第四話 ニッチを狙え!

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第四話 ニッチを狙え!

 東雲莉奈は、恋をしていた。  しかし、だからと言って、恋する「あの人」を見ていたとしても、胸が高鳴るというようなことはない。  感情だけで人を好きになったことがあるか、と問われれば、首を傾げてしまう。そもそも莉奈にとって、恋人とは柱である。「今まで○人の男と付き合ったんだ〜」とか言っている女を見ても、莉奈は鼻で笑っていた。そのたびごとに、莉奈は名言を残していた。  過去の恋人なんて、所詮は友達未満の存在よ。  莉奈は常に、結婚を前提にした付き合いというものを考えていた。しかし、勉強もスポーツもできるイケメン生徒会長なんて競争率が高すぎる。言ってみれば、「彼氏版東京大学」を志望します、と言っているようなものなのだ。そのためには、顔、スタイル、胸の形などのヴィジュアル面はもちろん、知的で教養やウィットに富んでいたり、家事をてきぱきこなすことができるなどの内面的な部分まで完璧である必要がある。でなければ、単なる遊び相手で終わりだ。  控えめに言って、私は可愛い。  しかし、偏差値で言ったら62だ。簡単に言えば、「そこそこ」可愛い。もっと言えば、「クラスでありがち」なレベル。おまけに、莉奈の本性は最悪だ。「恋人とは柱だ」なんて言っている時点で、人としてあまりよろしくないのは自覚がある。偏差値で言ったら26。普段は取り繕って62に見せているが、例の勉強もスポーツもできるイケメン生徒会長は、あるいは偏差値26を見透かしてしまうかもしれない。その場合、世の女性に引っ張りだこなイケメンとは、そのまま離婚する羽目になるだろう。つまり、リスクが高すぎる。  莉奈は計算した。かのガリレオも驚くくらいの数学的頭脳を働かせた。真夏にも真冬にも方程式を立てまくった。  私の愛は、すべて未来に置いてきた。目の前の恋なんて、私の瞳には映らない。  莉奈は名言を残した。少なくとも、自分では名言だと思っていた。  彼女は刹那(せつな)の恋なんて求めてはいない。将来的な結婚生活まで視野に入れているのだ。つまり、誰かと一生を添い遂げるということは、ハイリターン(超イケメンの超金持ち)であっても、ハイリスク(超浮気性で超自分勝手)であってはいけない。そこに必要なのは、「安定的な収入」「産まれた子供がそこそこ可愛くなる程度の容姿」「家族を大切にする心」くらいで十分なのだ。要するに、ミュージシャン志望のヒモじゃなければいいし、ブサイクじゃなければいいし、浮気やDVさえしなければいい。  恋はギャンブルであり、愛は商売なのだ。  莉奈は再び名言を残した。これを思いついたとき、「これは夏目漱石が見たら驚くだろう」と一人で興奮していたくらいだった。  つまり、こと恋愛に関しては、責任が伴わない分だけ興味本位で構ってもらえるチャンスはある。しかし結婚の場合、そう上手くはいかない。男にも女にも選ぶ権利はある。自己中心的に物事を考えると失敗する。「商売」とは、つまり、等価交換のことだ。もっと言えば、自分と同じ価値を持つ異性でなければ結婚できないということだ。良い男と結婚するためには自分の市場価値を上げていくしかないし、ある程度のところで妥協をしなければいけない場合だってある。  そんなの嫌だぁ! 高収入のイケメンで、優しくて浮気をしなくて……!  そんなことを言っていたら、間違いなく婚期を逃す。莉奈だって、何人かの男たちから言い寄られることはあった。しかし、男が言い寄って来るのは「若い内だけだ」とも思っていた。莉奈は、女としての価値があるのは、十代半ばから二十代後半あたりがピークだと思っていた。つまり、費用対効果で考えれば、最大の効果を生み出すには今年で十七歳になる「今」から婚活を始め、決断をするべきだと考えていた。そして、決断をした。 「ねえ、桜井くん、宿題見せてくれないかなあ?」  ここはニッチ(※)だ。莉奈はそう確信した。 ×××  ※ニッチ(Niche)とは、直訳すれば建造物内部の壁面に設けて神像や装飾品を安置する「隙間」や「くぼみ」の意味があり、壁龕(へきがん)とも呼ばれる。元来建築史用語であったのを、生物学で「生態的地位」を表す用語に転用したものである。さまざまな生態的地位がある中、例えば哺乳類の進化に伴って起きたニッチの分割などが経済学の概念として援用されてニッチ市場の概念の元になったとされる。中生代に恐竜・首長竜・翼竜などの爬虫類が陸・海・空問わず栄えていた頃、哺乳類はネズミのような姿で目立たず、活動も夜行・雑食など隙間的なものを主としていた。約6500万年前に恐竜などが滅びると絶滅で空白になったニッチ(生態的地位)を埋めるためにさまざまな生物が進出し、哺乳類が最も成功を収めたといわれる(空は鳥類)。この生物を企業などに擬して「ニッチを開拓する」などとも言う。なお同種の現象は過去何回かの大量絶滅の後にも現れた。  (出典:Wikipedia)  ※問題があれば削除します ×××  莉奈はWik○pediaの説明をそのまま引用した。仮に自分の人生が小説になったときに、読者が「ニッチ」の意味がわからずに困ることがないようにするためだ。「私って、超親切☆」と莉奈は自惚れた。同時に、「もし自分が出てくる小説があったら、登場キャラクター中で最も好感度が低いのは私だな☆」とも思った。  とにかくこれは、勉強もスポーツもできるイケメン生徒会長は競争率が高いから、勉強もスポーツもそこそこできるし、そこそこイケメンだけど、地味で目立たない桜井くんを狙おう、という話なのだ。莉奈が狙うのは、エースではなく、ニッチである。 「桜井くんって、素敵だなあ」  ある昼休み、莉奈は、両肘をついて組んだ手の甲に顎を乗せて言った。まるで切ない片思いをする純粋な少女のように。一緒にお昼ご飯を食べている二人は、驚いたような顔を見せた。 「莉奈って、桜井のこと好きなの?」  陽子は面白そうに尋ねた。 「えー、なんかすごいところ突いてくるね。あいつ、地味で根暗っぽいじゃん」  奈美恵はわけがわからないと言った様子だった。  莉奈は、柔らかい笑顔のままで首を振った。 「そんなことないよ。たしかに、あんまり積極的に前に出ていくような人じゃないし、友達も少ないように見えるんだけど、話してみると結構楽しいんだよ」 「へー、そうなんだ。私も話しかけてみようかな」と陽子は楽しそうに言った。莉奈はむっと眉根を寄せる。 「それはだめ!」 「マジなやつじゃん」と奈美恵は笑った。「っていうかさ、そんなにいいの? 桜井のことが。白崎くんとかの方がよくない?」 「それはそうだけどさあ、白崎くん、すごく遊んでそうでしょ?」 「遊ばない人も問題じゃない?」 「価値観の違いです」  莉奈が済ました顔で言うと、陽子は「確かに!」と声を上げて笑った。奈美恵は不満そうに唇を引き結んだが、「まあ、それもそうか」とつぶやいた。 「それじゃあ、莉奈に質問です」と陽子は言った。握りこぶしをマイクみたいにして、莉奈の口元に近づける。「桜井の良いところはどこでしょう」  そうだなあ、と莉奈は人差し指を顎に当てて考える。「一言で言うのはすごく難しいんだけど……」 「まず、知的なところ!」 「あー、たしかに、桜井って地味に勉強できるよね」と奈美恵はやはり興味なさそうに言った。 「それに、私が知的って言うのはね、桜井くんって勉強ができるだけじゃなくて、文学とかもよく読んでて、知識もあって、物もよく考えてるってのをすごく感じるんだ」 「間違いないね!」と陽子は適当な感じで言った。「白崎くんとはタイプが違うけど、確かに落ち着いてる感じはする。そう考えると、なんか格好良く見えてきたかも!」 「陽子は狙っちゃだめだよ」 「狙わないって。別に好きじゃないもん」 「なら、良かった」と莉奈は胸を撫で下ろした。「それとね、桜井くんって、お姉さんと妹さんがいるらしいんだけど……」  私くらい計算高いと、このまま新世界の神になってしまうかもしれないわ。  莉奈はひそかにそう思った。莉奈が優馬のことを好きだというのは、クラスの女子はほとんど全員が知っていた。特に目立つわけでもない男子生徒。これだけマーキングしておけば、あえて優馬を取るために争おうなんて人間は出てこないだろう。これが「ニッチを狙う」ということなのよ!、と莉奈は高笑いしたくなる気持ちを抑えた。  入学当初から、莉奈はずっと学校の男子生徒たちを分析していた。  人間嫌いに見えて、実は家族思いで、親しい人には深い愛情を持つ。  そして、莉奈は優馬にそんな性質を感じていた。私は絶対に桜井くんを落とす。そして桜井くんと結婚して、何の不安もない、二人の息子と一人の娘を持つ、中流階級の幸せな家庭を持ってみせる。莉奈は安定した結婚生活を夢見て、今からわくわくしていた。 ×××  あとは桜井くんに、私のことを好きになってもらうだけよ、と莉奈は不敵な微笑みを浮かべた。「宿題見せて作戦」からの「クッキーアピール」。さらに「ごめん、ちょっとだけボールペン貸してくれないかな? 作戦」を始めとする数々の策をこらし、ついでに世間話をすることで、優馬との距離を徐々に縮めている最中でのことだった。ついに、彼女の前に宿敵が現れたのだった。
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