【3】

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【3】

 張り紙をもとに戻した私は、職員室の前にある手洗い場で手を洗っていた。職員室前だからか、大きめの水色をした花瓶に黄色い花が活けてある。教師の誰かが活けたのだろうが、花を愛でる人の心境が私にはわからない。  私は、ほとんど泡のたたない固形石鹸を手のひらと甲に塗りたくり、力任せに擦っていた。 「古谷、どうしたんだ。そんなに必死になって手を洗って」  話しかけられたことに驚いて、振り返る。  職員室のドアから、武井先生が顔をのぞかせていた。職員室は電気が消えていたので、もう誰も残っていないと思っていたのに。  武井先生は、薄い笑みを浮かべこちらのほうへ歩み寄ってくる。  振り返ると、武井先生の胸ポケットがやたら膨らんでいることに気づいた。私の視線に気づいたのだろう、武井先生が苦笑を浮かべてポケットから小瓶を取りだした。 「これか?」  小瓶には透明の液体が八分目ほど入っている。 「なんですか、それ」 「消毒液だ。オキシドールって知ってるか? 髪の脱色にも使えるらしいぞ。まぁ、古谷は髪を染めていないから、関係ないか。これからもずっと黒髪でいてくれよ」  古谷先生の手が、私の髪に触れる。まるでコイビトのするように撫でるように髪を梳かれ、背筋に悪寒が走った。 「それにしても、どうしてこんな時間に学校に残ってるんだ? 先生方も帰ったぞ」 「すみません、すぐに帰ります」 「送ってやるよ。ちょっと待ってろ、用事を済ませてくるから」  にっかりと微笑み、武井先生が歩き出す。別に結構です、と言いたかったが、武井先生のなかではすでに私を送ることが決定しているようで、鼻歌を歌いながら二階へ続く階段を登っていった。  私は手早く手を洗い流すとハンカチで拭く。鞄を抱え込むように持ち、昇降口へ急いだ。胸騒ぎがした。一刻も早く、この場を立ち去らなければ。  靴を穿きかえ、急いで外へ通じるドアを押し開く――押し開いた、つもりだった。  ガチャン、と派手な音をたてて、昇降口のドアが揺れた。 「……え」  力いっぱい揺らすたびに、ドアは放課後の静まり返った学校に音を響かせる。昇降口は施錠されていた。息を呑む。落ち着け。落ち着いて、どうすればいいか考えなければ。武井先生は、「私が気づいたことに気づいた」かもしれない。そして、今昇降口のドアを開けて逃げようとした音も、聞こえているはずだ。  窓から逃げるか。それとも校長室前の正面玄関へ行くべきか。 「おーい、古谷―」  廊下全体に響く声がした。  予想以上に、武井先生の声が近い。
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