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天気のよい一日になりそうだった。青い空の一部が窓から見える。黒沢の後にシャワーを浴びて鏡の前に立つ。白い肌に潤んだ瞳、痩せて不健康な身体、長くなりすぎた前髪。青ざめた唇、対照的に赤い、身体中に散らばる痣。 鏡に映る自分の顔を両手で押さえて、桐島は目を閉じた。 ほとんど眠れなかった。黒沢に抱かれた後は睡眠導入剤を飲むタイミングがつかめず、いつもそのままだ。カーテンの色がさまざまな色に変わっていくのをじっと眺める。幸せなのに。一緒にいられるだけでいいと願うのに、なぜ自分はもっともっとと欲しがるのだろう。たとえば、それは黒沢にこの現状をわかってほしいとか。知られたらなにもかもが終わる。黒沢に着いていかなければ、この関係は終わるのだ。それは嫌だ。離れたくない。これは執着ではない。自分は黒沢を愛している。そう思うのに。なんだろう、この焦燥感は。矛盾する心、そんなものは必要ない。 さっと髪を乾かして、シャツとジーンズを身につける。もっと跡を残してくれればいい。全身に散りばめてくれればいい。もっと黒沢のものだと、自分に見せつけてほしい。今はそれしか確かなものがない。不安定な日々の中で、桐島は少し弱り始めていた。 遅い朝食を摂ったあと、黒沢はリビングで新聞や本を読んでいた。桐島はそれを邪魔しないように仕事をしようと思ったが黒沢に注意され、特になにをするわけでもなく黒沢の横に座っていた。新聞も本も最近読んでいない。視線を泳がせるのもうっとおしいだろうと思ったが、のぞきこんでもなにも言わないので、そのまま一緒に読ませてもらった。 壁の時計を見ると4時になっている。あっという間の時間の速さは、黒沢が隣りにいるからだろうか。黒沢が立ち上がり、着替えをしてくる、と言った。なにも言われないので、桐島は黒沢が読んでいた本の途中からを読んでいた。しばらくすると眼鏡をかけたまま、スーツ姿の黒沢がやってきた。眼鏡、ということは車を運転するのだろう。桐島は少し不安になって尋ねた。 「……ねぇ、どこへ行くの?」 「行けばわかる」 「近く? 遠く?」 「近く」 「外へ行かないとダメ?」 「桐島。外出だ」 桐島は諦めた。強制外出の合図だ。 「どんな格好をすればいい?」 「そのままでいいぞ」 「え?」 白いシャツにジーンズ。どこに行くのかわからないが、そんなに気にしなくてもいいようだ。とりあえず桐島は髪だけ梳かして、車のキーを持って歩いていく黒沢の後を追った。 車はすぐに目的地に着いた。歩けばいいのに、と思ったが、やはりそれが嫌な自分が嫌になる。黒沢もたまの休みに外へ出たいだろうに。ぼんやりしていると車から降りるよう促された。二人で歩く時はだいたい黒沢が先になるのだが、今日は違った。妙な気分で少し先を歩いていると急に黒沢の片腕が桐島の肩を抱き込んで、むりやり左を向くよう仕向けられた。目の前の光景を見た瞬間、桐島はなんとなく嫌な予感がして後ずさった。 「はい、前へ」 「黒沢さま、いらっしゃいませ」 ドアマンが満面の笑みで扉を開いた。 「……黒沢、どういうこと」 「おまえの服が必要だ」 濃紺のブリティッシュスーツを着ている黒沢に違和感があったが、こういうことだったのか。 「ちょっと、待って」 「待たない」 「黒沢」 「俺に恥をかかせるようなこと、おまえはしないよな?」 人前でもいつもこんなふうだ。ノーはない、とばかりに背を押され、桐島は覚悟して店内に入った。 五階まで上がると知り合いなのか、同じくらいの歳の男性が歩み寄ってきた。 「黒沢さま、いらっしゃいませ。本日は……」 「これからディナーですがドレスコードが。すみませんが仕事の電話が入っていますので、お任せします」 「ちょっ……黒沢!」 「大丈夫。落ち着け」 黒沢はスマートフォンを片手にその場を後にした。
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