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6
フロントでチェックアウトする時に、たまたま桐島は黒沢の後ろからサインしているシートを見て、びっくりして声が出なかった。あまりの金額の多さに驚いたのだ。
エレベーターに二人になった瞬間、桐島は言った。
「ちょっと、あの金額、どう計算したら、あんなになるんだよ」
「え?」
黒沢は変わった模様のエレベーターの天井を見上げながら、こともなげに言った。
「スイートだったから? それと……ワインかな」
「……ワイン?」
「ああ、ペトリュスの七十六年だろ? あれが……そうだな、結構するんじゃないかな?」
「ちょっと……」
指輪を合わせたら、いったい、いくらになると思ってるんだ……。確かにそういう世界を今まで知らなかったわけではないが、これから一緒に暮らしていくのだ。そうなると話は別。桐島は先手を打っておこうと思った。
「黒沢。こういうのはもう、ヤメね」
「なんで?」
「こんな浪費癖、困る!」
「ああ、じゃ、気をつけてくれよ」
「は?」
「だから初めから、おまえに金を渡してたんじゃないか」
そういう意味だったのか。桐島は黙り込んだ。やはり、互いに言葉が足りない。これから少しずつ伝えなければ、と思った。
それにしても、と、黒沢はめずらしく感慨深げに言った。
「おまえが、あんなことを言うなんてな」
「……あんなこと?」
『おまえを殺してでも、俺のものにしてやる』
「……もう、やめてよ」
桐島は黒沢に背を向けた。恥ずかしすぎる。
「それを言うなら」
「ん?」
「……気づいてたの? 昨日が俺の誕生日だって」
「……えっ?」
黒沢らしい。覚えていなかったのか。そういえば、この三年、互いにそんな話をしたことは数えるほどしかなかった。知っているからと言って、特になにもすることはなかったな、と桐島は笑った。
「まぁ、誕生日とプロポーズが重なったと思って。今回は許せよ」
「……ほんとに悪いなんて思ってないくせに」
「ああ、思ってない」
笑いながら怒った桐島が応戦しようと思った瞬間、エレベーターのドアが開いた。
「大丈夫なのか?」
「うん。……気持ちいい」
二人は山下公園を歩いていた。平日だからか、あまり人がいない。
「どうしても、今、おまえと一緒に、ここを歩きたかった」
黒沢は笑った。
「おまえをお持ち帰りした場所だからな」
「……バーカ」
桐島は黒沢の背を強く叩いた。
「なにがなんでも、欲しいって、あの時、思ったんだよな」
「え?」
黒沢が立ち止まって、海を指差した。潮の香りがする。涼やかな風が二人の髪をなびかせた。
「なにを見てるんだろうって思った。……今でもわからない」
「……俺にも、わからない」
なにもわからずに、無我夢中で生き急いでいた、あの時間。こうして六年が経った今、振り返っても、その時間は色褪せずに息づいている。こうしてまた二人でこの場所にいられる奇跡を、桐島は幸せに思った。
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