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発端はありふれた勝負だった。 放課後のカラオケボックスで何曲か歌った後に、どちらかが言い出したお遊び。採点システムで高得点を出した方が何でも願い事を言えるなんて、罰ゲームまで設けて二回戦まで勝負を持ち込んだ。結果、僅差で湊が勝利を収め、やけくそになった信乃が言い放つ。 「いいですよ、何でも言ってください」 それは湊に対する一種の信頼だろう。いくら罰ゲームとは言っても、自分が本気で嫌がることは言わないと信乃は高を括っていた。 「本当になんでもいい?」 予想とは裏腹に真剣みを帯びた湊が隣に座り、信乃は驚きと共に一抹の不安を覚える。それでもぎこちなく頭を縦に振ると距離が縮められ、本能的にやや身を引いてしまった。 しかし、背後はすぐ壁に行き止まり唇が重なる。キスは今回が初めてではないけれど、触れた舌先にいつもと違う空気を感じた。 「あの…キスだけで、いいんですか?」 唇が離れた最中に問いかければ、湊が静かに瞠目した。だが、再び奪われた呼吸に質問は誤魔化され、湊からの返事はなかった。その理由を心の片隅で疑問に思っていると、頭上の壁に設置された電話が鳴り、信乃は湊が離れるのを待って手を伸ばす。 『お時間10分前です』 「はーい、ありがとうございます」 返事をして受話器を戻した信乃は、ソファに座り直し髪を掻き撫でる湊に目をやった。 「タイミング最悪…」 「店員さんが入ってこないだけマシでしょ」 「そうだけどさぁ」 カラオケあるあるなのかは知らないけれど、よく聞くのはそんな場面。湊はどこか不貞腐れた面持ちで、残り少ないジュースを飲み干した。 「湊さんって抱きたい側なんですか?」 荷物をまとめながら、遠回しな言い方が思いつかなかった信乃は真正面から質問を投げた。その直球さは湊も感じたらしく、ギョッとした目を向けられる。 「俺も性欲がないわけではないですけど、正直人を抱きたいとも抱かれたいとも思ったことがないので、その辺りの判断はお任せします。そもそも湊さん俺で勃つんですか?」 「お前さぁ……ねぇ、最近マジでその質問の仕方どうした?今までそんなじゃなかったろ。なんなら周りくどいまであったのに」 「嫌ですか?」 「そんなことはないけど、どうしたんだろうとは思うよ。ちょっと強引に付き合わせた自覚はあるから、また変に気使わせてるのかなーとか」 湊はそう言うけれど何だか違う気がして、疑問を抱えたまま信乃は背凭れに体を預ける。確かに少し前までは場の正解ばかり探して発言していたから、自身の疑問はあまり口にしなかった。今になって思うと、変なところに疑問を持つ奴だと笑われるのを懸念していたのかもしれない。 しかし、湊はいつだって信乃の言葉を最後まで聞いてくれる。もう不完全燃焼を抱えなくてもいいのだ。 「前々から思ってるんです。そういう行為のメリットは何なんでしょうか。男女にしても生産性を求めず行われることもあるわけで……って、メリットとか言ってる時点でなんかあれですけど」 「メリットだろ、あんなの」 苦笑混じりで頭を掻けば、湊が先程と同じ真剣みを帯びた声で言うので、信乃もつられて表情を落ち着かせた。 「物理的にでも、精神的にでも、何かしらプラスで得られるものがあるからするんじゃないの?」 経験したことのない者同士が想像で話した所で発展はないけれど、重なった価値観にどこかほっとする。カラオケボックスを後にし、マンションのエレベーターで先に降りた信乃は湊へ軽く手を振った。余韻とは正にこのことだ。もう残っているはずもない相手の体温を辿る不確かな思慕。捻ったドアノブで玄関の鍵が開いていることに気付き、そんな朧げな物は消え失せてしまったけれど。 「お帰り」 「ただいま」 キッチンに立つ母親へ、複雑な感情を抱きながら笑みを作って見せた。部屋に充満する料理の匂いが、どこか信乃を息苦しくさせる。 「お風呂溜まってるから先に入っちゃって」 「うん」 荷物を自室に置くと、信乃は逃げるように脱衣所へ向かった。洗濯機の蓋に着替えを置き、外したピアスを窓辺の容器に置こうと手を伸ばす。すると、いつもあるはずのそれがないことに気が付いた。 (湊さんに貰ったやつも確かここに…) 昨日外したそれは風呂から出た際に取り忘れ、今日は鞄に入れていた予備のピアスを一日付けていた。容器ごと消えている現状に嫌な予感がして、信乃は急いで脱衣所を出る。 「母さん、窓の所に置いてた入れ物知らない?」 恐る恐る問いかけると、振り返ったその顔が不可解を表し、間も無くして思い出したような声を上げた。 「あぁ、あれね。ずっと邪魔だと思ってて捨てちゃった。あれ置いたの信乃?」 その物言いは実に軽く、あっけらかんとしていた。それでも、置いていたピアスが湊から貰った物でなければ、信乃も母親の言葉を聞き流せたかもしれない。 「そこにピアス乗ってなかった?湊さんに……」 「えー?どうだったかなぁ。ゴミ捨てる時にいちいち見ないし、どうだろう。でもピアスなんてたくさん持ってるんだし一つぐらいいいでしょ?」 母親は視線をまな板へ戻し、再び野菜を切り始めた。家庭料理の代表格とされるカレーの匂いと、温かみがあるはずの調理音。酷く嫌気が差した。頭から爪先にかけて温度の下がる感覚がよく分かる。信乃は数秒もの間その場に立ち尽くし、ようやく動き出した足で脱衣所へ戻った。もう流す涙など一滴もなく、ただひたすらに冷め切った感情が理解を拒んだ。 (あそこに置くから捨てないでって前に言って……いや、聞いてるわけないか) 夏場で暑いはずが、渦巻く寒気を感じた。 そして、家族という肩書きに固定概念を重ね続け、良好な関係を求め過ぎた自分の愚かさを思い知る。職場や学校で苦手な相手がいれば、表面上の関係を築き、適度な距離感で穏便に済ませられるのに、どうして家族という枠組みになっただけでそれが悪だと決めつけたのだろう。親も人間なのだ。性格の不一致があって当然で、信乃は理想を掲げては自分自身の首を絞めていた。 (そうか、元々こんなものか) 一度気付いたそれはすとんと腑に落ち、この息苦しさや吐き気は気の所為でなかったのだと。飾りっ気のなくなった耳元を鏡越しに見て、信乃は無性に湊に会いたくなった。
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