花筏

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花筏

「あ…」  ヨロけた拍子に袴の裾を靴で踏んでしまい葵子(きこ)は盛大にコケてしまった。雑踏が極めて苦手だった為裏通りへ急いで抜けようと小走りになったところでやっぱり人並みに圧倒されて硬直してしまったのだ。  大八車の車輪がすぐ目の前を通り過ぎ声にならない悲鳴を上げる。異常事態に周囲の人の動きが止まった。葵子には通行人の内心の声が聞こえて来るようだった。  …鈍臭い女学生だね。  …まともに歩けないなら外に出なければ良いのに。  …あんな青髪なのに厄除けの呪いも使えないのかね?  転んで囲まれて何処にも逃げられない!その状況が彼女から急速に余裕を奪っていった。動悸が激しくなり上手く考えが纏まらなくなって来た。 「…ちょっと打ったんじゃない?助けておやりよ」 「お嬢ちゃん大丈夫か?」  そんな言葉を吐いて近付いてくる通行人も実際は彼女がどれだけ汚れているのか確かめて嘲笑ってやるつもりでは無いかと思われて彼女は身を震わせる。  彼女はよろよろと立ち上がると助けを無視してそのまま歩き出した。  裏通りに消えてゆく彼女の姿を呆然と見送った針商の夫妻はお互いに首を振り合うと馴染みの商い場所へ向かう。しばらくすると帝都の南北を繋ぐ堀川通りはその喧騒で小さな出来事を洗い流した。  土蔵造りの商店の裏側で息を整えているとようやく一息つけた。  そこで彼女は小袖の裾が泥水でべったりになっているのに気付きまた落ち込んでしまう。  これから金曜会に出なければならないのに…最速で母校の名前に文字通り泥を塗る事になりそうだった。  昨日不本意そうに会の説明をした飯垣先輩の姿が思い出された。伝統ある付属の一番を女なんぞが取るとはとハッキリと言い渡された事も思い出され胸が押し潰されそうになる。 「…申し訳ありません…申し訳ありません…女が出しゃばって申し訳ありません…」  気が付くと譫言のように謝罪の言葉を繰り返していた。私を産んだ事を…私しか産めなかった事を父に責められ責め殺された母の記憶が蘇り黒いものが胸を満たしていった。  …慌てて首を振る。  これから唯一自分を受け入れてくれそうな場所に行くのにこんな気持ちじゃダメだ。彼女はそう思い歩き出そうとする。  今期の帝立四校の入試首席は何と三人が女性なのだ。それは帝国始まって以来の事だと言う。新聞記事にもなり父が不愉快そうな顔でそれを読む姿に少し気持ちが楽になったのを思い出した。飯垣先輩に金曜会の事を聞いて真っ先にそれが思い浮かび、ほぼ説教をされるような先輩の話の間にも葵子は少しずつ希望を育てていたのだ。  寮に入ってようやく父とも離れられた。私より優秀な女性が多数を占める栄誉ある会に入る事も出来た。何かがこれから変わる筈だ。  そう思った行き道に制服を汚してしまったのだ。 「結局私なんか…」  つい癖の独り言をしてしまいさらに落ち込む。  何処かに井戸が有れば借りて汚れを落とすのに。でも約束の時間に間に合わなければやっぱり学校の恥だ。そんな迷いが彼女を支配して道を逸れる内に寂れた船着場に出てしまった。 「角筈君」  呆然と大川から流れて来た桜の花が渦を作る堀切りを眺めていると声を掛けられた。名を呼ばれて訝しげに振り向くと付属高校の制服姿の飯垣先輩が立っていた。 「見付かって良かった。君に渡しそびれたものが有るのだ」 「…見付かって良かった。見付かるものなの?」  何処か現実味が無くて疑問がそのまま口に出ていた。 「何だね?大通りであれだけ派手な騒ぎを起こして置いて…栄光ある帝大付属の首席の行状として如何なものと思うがね?制服も汚れているようだが」 「も!申し訳ありません!仰る通りです!女だてらに私が帝大なんて目指すから…先輩にも恥を掻かせてしまって!お、お許し…」 「…全くだ。おい、何をしている?」  気が付くと膝を付いて土下座をしようとしていた。父に許しを乞う時に習慣化された行動が出てしまった。 「あ…お許しを頂かないと…」 「やめろ!卑屈なマネはするな!」  怒鳴り付けられて葵子の中には益々卑屈な思いが蓄積して行ったがそれでも逆効果だと知ってヨロけながら立ち上がる。 「いいか?君の後ろには全初年級の学生が控えて居るんだぞ!軽々しく頭を下げるな!増して土下座など…しかも女だてらとは何だ!神聖な入試を何だと思って…」  昨日は女が首席などとは死んでも認めたくないとか言っていたのに…白々しい思いで激昂する飯垣先輩の姿を眺めていた彼女だったがそれに気が付いた先輩が咳払いをする。 「…ともかく渡しものだ。この金曜会の会章を持って行かないと新期の会が成り立たない」  成り立たない?そんなものを今渡すの?確かに昨日も頭に来ている感じで私を責める事にばかり夢中になっていたけど。  先輩が差し出す竜と鳳凰の意匠のブローチを葵子は不思議な思いで見つめた。何か状況に違和感を感じるのだけど…なんと言うか個々の物事はそれなりに有りそうなのに俯瞰してみると非現実的と言うか。  飯垣先輩はおかしかった。 「やっぱり少し弄らないとダメか?」  発せられる異様な言葉に葵子は一歩後ずさった。 「え?ど、どう言う…」  彼女の額に先輩の手が触れられ彼女は言葉を失った。  意識自体が痺れるようにチカつき身動きが取れなくなったのだ。内心の驚愕は外に現れる機会をなくし目の焦点を合わせるのが難しくなった彼女の視界の中で先輩の姿がボヤける。 「ここは大練馬丸(おおねりまる)の堀端だ…」  先輩が昨日呼び出した場所を呟く…そう言えば昨日のお堀の水面にも沢山の桜の花びらが落ちていたっけ。 「…悔しいか?」  闇の中何度も繰り返し問われた言葉が不意に蘇る。  何度も布団の中、首を振り否定した問い掛け。だって結局は私が生まれた事が悪いんだから。生まれて来なければ何も悪い事は起きない。生まれて姿を見せたり話したりするから気味悪がられたり生意気だと言われるんだ。代わりに黒髪の男の子が生まれたら母や父にも迷惑を掛けないで済んだのに…  でも母が納屋で発見された日の夜私は頷いてしまった。堰を切った感情は次々と為される恐ろしい質問に次々と是と答えさせていった。  翌朝目を覚ました時恐ろしさの余り押し潰してしまった心の中の黒い何かが蘇り葵子の全てを塗り替えて行った。 「妖魔…先に目を付けていたか?」  後退り仮面のような表情になった飯垣先輩が呟く。  ああ、やっぱりそうだったんだ…私の最後はこれなんだ?諦めと共に彼女は自分の運命を見切った。 「くそ…僕が如何(どう)にかするのは如何(いか)にも不味い…」  飯垣先輩は魔術師のように印を切ると先程の会章を地面に置いた。 「…仕掛けが全部無駄になってしまった」  それから彼はガラスのような瞳で彼女を見ると硬い声で言う。 「君は終わらない。これは最終的に君を助ける力を持つ英傑に繋がっている…諦めるな」
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