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「……へぇ……」 「……なに」 「いや、似合う似合う。ありがとうございます」 「お気に召していただけて、光栄です」 ベージュのイタリアンスーツに、インは白に近い水色のシャツ。無地の濃い、ワインレッドのネクタイ。しかも靴まで揃えて。 桐島はすっかりハイになっていた。わけがわからず、鏡の前に立たされて。長い長い時間だった気がする。 「……ちょっと……これって……」 「おまえ、結構スーツ着て、仕事行ってたんだろ?」 そう言ってから、黒沢は失言、とばかりに黙り込んだ。桐島も黙り込む。確かに仕事は相手の要望に応えた格好をしなければならない。特に金のある年上の男が多かったせいか、スーツで来るよう言われることが多かった。黒沢と暮らす時に、それらは捨ててしまった。客にもらったものは、すべて。黒沢が、嫌がったからだった。 「食事って、そんな、ドレスコードなんて……」 「人が大勢いたら、おまえが嫌がるだろう」 痛いところをつかれて、黙り込む。黒沢は面白そうに笑う。 「じゃ支払い済ませて、さっさと食事に行くぞ」 黒沢と店員が親しげに話しているのを横目に見ながら、桐島はため息をついた。 更に車を走らせたが大した時間をかけず、すぐに車は地下駐車場へと入っていく。結局、横浜内で用は済みそうだ。少し安心する。 「このままメシに行くか? それともなんか欲しいものあるか?」 「……ああ、……えっと、ご飯、食べようかな」 「ああ、言い忘れてたけど、今夜、ここに泊まるから」 「えっ? なに、いきなり、それ」 「……嫌なら、やめるから」 めずらしく歯切れの悪い黒沢をいぶかしげに見上げたが、さっさと先に行ってしまったので、慌てて後をついていく。駐車場からエレベーターで五階まで上がり、フロアを歩き続ける。どこへ行くのかわからず桐島は不安になったが、とにかく黒沢についていくのに精一杯だった。 やはり、黒沢は人の目を引く。特に女性はよく彼を振り返る。桐島の常連の中には女性の客もいたけれど、年上の既婚者が多く、彼のことを男として見ているわけではなく、ペットと遊んでいる感覚のようだった。別に、女性に好かれたいわけではなかったが、同じ男として黒沢をうらやましいと思うことはある。人間的にも。そう、なにもかもが。 「おい」 「……え?」 「並んで歩け」 「あ、うん」 「なんでおまえはいつも隠れるようにして歩いてる」 「え? そう?」 「しかも下ばかり見てる」 黒沢は苦笑した。腕を引かれて、胸の鼓動が速まるのを感じる。 「仕方ないな。でも、まぁ、いいか。俺もあまり、おまえを見られたくない」 「え?」 「さっきから、女がおまえをよく見てる」 「え? ……勘違いでしょ」 「おまえって、鈍いのな」 「そ、そうかな」 焦って、黒沢の横を歩く。しばらく歩いてまたエレベーターに乗り込む。黒沢は六十八階のボタンを押した。 桐島はずっとうつむいたままだった。久しぶりの外の空気に酔いそうだった。薬を飲みたいと思ったが、黒沢と離れる機会はなさそうだった。 「気分でも悪いのか?」 「あ、うん……。平気……ちょっと、久しぶりの外だから、緊張してるだけ」 さっと視線を走らせる。フレンチの店らしい。入って黒沢が予約の旨を告げると、スタッフが奥へと消えた。すぐにこの店のオーナーシェフらしい男性が出てきて、黒沢とにこやかに挨拶をしている。しばらくして案内されたのは個室で、窓の外一面に夜景が広がっていた。思わず、桐島は「きれい」と口に出していた。天候がいいからか、千葉の方までよく見える。それにしても、黒沢はなぜ急にこんなところに来ようと思ったのだろうか。けれど黒沢が気まぐれなのを思い出し、それは言わず、進められるままに席に着いた。スタッフが手にしていたワインリストを黒沢に渡した。 「おまえ、ワインは飲めるか」 飲めなかったが、飲めるようになってしまった。客に合わせているうちに。嫌なことを忘れたいために。また、思い出してしまう。桐島は無理に微笑んだ。 「……うん」 「……じゃ、ペトリュスの七十六年を頼む」 「かしこまりました」 しばらくするとスタッフがボトルを持ってやってきた。桐島はテイスティングをしている黒沢にまたみとれる。なぜ、この男は、こんなにすべてが美しいのだろう。いつも、劣等感にさいなまれる。あまりにも不釣合いすぎて。 身を売る、という仕事についてから、桐島はいつも自己嫌悪で荒れた。何度も死んでしまおうと思った。けれど、母のことが気がかりで。そして、もう一目だけ黒沢に会いたい、と、それだけを思いながら、狂いそうになる毎日を過ごしてきた。今はその黒沢と一緒にいられる。なのに、その黒沢に激しく求められているのに、どうしようもない不安が押し寄せてきて、時々吐いたりすることもある。大丈夫、そう思おうとしても、思考が揺らぐ。自身でさえ収拾のつかないどす黒い感情が、黒沢をも飲み込みそうで怖くなる。こんなことを言えば、黒沢はバカバカしいと笑うだけだろうが。 「どうした、桐島」 「え? あ、ああ……」 「飲めよ」 「うん」 桐島は少し震えている手でグラスを持った。芳醇な香りが広がる。するりと飲めてしまう舌触りのよさ。ワインの知識があまりない桐島でも、これは高価なものだとわかった。 「……すごくおいしい」 「そうか。よかった」 黒沢がグラスを置く。 「赤には好みがある」 「黒沢がワイン好きとは知らなかった」 「接待のためだ。別に好きじゃないが、おまえにはワインが似合うと思ってな」 「……そうかな」 あまり酒の話には触れたくない。その雰囲気がわかったのか、黒沢は、もうなにも言わなかった。二人は黙ったまま、運ばれてきた皿に手をつけた。 メインの皿が来てしばらくすると、黒沢がナプキンで口を拭うと手を重ねた。そのきれいな手に見とれていたが、桐島はふと、あるものに気づいて硬直した。指輪。いつの間に。しかもよく見ると左手の薬指に。ナイフとフォークを置くと、桐島は慌てて手をテーブルの下に下ろした。指がかたかたと震えた。それに気づいたのか、黒沢が切り出した。 「実は最近、親父がうるさい。結婚しろと」 言葉が出ない。桐島はうつむいた。 「俺の両親は去年、離婚した」 「え……」 桐島はそっと顔を上げる。別になんでもないことのように、黒沢はこちらを向いていた。けれど、いつもの視線とは明らかに違う。射るような、まなざし。怖くて逸らすこともできずに、桐島は息を呑んだ。 「お袋は親父にかまわれない淋しさを俺で紛らわせようとしたんだな。俺のすることすべてに干渉してきた。俺が大学時代に一人暮らしを始めたのもそのせいだ。今度は他に男を作った。別にそのことを俺は責めるつもりはない」 家庭のことを聞いたのは、初めてのことだった。この三年、仕事のことを時折ほんの少しもらすことはあっても、こんな具体的な話をされたのは初めてだ。嫌な予感がした。そういう勘は、哀しいことによくあたるものだ。視線を外せない。怖い。もう、聞きたくない。 「おまえにはまだ話したことはなかったが、俺は本気で社長の椅子を狙っている。あの親父だ。息子だからと言って、俺を後継者に選ぶようなことは決してない。俺が副社長に就任したのは、あの時、適任な人材が、公平な目で見て俺しかいなかったからだ」
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