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手の先から全体に冷たくなる。その先はもう聞きたくない。けれど、黒沢は続けた。 「おまえと暮らし始めて三年。おまえは振り込んだ金に手をつけたことは一度もなかった。おまえの父親の負債や母親の治療費もすべて俺が払ったが、おまえはそれだけの対価を俺に返した。なにもかも、俺の言う通りにしてきた。吐きながら。薬を飲みながら。苦しみながら。……もう、いいだろう」 黒沢は黒い小箱を桐島の前に突き出した。なにもかも、知っていたのか。身体が震えて、いうことを効かない。もう一度、黒沢がそれを揺らした。 「自由になるんだ。敦司。そして、おまえの心のままに生きていくんだ」 「なに……それ……。……手切れ金かなにかのつもり……?」 「どうするかはおまえの自由だ」 涙が、ぼろぼろとこぼれ落ちた。爪が食い込むほど、強く手を握る。こんな一方的な別れ方があるか。一方的にこの身体を、この心をさらっておきながら。傲慢だ。こんな裏切りは心外だ。桐島は初めて、黒沢を憎いと思った。「俺を、こんなにしやがって」。あの日、あんなことを言ったくせに。選択権など、与えなかったくせに。 桐島は黒沢を睨んだ。初めて感情をぶつけられて、黒沢は少しだけ驚いた表情になった。 いや、違う。理解してもらえなかったのが悔しいのだ、と桐島は思った。桐島は、本当に黒沢といたかったのだ。あの時、強くそう願ったのは、自分の方だったのだ。確かにこれまで黒沢の言うがままだったと彼は言うけれど、それは桐島の望んでいることだったのに。黒沢が、自分の世界だったのに。それが桐島の絶対唯一の自由だったのに。望みだったのに。それを断ち切るなんて、許さない。桐島は言った。 「……今更……そんなこと許さないから……。俺を捨てるなんて……許さない。おまえを殺してでも……俺のものにしてやる!」 自分の言葉に驚いた。けれど、それ以上に黒沢は驚いて言葉を失っていた。桐島は黒沢の手から小箱を奪い取って、彼に投げつけた。その瞬間、蓋が開いて、なにかがこぼれ落ちた。テーブルの真ん中に落ちたそれを、二人で瞬間的に見た。そして、桐島は目を疑った。 「……なに……これ……」 「……これって……」 黒沢がそれを手に取り、立ち上がる。そして、桐島のところへ歩いてきた。桐島は視線を外さないまま、立ち上がった。 「なに……これ……」 「だから……」 黒沢は困ったように笑った。そして、桐島の頬の涙を拭う。拭っても、拭っても、拭いきれず、黒沢は諦めた。 「言葉が……足りなかったというか……。理解していなかったというか……」 「黒沢……」 「俺は、もう、決めたんだ。……おまえと、生きていくと」 黒沢は左手を開いた。てのひらのそれを見て、桐島はまた涙があふれた。 「あの時は……三年前は、おまえは混乱していた。けど、もう違う。冷静になれたはずだ。おまえは、誰のものでもない。おまえは、おまえだけのものだ。おまえの身体も、心も。……ずっと、わかっていた。けど、俺はおまえに、気づかせたくなかったんだ。気づいていたとしても、離したくなかったんだ。……けど、おまえは俺のせいで精神も身体も壊して……。それでも必死に俺に着いてきた。放さなければ、壊れると思った。だから、最後の賭けに出た。一度だけ、おまえに選択肢を与えようと」 銀色に輝く、黒沢の左手の薬指に光るものとまったく同じものを握りしめ、桐島の胸にあてた。 「……黒沢……」 「もし……俺を選んだなら……おまえは壊れるかもしれない。いや、壊れるだろう。けど……絶対に離さない。もう二度と、おまえが嫌と言おうが、なんと言おうが、閉じ込めてでも俺のものにする。死ぬまで」 桐島は崩れ落ちた。涙が止まらない。胸が苦しくて切なくて、心の底から泣いた。ひざまずいた黒沢が握りしめた左手を、もう一度、桐島の胸にあてた。 「こんなたやすく手に入れられるもので、おまえを繋ぎとめようとは思ってない。ただ、俺は、……俺は」 声が小さくなる。 「……愛してるんだ……敦司……」 震える指で黒沢の左手を探る。そして涙のままの顔を上げる。桐島は、ほんの少し笑っていた。 「……また……勝手に決めたね……」 桐島は涙を拭った。 「……選択権なんて……俺にはないのに……」 「桐島……?」 「初めから、選択肢なんて、なかったんだ。……ただ、おまえのことを、愛してる。それだけだったのに……」 「桐島……」 「……おまえは、全然、変わらない……」 「……敦司……」 黒沢は、桐島の左手の薬指にプラチナの指輪をすべらせた。いつの間に。ぴったりと指に合った指輪を見つめた。涙で、視界が滲む。黒沢の指が、桐島の顎にかかる。力を添えなくても桐島の方が歩み寄り、二人は口づけた。 永遠なんてない。わかっている。けれど、共に歩いていけるかもしれない、と桐島は初めて思った。 そう。死が二人を分かつまで。
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