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 初夏らしい半袖の制服に着替えた私は、軽い足取りで一階へ続く階段を下りた。  リビングで朝食をつくっていた母が、にっこりと白い歯を見せて微笑む。 「おはよ、ひな。今日はスクランブルエッグだよ、楽でごめんね」 「わ、おいしそう」  机に並んだ一人分の朝食を眺めた。  母はいつも、夕方ごろに仕事に出かける。そして深夜の仕事を済ませ、だいたい朝食を食べて帰ってくるから、ここに朝食が一人分しかないのはおかしなことではなかった。  私は嬉々として椅子に座り、箸を手に取った。  そこでふと、視界の端でちらつく深い赤色に気づいた。常に視界に入っていたとしても、意識しなければ脳が認識しない場合がある。見えているのに、見えていない。そんな不思議な現象は、わりと日常のなかに散りばめられている。  私が今気づいた「色」は、母の着ている服だった。 「今から出かけるの?」  母は大抵、朝に帰ってくるとそのまま眠る。  こうしてリビングで顔を合わせるときは、ジャージや寝間着などのラフな格好をしていることが多いのだが。  母は少しばかり頬を染め、小さく頷いた。  あ、と思った。  見てしまった母の「女の顔」に、気持ち悪さを覚えてしまう。  私は視線を落とし、朝食を咀嚼することに注意を向けた。しかし、「女」がつくった手料理を食べていると思うと、飲み込んだばかりのスクランブルエッグが喉をせりあがってくるような気がした。  母は悪くない。幼いころに両親が離婚してから、母は私を育てるために夜の仕事をした。仕事を理由に母親を放棄することもなく、忙しいと言いながらも私をしっかりと育ててくれる。  母には感謝しかない、はずだった。いつ頃からだろう。母の「女」である部分に嫌悪を抱くようになったのは。おそらく、思春期の多感なお年頃になったころからだろうが、具体的な時期は思い出せない。  私は麦茶で流し込むようにして朝食を食べ終えると、学校に行く準備をした。歯をみがき、トイレを済ませ、忘れ物はないか確認をする。どれも脳内で可という判を押してから、リビングにいる母に登校する旨を伝えた。 「いってらっしゃい。お母さんも、もう出かけるから」 「うん。気をつけてね」 「気をつけるといえば、ひなのほうだよ。あの事件のことだってあるんだから」  あの事件。  その一言でわかるほどに、それは有名な事件だった。  私が暮らす××市南地区三丁目から二キロほど離れた山林のなかで、少女の遺体が発見されたのだ。のちの捜査で、その少女は行方不明となっていた小学六年生(十二歳)であったことが判明。少女の遺体には、刃物で負わせた無数の切り傷があり、死因は失血死だという。  どれも、メディアや近所住人の井戸端会議のような噂話から仕入れた情報である。現場地域が近いということもあり、興味がなくても自然と耳にはいってくるのだ。  私は玄関で靴を穿き、意気揚々とドアをひらく。  鬱屈とした自宅の空気から解放されるこの瞬間が、とても好きだ。壮大な荒野に降り立った天使のような孤高さを覚える。私は解放された、私は自由なのだと。  頭上に広がる蒼天は、どこまでも清々しい。  少女遺体遺棄事件、おそらく殺人事件であろう「あの事件」が起きたのは、つい一週間前。毎日のように、テレビに映し出されたアナウンサーが無表情で事件について語っているが、進歩はないようだ。  そう。  事件は未解決であり――犯人はまだ、捕まっていない。 ◆
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