1 鎌倉 1992年

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 *  それからの二年間は一年間ずつ別の少年刑務所で過ごした。少年刑務所にいる間、祐作は脱走を考えたことがなかった。逃げようと思えば簡単にできることはわかっていたし、何度か話を持ちかけられたこともあった。が、いつでも作戦のアドバイス役にしかならなかった。そして持ちかけられた計画の全てのミスを指摘し、これでは失敗すると断言した。たいていの若者はそれで納得したが、中には納得できずに実行し、刑期を伸ばした者もいた。祐作は彼らを心から哀れみ、彼らの心に平穏が戻る日が来ることを祈った。  祐作は日本人の母を持ち、日本で生まれた。が、逮捕されるまでの十数年をスペイン語が母語である父の国、コロンビアで過ごしてきた。日本語を話すことはできたが、書くことも読むこともできなかった。当時は外国人用の少年刑務所がなかったので、祐作は普通の少年刑務所に入り、そこで義務教育を受ける受刑者たちと一緒にひらがなの練習をした。刑務官は祐作に何かの文書を渡すときは英語に一部訳し、どうしても伝えられないときはローマ字で書いた。  もちろん、一年もたつと祐作の方でも少年院の決まった生活にも慣れ、そこで使われる限られた表示や注意についてはそらでいえるぐらいになり、わざわざ面倒な文字を覚えるまでもなく生活できていることに気づいた。それで勉強はやめてしまった。  少年刑務所の生活は快適だった。毎日食事が決まって出たし、勉強をすれば働かなくても怒られなかった。大人しくしていれば早く釈放されるというので、祐作はそうすることにした。釈放されたら、もう一度鎌倉に行こうと思っていた。鎌倉は父と母が出会った場所で、二人のたくさんの思い出が残っている。二人は祐作が行くことを良く思わないかもしれないが、そんなことはどうでもいいのだ。母から聞かされている街に実際に行って、そこの暮らしを見たかった。本当に釈放されれば、の話ではあったけれども、それはいつも思っていた。  少年刑務所では、祐作だけ特別なことがいくつかあった。スペイン語と英語で暮らせたというのが一つだが、もう一つは、しょっちゅう警察官が面会に来ることだった。彼らは祐作の自供を取りたがり、話をすれば刑期がもっと短くなると甘い言葉で祐作を釣ろうとした。警察官は数ヶ月に一度、別の人に変わったが、聞くことはみんな一緒だった。彼がコロンビアで何をしたか、どうして日本に来たのかを知りたがった。そんなこと、どうでもいいじゃんと言うと、必ず警察官は怒った。  それはそれで楽しい余暇だったのだが、ある日、それを中断するように小川警部が来た。  小川は警察官というより軍人に近いような気がして、祐作は今までの警察官と違う匂いを感じた。外見も、ものの言い方も身のこなしも厳格だった。祐作はTCVの兵士を思いだした。頭は短く軍人刈りに刈っていて、目は鋭く、筋肉質な体を持ち、姿勢良く歩く。言葉も上下関係を感じさせたし、彼自身の感情をあまり感じなかった。いつも制服を着ていたので、それが祐作には軍服に見えた。  小川は最初、ゆっくり面会用の部屋に入ってきて、立ち会いの刑務所職員に一礼をし、祐作を見ずに椅子に座った。祐作は真ん中に置かれた机の前に座らされていて、小川が今までの他の警察官と同じように自分の前に座るのを見ていた。小川は落ち着いてからようやく祐作を一瞥し、それから煙草を探して机に出し、一本をくわえた。 「おまえもやるか?」  小川が言って、祐作は顔には出さなかったが、初めて警察官に驚かされた。立ち会いの職員はびっくりして顔を上げた。どうしたらいいか戸惑っているようにも見えた。 「いいんですか?」祐作が聞くと、小川は一本箱から出して彼に差し出した。祐作は恐る恐るそれに手を伸ばした。小川がいつ「冗談だ」と笑うのかと思ったが、小川は笑わなかった。そのままライターの火まで近づけてくれた。 「だめですよ」  職員が立ち上がり、祐作と小川は彼を見た。小川はつまらなさそうに無言で祐作の手の煙草を抜き取ると、それを自分の胸ポケットにしまった。祐作は異議は唱えず、手を膝の上に戻した。 「未成年だからって理由でな」と小川は憎々しげに言った。「おまえは守られてるんだそうだ」  祐作はがっかりして息をついた。やっぱり小川も他の警察官と同じなんだと思った。自供を取るために、そして嫌味をいうために、ちょっと変わった手を使ったに過ぎない。小川は自分の分の煙草に火をつけると、祐作に向かってゆっくり煙を吐いた。 「おまえ、本名は父親の名前は入ってないんだな」ファイルを開きながら小川は言った。煙草の煙で表情はよく見えなかったが、声は低くてしっかりした声だった。 「塚本祐作、が本名だな?」 「たぶん」と祐作は答えた。証拠はない。 「三歳の時にコロンビアに渡ってるな。五歳の時に、両親が死亡、と。合ってるか?」小川は最後に目をあげた。 「三歳は覚えてません。五歳も覚えてませんが、聞いた話とは合ってます」  祐作は過去に何度も同じ質問に答えたなと思いながら小川を眺めた。きれいに剃ったはずのヒゲが、この午後の時間になって、ほんのわずかに伸びてきている。それを指の先で触れながら、彼はじっと祐作を見ていた。  資料で見たとおりの生意気そうなガキだ。小川は許されるなら、彼の顔につばを吐きたかった。 「同時に五歳でTCVに入隊と」 「ええ、まぁ」  ジロリと小川に睨まれ、祐作は口を閉じた。小川は今にも殴ってきそうな顔をしているが、強い意志で我慢しているようだ。 「そしてコロンビア各地でのテロに参加。十歳からはペドロ・ロドリゲスの腹心かつ狙撃手として、暗殺を担当。異議があれば発言しろ」  異議はなかった。祐作は小川の話を興味深く聞いていた。今までの警察官たちは、資料を読み上げたりしなかった。だから何と書かれているのかも知らなかったし、どんな自供を求められているのかも、実際よくわからなかったのである。小川は資料に目を落としたまま、読み続ける。 「十歳から十四歳までに行ったテロは五十件以上。百人以上を殺戮。外国人の誘拐にも加担し、TCVの資金集めにも役立った。十五でTCVを離脱。コロンビア国外へ逃亡。主に中東エリアへの協力者を得て、各地のテロに加担。十七で日本の鎌倉で逮捕。逮捕当時は武器は不携帯。所持品は服と本だけ。なんの本だ?」  小川からの最初の質問らしい質問はこれだった。祐作はちょっと考えた。 「聖書と、もう一冊は忘れました。日本のガイドブックだったかな」 「らしいな、トラベルガイドと書いてある。鎌倉は塚本薫の家があったな。おまえ、今さら母親の墓参りでもしようと思ったのか?」 「カオルの墓は、コロンビアにあります」 「こっちにもあるんだよ。こっちの遺族がつくった。遺骨も遺灰もない空っぽの墓だけどな」  小川はじっと目の前のクソガキを見た。このテロリストのクソガキは、実際に会ってみると、写真よりもずっと優しそうに見えた。瞳は父親譲りの灰色で、髪も明るめの茶色だ。長いまつげを伏せて考えこむと、ちょっと痩せ気味の頬に影が映った。百人殺したようには、到底見えない。このルックスで周りを欺いてきたと言えなくもないが。  小川は咳払いをして話を続けた。 「殺人の容疑で逮捕されたが、証拠不十分で不起訴。コロンビアが引渡しを求めてきたが、協定がないため、引渡しもされず。結局、偽造パスポートの所持と使用だけが有罪だ。ラッキーだったな」  祐作は何と答えたら良いのかわからず、かすかに肩をすくめた。黙っていると少年刑務所の外で鳴いているセミの声が妙に大きく聞こえた。去年はこのセミの声の正体を知らず、得体の知れない音だと思っていた。 「で、刑期満了が近づいている。ここを出たら、おまえはどうするつもりなんだ?」 「どう…?」祐作は首をひねった。 「選択肢が三つある。一、またテロリストとして生きていく。二、身を隠し一般人として生きる。三、コロンビアのテロリストに殺される。どれがいい?」  祐作は小川を見て、それから彼の手元にある書類の束を見た。そこに答えが書いてあるのだろう。正解を答えなければどうなるというのだ? 刑期が伸びる? それでも別に構わない。特にやり残したことがあるわけでもない。十五歳の時、自分の人生は終わったのだと祐作は思っていた。あとはおまけの人生だ。  祐作が黙っているので、小川は悩んでいるのだと誤解した。 「去年、おまえが逮捕されてから、日本の警察はテンヤワンヤだった。世界各地から犯罪人の引渡し要請があった。しつこかったのは、アメリカとコロンビアだ。おまえは両親に感謝するんだな。コロンビア国籍ではなく、日本国籍を持たせてくれたことを。もしコロンビア国籍だけなら、すぐに向こうに移送して、即死刑だったろうな。しかしおかげで、こっちは大変だった。三国で話し合いをし、新しい協定を結んだんだ。そして日本の警察にもその余波が来た。自衛隊との連携も難しいっていうのに、カウンターテロのための特別組織を急ごしらえで作らなくてはいけなくなった。なぜかわかるか? おまえを日本の少年刑務所で引き取ったからだよ。おまえを殺人ではなく、入管法違反でしか裁けなかったからだ。百人殺した奴が、たった一、二年で自由になる。これはどう考えたっておかしいだろう?」  祐作はようやく小川に共感できてうなずいた。「そうですね。俺も死刑になると思ってました」 「未成年だ。死刑はない。残念ながらな。とにかく、たった二年で刑を終えて出てくるおまえが、テロを反省したりするわけがないというのが上の判断だ。未だにTCVの情報を一つも言わないしな。言う気もないんだろう?」 「そうですね」 「どうしてだ?」小川はファイルを閉じて祐作を見た。「向こうはおまえの情報をジャンジャン出してるっていうのに。おまえがラジェリに行ったというのを知らせたのもTCVだ。ペドロ・ロドリゲスはおまえを目の敵にしてる。おまえが口を開くんじゃないかと、怖くて怖くてたまらないんだ。望みどおり恐怖を味わわせてやったらどうだ? おまえはTCVが嫌になって除隊したんじゃないのか?」  この辺は何度説明しても理解してもらえない。祐作はファイルに書いてあるはずなんだけど、と思いながら小川を見た。 「嫌になったんじゃなくて、必要なくなったからです。政治をやるのに、スナイパーは要らないから」 「そりゃそうだな。政治をやるのにスナイパーはいらん。でもペドロはおまえを引き止めただろ?」 「はい」祐作は息をついた。  四年前のペドロの顔を思い出す。最初は柔和だった。長い話し合いの間に、彼の表情は険しくなり、最後には裏切り者と罵られた。祐作が何度違うと否定しても無駄だった。二度と顔を見せるなと言われたので、そのまま国を出た。ペドロは数時間後に抹殺命令を出したらしいが、そのときには祐作はホンジュラス経由で国を出ていた。コカインなどと同じルートを遠ってメキシコへ渡り、そこから誘いに乗る形で中東へ行ったのだ。 「どうして断った? TCVが政党化したところで、おまえはペドロの腹心として重宝されただろうに」 「セクレタリ、って何て言うんでしたっけ。それをしないかといわれました」 「秘書か。どうして断った? いい身分じゃないか。大して仕事もせずに金をもらうこともできる」  祐作は小さく眉を寄せた。それを見て、小川は内心笑った。時折、老成した顔も見せるが、ほとんどの時間はこのテロリストも一介の思春期の悪ガキである。偏った清潔感を持ち、ある種の万能感を持ち、そして同時にエネルギーを自分で制御できない不安定さを併せ持つ。 「やりたいことじゃなかった」 「仕事ってのは、ほとんどがそういうもんだ。俺が喜んでおまえに面会してると思うか?」小川はテロリストを睨む。 「俺が残っていたらTCVがまだゲリラだって思われるでしょう。ペドロが俺を追い出したから、TCVが信じられるようになったんです。政治をやるのに、スナイパーはいらないはずだから」 「なるほどな。おまえは武装解除の象徴か。ペドロが抹殺命令を出したことも、想定内か?」 「ソーテイナイって何ですか?」  小川は顔をしかめた。「イメージしてたか?ってことだ。奴がおまえを殺そうとするのも知ってたのか?」 「はい」話し合いの最後には、今にも引き出しの銃を取り出しそうだったものな。 「それでもペドロやTCVについて、何も言う事はないと?」 「ありません」  ふんと小川は鼻を鳴らし、ボールペンを手の中でくるくると回した。つまらん答えだ。 「そのTCVだが、最近じゃ、汚職もやれば金権政治もおおっぴらにやってるようだぞ。おまえはペドロにそれをさせるために除隊したのか? ペドロはおまえを裏切ったばかりか、支持してくれた国民も裏切ったわけだ。それでもおまえはTCVにいつまでも忠誠を誓ってるわけだ? 何のために?」  祐作は黙っていた。小川はニヤリと笑って立ち上がった。そして祐作の横に立ち、机に手をついた。 「なぁ、どうなんだ? おまえは誰のために殺人をして、誰のために抹殺されようとしてるんだ? 何のための秘密保持だ? TCVはおまえが何も言わなくても崩壊してるぞ。おまえはTCVについて知ってることを全部話して、警察の保護を受けたらどうだ? どうせ身元保証人だっていないだろうしな。このまま釈放されたら、ここを一歩出たところでコロンビアに麻薬でももらったチンピラにヤラれて終わりだぞ。いいか、肝心なのは、TCVはもうおまえの味方じゃないってことだ。わかるか?」 「わかります」祐作は机の上の細かい傷を見た。 「それでも何も言いたくないか?」  祐作は目を上げ、小川を見た。「言う事はありません」 面白い。小川はムスッとして祐作を睨みつける。聞いていた話は大げさではなかったらしい。涼しい顔で黙秘を通す。半分外国人だから、余計に何を考えているのかわからないと聞いていた。確かにそうだな。 「TCVについての最近の情報を置いていく。興味あるだろ? 来月までに読んでおけ。次の面会で感想を聞かせろ」  小川はファイルの下から、インターネットのプリントアウトの紙束を取り出し、祐作の前に置いた。  そして祐作の肩をポンと叩いた。刑務所の指定着の下の体は、意外なほどに細かった。よく鍛えられた警察官を日常的に相手にしている小川には、ちょっと強く押せば折れるのではないかとさえ思えたほどだ。 「じゃあな」と小川は面会室を出た。  上司からの命令は、塚本祐作の自白を取ることではなかった。悪ガキの首根っこを押さえつけ、支配し、忠実な下僕にすることだ。その前段階として、TCVへの忠誠を叩き壊さなければいけない。上司の言葉を借りるならば、「手段を選ばず徹底的に当たれ」だ。多少の脅しも黙認する。精神的なダメージも、肉体的なダメージも、おおいに結構。ただし殺すな。  十九のガキ相手に何を言ってやがる。小川は上司に言われたとき、そう思った。  今日、会って、それを改める。あいつは大したガキだ。
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