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5
「湊さーん、帰りましょー」
放課後の教室に聞き慣れた声が伸び、ドアからミクルティー色の髪が覗く。待ってましたと言わんばかりに視線をやれば、作業をしている湊の様子を見て、信乃は静かに視線を逸らした。来るタイミングを間違えたとでも言いたいのだろう。
「お前も手伝えよ」
「えぇ…」
そう嫌々な声を出しながら側へ寄って来た信乃の手に、湊はホッチキスを握らせた。そして、プリントで出来た三つの山から、一枚ずつ取って重ねたそれを束ねるよう指示する。夏期講習で配る冊子の制作を教師から頼まれたのは、六限目の授業が終わった直後だ。
「いい時に来てくれてよかったー」
「俺は完全にとばっちりです」
三年生でもない信乃からすれば巻き添えもいいところだろうが、せっかく七限目の授業がない日に雑用など湊も勘弁してほしい。
「あれ、後輩くんが捕まってる」
「湊やめてやれよ。かわいそうだろ」
信乃の存在に気付いたクラスメイトが集まり、哀れみと共に軽い笑い声が飛ぶ。元より一緒にいる場面が頻繁に目撃されていた二人は、すっかりセットとして認識されていた。
「うるせぇな。可哀想だと思うならお前らが手伝え」
「もう帰るし嫌だ」
「俺も塾あるからパス」
「薄情な奴ら…」
潔い拒否に湊は棘のある言葉を吐いた。
一見は無愛想で近寄りがたい雰囲気を纏っているが、話すとフレンドリーなので、湊は昔から男女問わず友達が多い。異性から告白されたこともあった。しかし、その時には既に信乃への恋愛感情を自覚していて、欠片も心が動かず拗らせた結果がこれだ。
「君、何くんだっけ」
ひたすらホッチキスを鳴らしていた信乃は、そんな唐突に振られた質問に、きょとんと相手の顔を見つめた。
「佐久間です」
「あーそうそう、そんな感じだったわ。前から思ってたけどこの髪どこで染めてんの?」
「これは西校の近くの、緑の看板の所です。継続来店なら割引あるのでオススメですよ」
「マジで?これ何色オーダー?」
「ミルクティーベージュです。あっ、でも元の髪が明るめなので、色味は若干調整してもらってます。だからブリーチも最初に一回やったぐらいで………」
話の盛り上がる信乃たちに、湊は疎外感と似て非なる焦りを覚えた。信乃は昔から人当たりが良くて、特別親しくない相手でも、初対面でも会話を回すのが上手い。今思えばそれは、相手の顔色を伺い、正解ばかり探す癖からくる結果なのだろう。
「それで、刈り上げをこうさー」
話す流れで信乃へと伸ばされたクラスメイトの手に、プリントを積んだ机が激しく音を立てた。三人は肩を跳ねさせ、蹲るように膝を押さえる湊へ視線をやる。
「い、った…。膝、ぶつけた」
じわじわと来る痛みに耐える湊の声を聞いて、ドッと笑いが起きた。
「ビックリするから止めろって。あっ、そろそろ塾遅れそうだから行くわ」
「俺も。また明日なー」
去り行くクラスメイトを見送り、湊と信乃は再び冊子の制作に戻った。いつの間にか他の生徒もいなくなった教室にはホッチキスの音と、遠くからの運動部のかけ声が響いていた。
「膝、大丈夫ですか?」
「それを言うな」
ポーカーフェイスを装いたいのに、咄嗟に慌ててしまった自分が恥ずかしい。どうやら信乃もそれは察したようで、微かに笑いを洩らされた。
「俺が他の人に触られるのは嫌ですか?」
「俺が独占欲強いの知ってるだろ」
「まぁ、そうですね」
「鬱陶しいと思う?」
「何が?」
「独占欲強い恋人のこと」
「気にしてるんですか?」
「多少は」
テンポよく会話が進み、そこで途切れる。合わせないようにしていた視線を持ち上げると、また返答を考えている様子の信乃がいた。
「何も感情が生まれないので多分どうとも思いません」
「そっか」
堅苦しい返答になんだか逆に気が抜けて、今度は湊が少しだけ笑った。
「湊さん」
「ん?」
「誕生日、何か欲しいものないですか?」
「はぁ?なに……話変わりすぎだろ」
「すみません。最近ずっとそのことばかり考えていて、悩みすぎてタイミングを間違えました」
微塵も申し訳なくなさそうに言い切る信乃は一層のこと清々しい。今まで誕生日には湊の好きなお菓子を作ってくれることが多かったが、今年は付き合っているので変化をつけようと考えてくれたのだろう。信乃なりに歩み寄ってくれているその質問に気恥ずかしくなって、それと同時に湊の中で思慕が静かに積もる。
「じゃあ、どっか出かけない?ベタにテーマパークとか」
少女漫画を思わせる、そんなありふれたデートを提案したのは、現状に湊が浮かれている証拠だった。しかし、間も無くして後悔が頭を出し、慌てて口を開く。
「ごめん、やっぱり今のなし。お前ああいう人が多い所は苦手………」
「いいですよ」
被せ気味に頷かれ、湊は目を見開いた。信乃は昔から人の多い場所を得意としていない。そもそも、疲れるからとあまり家を出たがらないのが常だった。
「湊さんの誕生日なんですから、俺優先にしてどうするんですか」
呆れ混じりで笑う信乃だが、信乃の気乗りしない感情の上に自身の幸せが成り立っては意味がないのだ。
「今度の土曜日とかどうですか?」
「俺は空いてる……けど、本当にいいの?」
「もちろん。と言うより、次の土曜日は親が二人共休みで家にいるので、出来れば俺は一日家を空けたいです。しんどいので」
携帯電話のカレンダーを見ながら、ぽつりと溢された生々しいそれに、信乃の内側に触れた気がした。それは何年も見せてくれなかった心の奥の深い所。信乃の境遇を喜んでいるわけでは決してないけれど、傾き始めた重心にどうしてこんなにも満たされるのか。
(俺って性格悪いのかなー…)
数日後、約束通り訪れたパーク内のベンチで、湊はぼんやりと考えた。しかし、こんなことを信乃に話してもきっと曖昧に笑われて終わるのだ。他人事じみた反応が信乃らしくて、気が楽で。彼がそう言うならいいかという気さえした。
「湊さん」
呼ばれた名前に顔を向けると、席取りをする湊の代わりにフードのワゴンに並んでいた信乃がいた。
「はい、シナモンチュロス」
「ありがと。お前はなんにしたの?」
「バターブラックペッパー」
「そんな味あるんだ」
「期間限定のやつ。ポテトみたいで美味しいらしいですよ」
信乃はベンチの隣に腰かけ、バターのいい香りがするそれに口を開ける。最中に見渡したパーク内は制服を着た学生で賑わっていた。同じ制服の多さからして修学旅行だろうか。
「湊さん、進路とかどうするつもりですか?」
「おーいー。こんな時に現実に戻すなって」
「いや、だってもう夏はそこですよ」
文句を投げてはみたが、信乃の言う通り季節はもう夏期に片足を突っ込んでいるのだ。高校三年生のこの時期に遊んでいてもいいのかと、そういった言葉の裏さえ疑ってしまう。
「大学はもう決まってるよ。家からだとちょっと遠いから、一人暮らしになるかな」
「え…じゃあ、実家から離れちゃうんですか?」
やや食い気味に問うその言葉を、湊は少し意外に思った。信乃のことだから、少し離れるぐらい大して問題視しないだろうと。しかし、どこか不安を湛えた目に信乃の背景を思い出した。
(そうか、逃げ場がなくなるのか)
あの日、薄暗闇で見た信乃の涙が脳裏を掠める。今にも息の根が止まりそうな、押し殺された喘鳴が耳の奥で鳴った。背筋がヒヤリとして、咄嗟に湊自身の呼吸も浅くなる。
「希望の大学に行けるといいですね」
微笑む目元に湊は何も言えなかった。カーテンで日差しを遮るように、寂寥の表情をまた隠される。もう二度とそんな顔をさせたくないと願ったはずが、結局また感情を繕わせ。一体自分は彼に何をしてあげたかったのかと。
「でもまだ受かってもないから、どうなるか分からないよ」
「えー?湊さん頭いいじゃないですか」
「お前とそんな変わらないだろ」
嘘か誠か、本音か建前か。そんな掴み所のない羊毛のような軽さが好きだった。いつもと変わらない笑みを見せる信乃に、湊もまた普段通り笑う。
咄嗟に言いそうになった言葉は、あまりに身勝手で我儘な願望だった。信乃の手を取り、一緒に逃げようと言えるほど湊は大人ではないし、事情が分からないほど子供でもない。照り渡った清々しい空に、巻き戻せない時の流れを感じた。
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