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2.藤棚の秘密
篠崎藤香は今年、16歳になる高校生である。
父親は地元の役所に勤める地方公務員、母親は近所のスーパーでレジのパートをしている、多分、標準的な家庭である。
兄弟は、中学生の弟が一人いる。
通う高校は自転車で30分ほどの地元の進学高校で、部活は吹奏楽部である。
かつてこのあたりの地主であったと言う篠崎家は、広い土地に広い間取りの部屋の家屋がその名残であるかのように建っている。
しかし、地主であった頃の栄華など、藤香は知る由もないし、入り婿の父も全く知らないという。
家付き娘の母も物心ついたときには、この広く古い家の記憶しかないと言うのだから、地主であったと言うことが本当であるのかどうかすら怪しいものだ。
なぜなら、『篠崎家は地主さまだった。』と言う人はいても、ただ、それだけで具体的なことは誰一人として語らない。
小学生のころに亡くなった祖母からも祖父からも、昔話と言うものは一切、聞いたことがなかった。
ただ、古い家には不似合いほどの見事な藤棚が庭にあった。
特に手入れをするでもなく、母が朝夕の水やりをする以外、放置しているような状態なのに、不思議と毎年、美しい花を咲かせている。
その藤棚の下で、藤香は毎日フルートを吹く。
年を経てもなお、美しかった祖母とどこか浮世離れした風の祖父は、とても仲がよかった。
二人が結婚した時に庭に植えたという藤の木の下で、祖父はよく笛を吹いていた。
祖母は目を閉じて、その美しい音色にじっと聞き入り、終わると小さく溜息をついて、祖父を見つめてふわりと微笑むのだ。
そんな二人を綺麗だと思うようになったのは、ずいぶんと幼いころだったような気がする。
祖父のように上手に笛を吹けるようになりたい―いつしか、そう思ったのもごく自然なことで、小学生の4年生でクラブ活動が始まると、藤香は音楽クラブを選び、そして、そこでフルートと出会った。
銀色に輝く、その細い楽器はどこか祖父の笛の音に似た音が響いた。
上手になったらおじいちゃんと一緒にあの、藤の木の下で吹くんだ―
藤香は夢中になってフルートの練習をした。
『お祖父さんのように優しい音がするわ。』
藤香のフルートの音を始めて耳にした時、祖母はそう言って優しく微笑んだ。
『音は心を映すものだよ。優しい心で奏でれば優しい音が、悲しい心で奏でれば悲しい音がするものだ。』
祖父は目を細めて、穏やかに言った。
本当に優しい、美しい二人だった。
二人とたわいもないことを話すのも、ただ二人を見ているのも藤香は大好きだった。
満開の藤棚の下、笛を奏でる祖父とそれに聞き入る祖母は、この世のものとは思えないほど、美しく、そして儚くて、息がつまるほどの切なさに涙がにじむのが不思議だった。
ああ、綺麗だな―
綺麗なのに、なんで、涙が出そうなのかなー
悲しくないのに、なんで、涙が出そうなのかなー
それは今でも藤香の心に残っている。
綺麗なものを見ても、綺麗な音を聞いても、涙が出ることがあると知ったのは、それから少しして、祖母が亡くなってからのことだった。
祖母が亡くなり何かと慌ただしい家の中で、藤香はぼんやりと庭の藤棚を見ていた。
その日、満開の藤棚は雨に濡れていた。
その中を独り、立ち尽くしていた祖父は不思議なことに全く雨に濡れていなように見えた。
祖父は頭上に広がる藤棚の、そのはるか上に広がる雨空を見ているようだった。
すっと、黒い着物の袂から、祖父はいつもの笛と違うものを取り出した。
瞬間、すべて景色が変わった。
祖父の奏でる音色は、哀しみを纏っているが、気高く、そして美しかった。
旅立つ祖母を慰めるように優しく、残されたことへの哀しみと、そして、これまでの日々への感謝が込められているような、穏やかな調べが流れて、雨の中へ溶けていく。
一つの曲が終わり、静寂が訪れると、藤棚の下にぼんやりとした光が現われた。
その光に向かって祖父は微かに微笑むと、また、笛を奏で始めた。
幾星霜―
時の流れを経て―
また、会おう―
そしてまた、共にあろう―
その日が来るまで―
吾はここで待とう―
祖父が倒れたのは、それから49日後のことだった。
いつもの藤棚の下だった。
『私も年だからね、これからは藤香がここでフルートを吹いてくれるかい?そうしたら、長い待ち時間も少しは気がまぎれると言うものだよ。』
『待ち時間?』
『約束だよ。頼んだよ。』
祖父の不思議な言葉は、誰にも言ってはいけないような気がした。
それは祖父と藤香の秘密の約束だった。
祖父の名は、篠崎藤緒―
入り婿で、母の話では、天涯孤独の身であったそうだ。
「おじいちゃん、今日のフルートはどう?」
咲き誇る藤の花に向かって藤香は呟いた。
この藤棚の下にいると、藤香は祖父が傍にいるような、そんな気がしている。
花の時期には、二人で飽きることなくそれを見上げていた。
流れてくる祖父の笛の音は、いつでも藤香を優しい心にしてくれた。
「おじいちゃんみたいに、吹けてるかなぁ。」
誰にともなく呟く。
「ふむ、人の割には達者であるな。」
不意に声が聞こえてきた。
「へ?」
藤香はあたりをきょろきょろと見回した。
しかし、誰の姿も見えない。
「それにしても、藤緒とあの娘の血を引きながら、なぜあのように凡庸な顔立ちであるのかのう。」
「お、お館様…」
ため息とともに聞こえてきた言葉に、藤香はその声のする方をきっと睨み返して叫んだ。
「隠れて何、失礼なことを言ってるのよ!凡庸で悪かったね!気にしてんだからっ!!」
どうにも父親の血を濃く受け継いでしまったらしい藤香の顔立ちは、近隣でも美人と名高い母親とは、微妙に似ていない。
対して、弟の方は母親似の美形である。
「ほう、我の声が聞こえるのか。」
藤の根元に、じわじわと影が浮かび、それがはっきりとした人の形となった。
そこには、緋色の着物を着た老婆と茶色のスーツ姿の青年が立っている。
「お父さん!!お母さん!!」
藤香は叫んだが、家の中からは誰も出てこない。
「ああ、驚かしてしまい、もうしわけございませぬ!もうしわけございませぬ!!」
スーツ姿の青年が慌てて、頭を下げて言うが、藤香はそんなことは耳に入らない。
「ど、どろぼう!!」
「何をっ!無礼なっ!」
老婆が叫んだ瞬間、その目が赤く光った。
「お、おばけっ!!」
藤香は二人を指さして、さらに叫ぶ。
「おのれっ!小娘!九尾の一族の当主を侮辱するとは…!!」
「お待ちください、お館様!!お嬢様は何もご存じないのでございます!」
藤香を庇うように老婆との間に入ると、地面にひれ伏して言った。
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