第二章 最先端

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第二章 最先端

 よく晴れた日の下で、知世は洗濯物をベランダの物干し竿に広げた。 「ちょっと肩が痛いわね」  年齢には勝てない、身体は正直だ。老いを感じつつ、知世は気もそぞろだった。 「今日、あれが来るって言っていたけど……」  未知の高額機械が来るのだ。『不安』のひとことに尽きる。しかし、この件で武志に連絡することもできなかった。なぜあんなものにそんな大金を、と連絡して叱るのは簡単だが、いわば武志の想いの形なのだ。あの子は日本に独り残されるわたしのために三百万円でも惜しくないと思ったのだ、そう考えると、小言も文句も言えない。 「何時くらいに」  来るのかしら、という語尾に甲高いブレーキ音とともに、「どん」という腹に響く衝突音がかぶさった。  慌てて視線を振れば、家の前の一本道で小型のトラックが電柱に衝突していた。ボンネットはへこみ、道路に残った黒いブレーキ痕が痛々しい。 「大変!」  知世は洗濯物を放り投げて、つっかけで家から走り出た。事故車に近寄る。運転席のエアバックに太めの男が埋まっていた。知世は声をかける。 「大丈夫ですか!」 「……大丈夫、です……」  悲鳴のような知世の問いかけに、ドライバーは顔を起こした。どうやら出血や骨折はないようだ。知世は少し安堵し、 「警察、警察を呼ばないと」  と言ったが、 「あ、警察はいいです、あとで自分で呼びますんで。それよりこのあたりに今藤様のおたくはありませんか。自分は配達の途中で……届けないと」  と言われた。 「……今藤はうちですけど」  知世が門柱を示すと、ドライバーは「よっこらしょ」という声とともに、運転席から降りてきた。知世は尋ねる。 「お怪我はないですか」 「大丈夫です、大丈夫です。それよりお届け物です、ここに印鑑かサインをいただけますか」 「え、そんなことより、警察や病院が先じゃ」 「早く、早く届けたいんです。下ろしたいんです!」  ドライバーは絶叫した。 「こいつを乗せてから、黒猫が前を横切るわ、フロントガラスに鴉が糞を落とすわ、シートベルトは切れるわ、バッテリーは上がるわ、何故か路上にバナナの皮が大量に落ちているわ……最後はブレーキかけてるのに加速して事故ですよ?! 早く、こいつを下ろさないと殺される!」 「まさか、それって」  知世は思わず一歩あとずさったが、ドライバーは知世に構わず、トラックの荷台から巨大な箱を運び出し、知世の指にボールペンを握らせた。 「早く、サイン、サイン!」 「え、え、ええ?!」 「毎度っ」  勝手にドアを開けて、今藤家の玄関に箱を乱雑に放り込むと、ドライバーは事故車を運転して、その場を去った。 「警察に連絡だけしたいけど……」  茫然と知世は呟いたが、伝票のドライバー名のところはなぜか黒いしみが広がっていて読み取ることが出来ない。警察に連絡しても、ドライバーの名前もナンバーもわからないではどうしようもないだろう。 「どうしましょう」  途方に暮れたが、はっと、この箱が三百万円だということを思い出す。 「いけない、これは貴重品だったわ」  慌てて家に入り、鍵を閉める。  改めて、いつものように静かになった家の中で、そおっと、箱の縁に指を置く。 「この中に入ってるのね……」  ZWSシリーズ・E―一〇七七。ネバーネバーワールド社の最上位機種。最先端技術の結晶。 「出さないわけにはいかないわ」  知世はキッチンばさみを持ってきて、十字に箱をくくっている紐を切り、封印を開けた。  白い薄い布に包まれて、なにか人型のものが発泡スチロールに埋まっている。慎重に布を剥がすと、 「まあ……」  一本眉に三本まつげ。おちょぼ口。ひょっとこのような顔のE―一〇七七が眠っている。 「どうしましょう。そうだ、電源、電源を」  どこかにスイッチがついているに違いない。  残念ながら、取扱説明書は字が細かすぎて老眼鏡をかけても読めなかった知世がおぼつかなく両手でロボットの輪郭を辿ろうとした時、 「おはようございます」  E―一〇七七の目が唐突にぱっちりと開いた。おちょぼ口から音声が流れる。 「はじめまして、E―一〇七七です。命名機能を実行します。ご希望の名前を言ってください」 「え」  知世はぎくりと身をこわばらせた。名前? 命名? そうだ、セールスマンが言っていた「命名することができる」というのはこれのことか。でも、どんな名前にするかなんて考えていない。名前、名前……。 「名前を言ってください」  E―一〇七七は繰り返した。知世は混乱して独り言ちる。 「えー、えーと、ええと、この子は…」 「認識しました。名称『エエコ』で登録します」 「え?!」 「『エエコ』とお呼びください」 「もう決まっちゃったの?」 「『エエコ』とお呼びください」 「ちょっと待って」 「『エエコ』とお呼びください」 「取り消し、取り消しはできないのかしら?!」 「『エエコ』とお呼びください」 「そんな……」 「『エエコ』とお呼びください」 「……――」 「『エエコ』とお呼びください」 「……『エエコ』さん」 「はい、『知世』さん」  『エエコ』さんは発泡スチロールから上半身を起こした。 「朝食はまだですか。『知世』さん」 「わたしの名前……もう覚えてるのね」  知世は思わず感動した。ここ数十年、「母さん」「おばあちゃん」「奥さん」としか呼ばれていない。両親はとうに亡くなり、同級生とも縁遠くなった現在、知世を「知世」と名前で呼ぶ存在はいなかった。改めて呼ばれると、とても新鮮な気持ちになり、学生時代に戻ったようだ。 「命名は失敗しちゃったみたいだけど、凄いわ」  これは武志に念入りにお礼を言わねば。感動しつつもそう思ったとき、 「朝食はまだですか。『知世』さん」  『エエコ』さんが繰り返した。 「お腹が減っているのかしら」  そういえば、会話や食事もできるという話だった。誰かと一緒に食事。武志たちがオーストラリアへ行って以来、そんなことはしていない。いや、オーストラリアへ行く前でも、週末しか一緒に食事はしなかった。夫が十七年前に他界して以来、知世は今藤家のダイニングで、ずっと一人で食事を摂っていた。いつの間にか、それにもう慣れていた。 「すぐに用意しますからね」  知世の顔に笑みが浮かんだ。誰かとの食事。それは、単なる食糧の摂取ではなく、食卓を囲むということだ。そう思うと、不思議なほど気持ちが華やいだ。  そんな気持ちで眺めれば、ひょっとこのような顔の『エエコ』さんも、不意に訪れたお客様のように思えた。確かに機械は機械だけど、名前を呼んでくれるなら、ニュースを流し続けるだけのテレビに話しかけるよりずっといい。 「『エエコ』さんはなにが好き?」  思わず問いかけると、『エエコ』さんは無表情に答える。 「わかめの味噌汁が好きです」 「いいわね、お味噌汁に納豆にしましょう。久しぶりに作り置きの冷凍じゃなくて、炊き立てのご飯で」  知世はお客様とおままごとをしているような気分になり、浮いた気持ちでキッチンへ入る。 「ちょっと待っててね」
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