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4
この世界は信乃にとってとても生き辛い。
周囲の目ばかりが気になって一足一動に疲れるくせに、他人に然程興味がなく、深く関わることが苦手だった。いつも上手く言葉が出てこなくて、急かされて、間違った気持ちが伝わっていることに気づきながら、もうどうでもいいやと面倒な感情が全てを停滞させる。
(湊さん、引いてなかったかな)
数日前の自室での出来事を思い出しながら、信乃は朝の電車に揺られた。自分の気持ちを伝える時、言葉より先に涙が出てしまうのは昔からのこと。この年齢にもなって直らないそれが嫌で、余計に上部ばかりの言葉を選ぶようになってしまった。
それでも湊は、信乃の気持ちを最後まで聞いてくれた。
(こんなのと付き合いたいとか、湊さんも大概変わり者だろ…)
付き合った現時点で湊にメリットがあるとは到底思えなくて、自身の何がいいのだろうと疑問符を浮かべる。
「しーの」
背中を軽く叩かれると同時に名前を呼ばれ、信乃は意識を浮上させた。耳に馴染んだ声を追いかければ、湊が隣のつり革を掴み顔を覗き込まれる。
「隣りの車両に乗るの見つけたから」
心なしか肩で息をする姿に、もしかしたら駅まで走ってきたのかもしれないと思った。それが自分と一緒に登校するためと考えるのは、信乃の自惚れだろうか。
「その癖」
「え?」
終始言葉のない信乃は、唐突な指摘に漸く口が開いた。
「こっちの考えてること読み取るみたいな、無言でじっと見つめる癖。昔っからだな」
信乃はそこまで言われて初めて気が付いた。人の顔色を伺う癖はこういった所で出るのだ。
「別に無理に直すことは……」
湊が言いかけた時、揺れた車体に振られた信乃が均衡を崩した。咄嗟に伸ばされた腕に支えられ、顔を上げるとピントも合わないほどの至近距離で湊と目が合う。瞠目したそれが気恥ずかし気に動揺し、嗚呼、本当に自分のことが好きなのだと。信乃は他人事のように思った。
「ありがとうございます」
つり革を握り直した信乃は、変わらない様子でお礼を口にする。その反応がなんとなく湊を傷付けているような気がして、申し訳ない気持ちになった。
「なぁ、次の日曜日って空いてる?」
空気を誤魔化すように話題を振られ、信乃は数日後の予定を考えた。今週は確か、週末にしては珍しくアルバイトのシフトが入っていない。アルバイトは、の話にはなるけれど。
「すみません。日曜日はちょっと…」
「そっか」
湊は理由を聞いてこなかったが、信乃の口から言える内容ではなかった。自分だけの予定ならまだしも、今回は人が絡んでくるのでずらしようがない。日曜日になり向かった駅前は、平日より幾分か空いていた。雑踏を避け木陰でスマホを弄る信乃へ、間も無くして待ち人が歩み寄る。
「しーちゃん」
信乃をそう呼ぶのは知る限りで一人だけ。顔を上げると、ギンガムチェックのスカートを着た夏芽がいた。
「どうせ同じマンションなんだから、わざわざ駅で待ち合わせなくてもよくない?」
「湊さんに見られるかもしれないじゃん。誕生日プレゼントを買いに行くとか、本人に知られたらマズイでしょ」
「それもそうか」
納得した様子の夏芽と信乃の目的は、来月の上旬に誕生日を迎える湊へのプレゼントを買うこと。正確に言えば夏芽が渡す物で、信乃は選ぶのを手伝ってほしいと呼ばれたのだ。
「どんな感じの物にするか決まってる?」
「大体はね。バイトも出来るようになったし、今年は服にしようかなって思ってる。だからしーちゃんについて来てもらったの」
「あー、身長ほとんど一緒だから?」
「そうそう。しーちゃんは何か渡さないの?」
「俺?俺は…あげた方が、いいかな?」
「あげたければあげたければ?てか、毎年なんだかんだお菓子作ってあげてるじゃん」
それは確かにそうなのだけれど、人生は何があるか分からないもので、今年はどうしてだか湊と付き合っている。あまりに関係が変わらなさすぎて、すっかり失念していた。
相変わらず登下校は特別約束していないし、昼食もたまたま会ったら一緒に食べるぐらいで、たまに買い食いをして帰ったり、一緒にゲームをしたりするぐらい。付き合う前と何も変わっていない。
「しーちゃん」
また深い思考に沈む最中、夏芽に名前を呼ばれハッとした。
「バス来たよ」
夏芽が指した先にバスが止まり、信乃はなんとか思考を振り払う。
(付き合ったら普通渡すものなのかな…いや、でも急に?去年まではもっとこう、軽い感じで……)
目的地のショッピングモールで店を見て回りながら、信乃の頭の隅にはそんな疑問が居座る。夏芽とは湊と同様に幼馴染で、昔から二人で出かけることもあったから疑問に思わなかったけれど、もしかするとこうやって二人で買い物をするのも、湊からすればあまり快いものではないのかもしれない。
「夏芽ちゃんって俺のどこがいいの?」
プレゼントを買い終え、最近出来たというジェラートの店に並びながら聞いてみた。
あまり甘い物を好まない信乃は柑橘系の飲み物にしたが、湊ならきっと先程の夏芽と同じようにフレーバーに悩んでいたことだろう。血は繋がっていないが、変な所で二人はよく似ている。
「また唐突な」
「ごめん…いや、でも断っておいて言うのもなんだけど、夏芽ちゃん可愛いし結構モテるでしょ。クラスの人に彼氏いるのか聞かれたことあるよ」
受け取った商品を手にテラスのカウンター席へ移動しながら、過去に何度かある光景を思い出した。夏芽は信乃の隣で淡いピンク色のそれを口に運び、少しばかり思案する素振り。
「顔」
「マジ?」
予想外な返答に思わず笑ってしまった。
特別顔がいいわけじゃないなんてこと、信乃自身が一番知っている。すると夏芽も小さく笑い、そしてどこか真面目な声で続けた。
「雰囲気って言った方が正しいのかな…。しーちゃんの雰囲気、私は好きだよ。こっちに関心なさそうで人によっては冷たく感じるかもしれないけど、私はそれが安心する。例え私が突拍子もないこと言っても、大抵は笑ってくれるんだろうなっていう安心感」
風に掬われた長髪を押さえた夏芽が、信乃には酷く眩しく見えた。自分は好きの感情さえまだ朧げなのに、迷いなく好きと言える夏芽が羨ましくて仕方がない。
「自分からふっておいて、好きだった理由を聞く神経はどうかと思うけどね」
棘のある物言いで睨みつけられ、信乃は自身の失態に慌てた。疑問を解決する気持ちが先走ってしまい、酷くデリカシーのない質問をしてしまった。
「ご、ごめん。傷付けるつもりは……」
「いーよ、別に。私もきっと断られるだろうと思って告白したし」
そう夏芽がおざなりに微笑んだかと思うと、掴まれた腕に思考が止まった。唇に信乃の知らない熱が触れ、淡いジェラートの味がする。
「これで許してあげる」
呆然とする信乃に向かって、夏芽が悪戯に笑う。信乃は何も言えず、咄嗟に罪悪感の三文字が浮かんだ。それが何に対してなのかは分からないけれど。
「夏芽ちゃん……ここ、外だけど」
テラス席に他のお客はいないとしても、店内と隔てる壁は全面ガラスだ。どこで誰が見ているか分かったものではない。しかし、夏芽は豆鉄砲を食らったような表情をした。
「いや、しーちゃん気にするのそこ?」
「違うか」
「明らかに違うでしょ。部屋で二人っきりだったらいいってわけ?」
「よくないね」
どこか他人事な返答に夏芽は呆れながらも、決して怒りはしなかった。告白の仕方もそうだが、実にさっぱりとした清々しい性格だと思う。そんな夏芽と帰路の途中で別れた途端、信乃は今更な気付きをした。初めてしたキスが幼馴染の女の子で、自分には別に恋人がいて、しかも相手の女の子が恋人の妹で。重複する情報に頭が混乱しだす。
(いや、でも湊さんに言わなければバレるわけないか)
そう結論付けた翌朝、携帯電話の画面に浮かぶ湊の名前を見て妙な汗をかいた。内容は取り留めもない日常会話。それが届いたのは昨夜の日付が変わる少し前だ。
(湊さんって、なんだかんだシスコンっぽいところあるしな…。妹に手出したとか思われたらどうしよう)
ベッドの縁に腰かけ、信乃は寝起きの頭で悩みながら適当な返事を送る。
付き合って間もなく、こんな隠し事が出来るなんて思いもしなかった。長年の幼馴染の勘が働く湊を前に、信乃はどれだけ動揺せずにいられるだろうか。せめて通学路では鉢合わせないことを願いつつ、準備を終えて部屋を出た矢先にドアの前で佇む湊と対面した。
「おはよ」
「おはよ…うございます……」
挨拶を返す信乃の声が分かりやすく動揺する。早くも隠し通すことは不可能な気がした。
「わざわざ迎えに来るなんてどうしたんですか?あっ、もしかして昨日の返信が遅かったこと怒ってます?」
「ふーん、そうやって誤魔化すんだ。もう夏芽から聞いちゃってるだけど」
鼻を一つ鳴らし、湊が顔を覗き込んできた。咄嗟に視線を逸らすが、最早それは自白と同等の行為だ。数秒間は粘ったものの、信乃は己の立場の悪さに観念する。
「ご、ごめんなさい!でも、あれは不可抗力と言うか……夏芽ちゃんも多分俺のこと揶揄うつもりでキスしただけで!!」
「はぁ?!あいつお前にキスしたのかよ!」
普段の倍近い声量で叫ばれ、信乃はぱちりと目を瞬かせる。
「…?」
恐る恐る目をやった湊の眉間には、深いシワが寄っていた。わけが分からず頭上にクエスチョンマークを浮かべていると、大きなため息が流れた。
「夏芽の様子がちょっと変だと思ってカマかけただけ」
「え、そんなの狡い」
「狡いもクソもあるか!俺とはしたことねぇのに……いや既にしてても怒るけど、とにかく他の奴とキスしたことに怒ってんだよ!夏芽が男なら殴ってるぞ?!」
一頻り叫び散らした湊はムスッと顔を顰める。
「え、っとー……ごめん、なさい?」
取り敢えずどうしようかと、何となく謝罪をしてみる。湊はそんな信乃を見つめたまま、また一つ溜息を吐いた。
「ごめん、八つ当たりした。お前が悪くないのは分かってる」
まだ気にしている様子の湊はそう言い、信乃の手を取った。
「行こ」
繋がれた手に信乃は何も言えず、ただ引かれるがまま下りのエレベーターに乗り込んだ。
湊と最後に手を繋いだのは何年前だろう。信乃は落ち着かないまま、エレベーターの下りる音だけがする個室でそんなことを考えた。
「なぁ、ここでキスしてもいい?」
「なっ…!何言ってるんですか?!」
前触れのない問いかけに、信乃は顔に熱が集まるのが分かった。
「お前が嫌か嫌じゃないか教えて」
掴まれた手を引き寄せられ、信乃の身体が強張る。
絡んだ指の乾いた感触が嫌に生々しく感じ、信乃は無意識に口を閉ざしてしまう。それを湊は許可と捉えたらしく、その黒い毛先が信乃の頬を擽った。長く親しんだ第三者の匂い。信乃の手が湊のそれを強く握った。
「変な顔」
ゆっくりと目を開けた先で、湊が満足気な表情を浮かべていた。エレベーターの到着した音が軽やかに鳴り、繋がれていた手が解けてしまった。
「なんか、慣れないです。この感じ」
世の中の恋人同士はみんなこんなことをしているのかと思うと、信乃は尊敬の念さえ覚えた。キスの一つでこんなにドキドキしていたら、自分の心臓はいつか壊れてしまうのではないかと。
「俺だってそうだよ。初めてなんだから」
「じゃあ、いっぱいすれば慣れますかね」
「え?あぁ……うん。まぁ、そうなんじゃない?」
一瞬だけ驚いた様子の湊が頷き、信乃は自分がした発言を客観視した。これではまるで信乃が湊とのキスを求めているみたいではないか。
「お前言ってから自分で恥ずかしくなるのやめろって」
呆れ声で言われ、それは指摘しないでほしいと心の底から思った。思考がいつものように回らないから、余計なことを口にしてしまう。慣れない関係に、信乃は隣を歩く湊を見れなくなってしまった。今まで自分たちは何を話し、どう接していたのだろうか。
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