1 鎌倉 1992年

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1 鎌倉 1992年

 鎌倉駅のホームに降り立つと、雨の臭いがした。  背後で自動ドアが閉まり、祐作はその音に振り向いて電車の中の人と目があってしまい、にこりと笑った。が、向こうは怒ったような不快感溢れる顔をして祐作をにらんだ。彼は彼女を見送り、電車が小さくなるのを見つめた。  ようやく止んだにもかかわらず、一昨日から降り続いていたせいか雨の臭いは空気の中に充満していた。ホームの脇に小さな花壇が作ってあって、そこに紫陽花が咲いていた。青紫の丸い花がいくつも緑の葉の中に埋もれている。  祐作は母が話してくれた鎌倉の紫陽花をよく見ようと、その花壇に一歩近づきかけて足を止めた。人の気配に横を向くと、向こうから紺色の制服を着た人が三人来るのが見えた。万国共通の危険を知らせるサイレンがどこかから近づいてくるのも聞こえる。三人が腰の方に手を回すのも見えた。  祐作は邪魔されずに紫陽花を見たかった。ところどころ青っぽいところと白っぽいところの混じった濡れた花びらの色は、それほどロンマンチストではない彼から見ても魔法のようだった。  靴音が近づいてきて止まり、祐作は目を上げて、紺色の制服を着た彼らを見た。  威厳のありそうな太り気味の一人が、片手に身分証明書のようなものを、片手に拳銃を持って一歩前に出た。それでも祐作からは十メートルぐらい離れていた。 「ユウサク・ツカモト・ガルシア、だね」  彼が言っている間にも、同じ制服の人たちが次々に到着し、祐作を囲み始めた。反対の方向からも何人か来た。みんな拳銃を持っているか、今まさに持とうと手を腰につけている。 「はい」と祐作は答えた。こんなところで逮捕されるとは思わなかった。 「新日商事支社長殺人容疑で逮捕する。荷物を下に置いて両手をあげ、一歩下がれ」  祐作は言われたとおりに荷物を置き、両手を頭の後ろで組んで一歩下がった。途端にいきなり後ろから拘束された。抵抗もしていないのに殴られ、床に押しつけられて腕を捻りあげられた。そのまま殺されるかと思った。コロンビアの警官だったらそうだったし、いや彼らなら声なんてかけずに紫陽花を見ている間に射殺していただろう。  コロンビアの警官の五分の一ぐらいの暴力が終わると、祐作は車に押し込まれた。ちゃんと檻のある厳格な移動留置所だった。殴られたせいで胃がむかむかし、警察署に着くまでに吐いてしまった。なかなか車は停まらず、揺れるせいで気分の悪さはますます酷くなった。  ようやく車が停まってドアが開き、服をつかまれて引き出された。大きな男の人がいて、何かぺらぺらとしゃべっていた。祐作はほとんんど聞き逃し、何だかわからないうちに留置所に入れられた。コロンビアの警察に比べたら扱いは最高に良かった。殺されなかったのが驚きで、逮捕されたとき以来、殴られていないことも驚きだった。  取り調べでも警察官たちは温厚だった。多少の暴力はあっても、命に関わるようなことはなかった。祐作は何を言ってもどうせ死刑になるのだから、黙っていようと思って一度も口をきかなかった。死刑になるのなら取り調べ中に殺されても同じことだと思った。  長い時間の取り調べが続き、それから驚いたことに裁判が開かれた。しかもひどく民主的な裁判で、祐作は感動さえした。それでも最終的には死刑判決が下ると思っていたのに、これまた意外にも懲役刑になった。  コロンビアから殺人容疑で引き渡し要請が来ていたらしいが、祐作が日本国籍を持っていたので、日本の法律で裁かれることになったと刑事が忌々しそうに言った。祐作がコロンビアに自主的に帰りましょうかと尋ねたら、彼はぎろっと祐作をにらんだ。彼は祐作にいろいろと教えてくれた。日本の法律が未成年者に優しいことや、祐作が逮捕される前後、従順だったことが裁判官の印象を良くしたのだろうと言った。  コロンビアに帰ったら死刑だと聞いていた。そりゃそうだろう。 祐作は十七才で、初めて日本を訪れた夏のことだった。
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