さんにも、冷たい人間だと思われることをしてしまうから……」 手の甲を雫が濡らした時、遠くでドアの開く音がした。信乃はハッと顔を上げ、慌てて袖口で涙を拭う。その動作や表情を咄嗟にしてしまうのは、信乃の言う、周りばかり気にする厄介な性格というやつなのだろう。 「なぁ、今日うち泊まりに来ない?親なら二人ともいないし」 手を握り問いかければ、驚きに瞬いたその瞳から雫が一つ落ちた。信乃が冷たい人間だと言うなら、自分も同じだと湊は思う。 「信乃はどうしたい?どっちがマシ?」 壁一枚隔てたこの嗚咽に気付けない相手になど、さっさと飽きてしまえと。例えどっちの答えであっても、また信乃が正解を探して迷走した結果かもしれないけれど、マシという妥協の末でもいいとさえ思った。 「俺と一緒に来る?」 手を差し伸べるふりの狡い問いかけ。間も無くして頷いた信乃に、湊の体を後味の悪い優越感が走る。 「話してくるから待ってて」 そう言い湊は部屋を出た。リビングにいた信乃の母親に、勉強を口実に外泊してもいいかと問えば快く了解してくれた。 「いいってさ。行こ」 部屋に戻って信乃に声をかけると、携帯電話を片手に後ろをついて来た。夏芽はいつも通りいるけれど、昔から信乃に懐いて構いたがるから、二人きりより警戒されないだろう。 三人で夕飯を食べた後、信乃と入れ替わりで風呂に入った湊が自室へ足を向けると、中途半端に開いたドアに気が付いた。出る際は閉めたはずなのに、今は暗い廊下まで部屋の明かりが溢れている。 「たまに思うの。お兄ちゃん、しーちゃんのことが好きなんじゃないかって」 部屋から聞こえた声は夏芽のもので、立ち止まった足が凍りつく。 「まぁ、嫌われてはないと思うけど」 「もう!違う、そういう意味じゃなくて…!」 焦ったそうな声色に嫌な予感がした。夏芽は昔から信乃が大好きで、子供の頃はよく間に割り込まれた。そして湊と夏芽は血縁関係がない兄弟にも関わらず、昔から好みがよく似ている。 「しーちゃんは私のことどう思う?」 「え?」 「私はしーちゃんのこと好きだよ。もちろん恋愛の意味で」 湊の嫌な予感が的中してしまった。 二人は幼馴染で、一緒に出かけることがあるほど仲も良くて、側から見れば少女漫画のような二人が一番お似合いだ。それに信乃のことだから、自分の時のように濁すに違いない。ならばここは多少不自然でも割って入ろうかと、床を見つめていた視線を持ち上げた。 「ありがとう、好きになってくれて。でも、ごめんね」 穏やかに、それでいてハッキリとした返答に湊は瞠目した。自分の時は散々濁したくせに、夏芽にはどうしてそう瞬時に判断が出来るのか。間も無くして部屋から出て来た夏芽は、廊下の途中で立ち止まる湊に静かな驚きを見せる。しかし声をかけられることはなく、無言で横を通り過ぎられた。そのまま湊が自室に入ると、信乃が気不味そうに視線を逸らす。 「もう電気消してもいい?」 「あ、はい」 信乃の小さな頷きは空間に飲み込まれ、真っ暗になった部屋を静寂が満たした。 「あのさ」 「はい?」 「俺、風呂から戻って来る時、夏芽とお前の会話聞いちゃったんだけど」 「えっ……はい」 「夏芽の告白はすぐ断れるのに俺の告白を濁したのは、期待してもいいってこと?」 顔が見えないのをいいことに踏み込んだ質問を投げるも、静まり返った部屋は以前として静かなまま。返されない答えに信乃の戸惑いを感じた。嗚呼、またやってしまったと。そんなつもりはなかったなんて、言い訳がましい言葉が続いて浮かぶ。 「ごめん。意地悪言った」 一方的に話を切ってしまえば、信乃はそれ以降も言葉を発しなかった。目を瞑ると次第に意識は溶け、携帯電話のアラームで湊が目を覚ました時、隣にいたはずの信乃はいなくなっていた。そこにあるのは綺麗に畳まれた布団だけ。既に起きていた夏芽に聞くと、用事があると言って先に出たらしい。 (やっぱり、告白のことせっついたのが駄目だったかな…) そう昨晩の言動を思い出しながら身支度を整え、家を出ると、駅に向かう途中に佇む信乃を見つけた。信乃は湊の存在に気付き、徐に向き直る。 「おはようございます」 「お、おはよ…なに、どうしたのこんな所で」 「湊さんのこと待ってました」 既視感のあるやり取りに双方の目元が少しだけ緩んで、その重なりに微笑が続く。しかし、次いで信乃の口から出た言葉は、一切の雑音を湊から持ち去った。 「俺と付き合ってくれませんか?」 真剣味を帯びた声が問い、湊は咄嗟に反応が出来なかった。二人の間を雨上がりの湿った風が抜け、揺れたミルクティーを溶かした髪と微かに香るバニラ。ここにあるのはあの日と同じ、濡れたアスファルトのはずが、今朝はどうしてだか清々しさを纏っていた。 「正直な話、友達と恋人の好きの違いが未だによく分かりません…。でも、夏芽ちゃんに言われたんです。何でもかんでも頭で考えるなって。それで、直感を信じるなら、湊さんなんじゃないかと」 「その考えがそもそも理屈っぽいけどな」 「えっ」 そんな指摘に信乃が困惑した面持ちをするので、湊は思わず笑ってしまった。 そうだ、信乃は昔からそういう人間だった。周りから自分がどう見られるかを酷く気にするくせに、他人には殆ど興味がない。 両親が再婚で湊と夏芽に血の繋がりがないと知られた幼少期も、周りが面白おかしく囃し立てる中、信乃だけがどうでもよさそうに立っていた。他人への無関心さが湊を安堵させる一方、そんな相手から好かれたいという可笑しな矛盾。この関係は鼻からどこか変わっているのだ。ならば世の理などもう何一つ倣うつもりもない。 「いつか、湊さんじゃないと駄目だって言わせてあげる」 きっと二人が付き合ったところで、関係はこれまでと大して変わらないだろう。 それでも湊が今の関係に新たな名前を付けたがるのは、おもちゃを独り占めする子供と同じ独占欲だった。そこに理由を求めることは野暮というものである。
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