0人が本棚に入れています
本棚に追加
4.狐の稽古
沈み込んでいた意識が、ふわふわと浮き上がってくる。
体全体が、温かく滑らかで柔らかなモノに包まれている感覚に、急速に意識が戻り始めた。
目の前に薄紫色の空が広がっていて、風に揺れる何かが頬を優しく撫でる。
「…なんか、おかしな夢、見た…」
藤香は目覚めと共に、誰にともなく呟いた。
「おお、気がつかれましたか!」
聞き覚えのある声がした。
確か、夢の中で、だ。
視界の端に、茶色に輝く上質な毛足の長い毛布が目に入った。
が、そんなものは、家にはない。
それに気がついた瞬間、藤香は勢いよく体を起こした。
眼前に赤茶色の大きな狐の面―いや、目を細めて笑っている狐の顔が広がっている。
「夢…じゃない…」
もう一度、藤香の意識が閉じかけると、狐が叫んだ。
「ああ、お嬢様!お気を確かにっ!!」
上質な毛足の長い毛布に傾きかけた体をやんわりと受け止められる。
「うそぉ…夢じゃないのぉ…」
藤香は涙声で呟いた。
「ふん!情けない!」
杖を突いた紅尾がやはり目の前にいる。
しかし、こちらは人間の姿のままだった。
「この世界が人だけのもの思うか?己以外の存在は拒絶するとは傲慢なことよ。」
藤香はこんどこそ、勢いよく体を起こして、そして立ち上がった。
「拒絶なんてしてません!信じられないことを見聞きしたら、怖くなるのが人間です!!」
「怖い?何故に恐れる?茶々丸は倒れかけたお前が怪我をせぬようにと、その身をもって受け止めたのじゃ。」
紅尾の静かな声に、藤香の心の中は急速に落ち着きを取り戻す。
「え?」
藤香は目の前の大きな狐の顔をまじまじと見つめると、その顔が何故か少し困ったような、照れているような風に思えてくる。
「えっと…どうも、ありがとうございます?」
「そんな!もったいなきお言葉!!」
狐の目に涙が盛り上がっている。
「え?あれ?なんで?」
藤香はこの巨大狐を慰めるべきなのか、それとも、謝罪するべきなのかで混乱し始めた。
「茶々丸は、悪しきモノとなるところを、藤緒に救われて九尾の一門に加わったのじゃ。その血を受けているお前に恩義を感じてもおかしくはなかろうて。」
「悪しきモノ?」
妖って、妖怪のことで、基本的に悪いものだよねー藤香は心の内で呟いた。
「母と私は、深い山の中で幸せに暮らしてました。それが私が人里に迷い込んだばかりに、母は殺されたのです。母はただ、私を探していただけなんです。それなのにあろうことか、母を撃ち殺した人間は、母の亡骸を蹴り飛ばしたのです。あまりの狼藉に、私は人への怒りと恨みと憎しみに囚われてしまいました。」
茶々丸は震えているようだった。
それは怒りなのか、哀しみなのか―
ただ、人の生活圏では、狐やタヌキ、イノシシは家畜や畑を荒らす害獣となっている。
撃ち殺した方にも分があるような気もするが、でも、亡骸を蹴り飛ばすというのは非道な気がする。
「茶々丸の母親は、年を経た古狐であってな、いずれは我らと同じ妖になったであろうモノだった。茶々丸はその母親の血を浴びてしまったんだ。激しい憎しみと恨みと怒りは、茶々丸を悪しきモノへと変え始め、それは人に禍となって降りかかり始めたのじゃ。」
紅尾が淡々と言った。
「初めは人が訳もなく躓くくらいのものでした。それが、転ぶようになり、それから、酷く体を打ち付けたり、どこからともなく物が飛んできてぶつかったりとなりました。狐の祟りと言われました。現に祟りなんですけど…」
茶々丸は困ったように言った。
「人を殺めてしまえば、茶々丸は悪しきモノとなり、滅ぼさねばならぬ。だが、同胞じゃ。救うてやりたいと思うのは、当然であろう?」
紅尾の言葉に、藤香は頷いた。
「藤緒は茶々丸が悪しきモノへと変化する前に、一門へ加えようと人の世界へ迎えに行った。そこで、あの娘と出会った。」
『あの娘』とは、多分、祖母のことなのであろう。
「確かに、美しい娘だった…だが、孫娘が可も不可もなくの器量では、あの娘も浮かばれぬであろうなぁ。」
ここでまた、ため息と共に紅尾が呟いた。
とにかく、二言目には器量が云々であり、本当に失礼極まりない。
「なんだかんだよくわかりませんが、私、定期テストも近いし、コンク-ルの練習もあるので、稽古なんてしてられません。」
藤香はきっぱりと言った。
再三、再四の不器量発言にすでに、怯える気持ちもなくなっていた。
相手は化け狐で、なんだか知らないけど、何かの楽器をやれと言っていて、しかも、よくよく考えてみれば、藤香は何かの演奏を申し込まれているのだ。
ならば、断ったっていいはずだ。
「何を言っている。そなたの技量では、夜行の龍笛を奏するには荷が重い。」
眉間にしわを寄せて紅尾は重々しく言った。
「何の行事だか知りませんけど、お断りします。」
その瞬間、ざわり、と紅尾の背後九つの尾が揺らめいた。
「ひっ!!」
喉から引き攣った声が出たが、しかし、藤香は再びはっきりと言った。
「確かに、祖父は浮世離れした人でした。だから、祖父が人ではないということも認めます。ついでに、あなた方が存在していることも認めます。」
「ほう。気丈なことよ。」
紅尾の口元が大きく弧を描いた。
ぞくりと背筋が震えた。
「でも、私にだって都合があります。」
しかし、ここで退いてはならないことは、明白だった。
人外の知り合いなんて欲しくないし、なにより今年こそは吹奏楽コンクールで全国大会へ行きたいのだ。
「百鬼夜行よりも重きことなど、あるはずなかろうが。」
「妖大行列よりも、私にはコンクールの方が大切です。」
藤香は真っ直ぐに紅尾を見つめた。
「愚かなことよ。」
紅尾は当然だが、そんなことは気にも止めず、呆れたように言った。
「この人の世界の平穏が恙無くこれからも続くと?」
口元は微かに弧を描いているが、それが笑みには見えないことに背筋が凍る。
「な、何よ!」
それでも、藤香は子どもじみた抵抗をした。
なけなしの意地だった。
器量が悪いとか、無知だとか、傲慢だとか、荷が重いとか、愚かだとか―なぜ、見ず知らずの、自称曾祖母と名のる、自称狐の妖怪にそこまで言われなければならないのか、そんな風に思うのはごく自然なことである。
「とにかく、私には関係ないです!それじゃあ、失礼します!!」
勢いよく頭を下げると、藤香はくるりと踵を返して一歩踏み出した。
「ああ、お嬢様、お待ちください!!」
茶々丸の叫び声と何かに大きくはじかれて思い切り藤香がしりもちをついたのは、ほぼ同時だった。
最初のコメントを投稿しよう!