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「……桐島。まだ、終わらないのか?」 桐島敦司(きりしまあつし)は眼鏡を外すと、ドアにバスローブのままもたれかかっている黒沢隆宏(くろさわたかひろ)を見た。 「うん。まだ、ちょっと……」 「俺はもう待てないんだが」 「……ごめん、すぐ終わらせる」 桐島は困ったように少し笑うと、黒沢に背を向ける。キーボードを叩く音が薄暗い部屋に響く。一か月ぶりにまとまった時間ができたのだ。夕方に急に携帯が鳴った。「今日は早く帰れるので、仕事を終わらせておくように」。そう言われて慌てて終わらせようとしたものの、計画は大幅に狂い、結局、黒沢を深夜まで待たせることになった。 黒沢隆宏と暮らし始めて、三年。黒沢は三十になった。桐島も、あと少しで同じになる。よく続いたものだ、と思う。 黒沢と六年ぶりに再会し、彼は早々に桐島の借金を返し、横浜に4LDKの部屋を買った。誘われるままに一緒に暮らし始めて、もう三年。早いうちに黒沢は飽きるだろう。そう思って毎日毎日過ごしてきた。諦めと、不安を胸に。それでもここまできてしまった。長引けば長引くほど傷は深くなるとわかっていても、自分からは離れられなかった。黒沢の言葉だけを信じて、生きてきた。 三年の間、桐島はほとんど部屋の中で過ごしてきた。黒沢が外へ連れ出そうとしても、桐島はあまりその気になれなかった。大抵は、黒沢の勤める会社の子会社から依頼されたプログラムの仕事をしている。なにもすることのない時間が怖くて、身体を売る仕事をしていた時期にそれらの資格はすべて取得した。こんな形で役に立つ日がくるとは思わなかった。黒沢に強制的に部屋から出される以外、昼間に外出することはなくなっていった。明るい陽の下を歩くことが、とてもためらわれた。以前の仕事の反動なのか、周囲が気になり顔を上げて歩くことができなくなった。自意識過剰なのはわかっていたが意識を失って倒れたことがあって以来、黒沢はあまりなにも言わず桐島の好きなようにさせていた。桐島は、黒沢さえいればよかったのだ。口には出せなかったが、黒沢が世界のすべてだった。 母が亡くなってからは、特に。父の遺した莫大な負債を抱え、二人で細々と暮らしていた。しかし、黒沢と一緒に暮らし始めてまもなく、入院していた母は亡くなった。黒沢は母が困らないように最後の最後まですべて面倒を見てくれた。身体を売ることは、もう決してしてはならない、と黒沢から言い渡されていたので、とにかく別の仕事を探した。そして、黒沢のツテでこの仕事についた。少しずつでもいいから、黒沢に肩代わりしてもらった借金を返していこうと思い、そのことを話すと、簡単に黒沢に断られた。別に、「買われた」と思っているわけではない。ただ、自分にそれだけの存在価値があるのか、と尋ねられれば皆無に等しいと思える。黒沢にとって、あの時点では意味があったかもしれないが、先はどうなるかわからなかった。 更に桐島が困ったのは、生活費の他に、桐島の銀行口座に毎月多額の金が振り込まれていることだった。黒沢の言い分は「おまえの好きなように使え」だった。あまりの金額の多さに、桐島は困惑した。黒沢の給料を振り込んでいるのだろう。だが今まで一度も手をつけたことはない。そこまでしたら、本当に身体だけのつながりになる。そう思った自分を、桐島は嗤った。本当は黒沢に、一人の人間として見てもらいたい。そんなことを考えている自分がおかしかった。立場がまったく違う。すべての面で、自分は黒沢に劣っている。そんな、なんの価値もない人間に選択できる余地はないのだ。自分にできることは、黒沢が求めた時にいつでも応えること。それだけ。そして、桐島は働いた金を生活の一部に当てる以外は、少額ずつでも貯め続けた。いつか別れがきた時に、それを渡すために。少しでも思い出してもらえるように。ただ、それだけのために。 桐島は終わらない仕事に一区切りつけて、パソコンの電源を落とし、黒沢の待つ寝室へと向かった。
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