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その日。霧雨の週末の横浜は、あまりにも出来すぎた舞台のようだった。 静かな瞳で穏やかに微笑んでいたあの男は、今、ここへ向かっているはずである。今夜、身を売る相手が、偽名を使った黒沢とも知らずに。 黒沢隆宏(くろさわたかひろ)は、重厚な雰囲気の気に入りのホテルのロビーで、足を組み、頬杖をつきながら、霧雨に煙る外の景色を眺めていた。仕事を早々に切り上げて、秘書の運転する車でこのホテルに着いたのは、約束の時間十分前だった。三つ揃いのなめらかな高級素材でオーダーされた濃紺のスーツは、着替える間もなかった。撫で上げた前髪は細かな雨のせいで少し乱れ落ち、気がつくと眼鏡を外すことさえも忘れていたのを思い出し、片手で外すと胸のポケットにしまい込んだ。 まるで時が止まっているかのような錯覚を起こさせるホテルだ、と黒沢はいつも思う。 関東大震災の復興のシンボルとして誕生したこのホテルには、その当時の面影がより濃く残っていて、外国人のイメージするオリエンタルな雰囲気が今でも静かに息づいている。客室が少なく静かなこの独特の雰囲気と匂いは、黒沢の中にいつも影を落としていたある一人の男のことを強く思い出させて神経が張りつめたが、それさえも緩やかに包み込んでしまう港のぼやけた風景が、今、黒沢の目の前にあった。 「……お待たせしました。……桐島と申します」 微かに湿った、大地の匂いが黒沢の思考を中断させる。ゆっくりと顔を上げると、そこには六年前とはあまりにも変わった桐島敦司(きりしまあつし)がいた。顔を隠すような長めの前髪の間から、見る者の嗜虐心を煽らずにはいられない、艶めいた、だが空虚な瞳がのぞいていた。 「……あの……」 桐島が、一瞬、戸惑ったように見えたのは気のせいだろうか。黒沢だ、と気がついたのではないのか。だが、桐島はその後を続けず、黒沢の言葉を待っていた。 「よく私だと、一目でわかりましたね」 モデルクラブ……などと称しているが、高級出張ホストの店だ。桐島敦司はそのクラブの一覧にはいない。主にVIP専用のホストで、知る者は少ない。ツテがないと指名できない数少ない、更に高級なトップクラスのホスト。確認のためになにか目印になるものを、と言われたが、黒沢はホテル名しか指定しなかった。 桐島は居心地が悪そうにうつむく。上質のスーツ。艶のある髪。貴金属などは一切身に着けていなくても、十分に華がある。物腰が穏やかで、品もある。値踏みするように、黒沢は微笑みながらゆっくりと眺めた。 「……フジカワさま、でいらっしゃいますね」 声も、変わっていない。柔らかな、小さくてもよく通る声。 「どのように客を探すのですか?」 桐島は少し逡巡した後、口を開く。 「……ホテルのロビーでお会いすることは少ないです。ご指定の部屋に行くことが多いのですが」 「そうですか。私のことはどうやって?」 得体の知れない笑み。桐島は視線を逸らした。 「……ロビーに入った瞬間、お客さまのお背中が気になりました。失礼ながらご様子を拝見していました。……お客さまだと判断させていただいたのは……」 桐島は瞬時に言葉を選んだ。 「勘です。ただの」 雨に濡れる港をずっと見つめていた。思い出を反芻するように。本人は気付いていないようだが、目元が優しかった。だが、それをこの客に言えない理由が、桐島にはあった。 「……客は男が多いの? それとも女?」 「…………」 「男かな」 無表情のまま、黒沢は問う。意地が悪いと思いながらも。逆に桐島は、余計困惑の色を強めた表情になった。それではまるで、肯定したのも同じだった。 答えるつもりがないらしいのを察すると、黒沢は黙って男に背を向け、立ち上がった。 「さっそく、楽しませてもらおうか」
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