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目を覚ますと、すでに窓越しの空は青く輝いていた。
眠っていた、というより、すっかり気を失っていて気付かなかったが、いつの間にか夜が明けていたらしい。が、普段は悪夢の終息を約束するはずの日差しも、今朝に限ってはひどく目障りに感じられる。
全身を途方もない気怠さが押し包んでいた。瞬き一つすら億劫に感じられるほどの倦怠感。だが、それ以上にロアを襲っていたのは強烈な空虚さだった。からっぽの身体よりもなお空虚な心を持て余しながら、ロアは、ただベッドの上に四肢を投げ出していた。
そういえば、リクは――
気力を振り絞り、緩慢に寝返りを打つ。見ると、部屋のどこにもリクの姿はなかった。
代わりに、意外な男が隣のベッドに腰を下ろしていた。
「……ゲイン!」
強烈な怒りが、ふとロアの胸にこみ上げる。悪意に満ちた嘘でリクを狂わせた張本人。そして、ロアをかつての地獄に再び叩き込んだ男。
許さない。この男だけは、絶対に――
ところが当のゲインは、ロアの殺意などどこ吹く風とばかりにじっとロアを見下ろしている。軽蔑――いや、これは憐れみだ。気まぐれから手を差し伸べた獣人に、見事に返り討ちにされた同業者への不躾な憐憫。
「これで分かっただろ」
やがてゲインは、冷ややかに言った。
「あいつは所詮、獣人だ。お前とはそもそも、相容れる存在じゃなかったってことだ」
「――ふ、」
ふざけるな。そう仕向けたのは貴様だろうが。嘘でリクの心を掻き回し、憎悪を焚き付けたお前が――
「ははっ、全部俺のせいだと?」
さすがに伝わったのだろう、ゲインは苦笑する。
「確かに、爆薬に火をつけたのはこの俺だ。――けどな、その爆薬をせっせと溜め込んでいたのは、他ならぬあんたなんだぜ、ロア」
「い……いかげんな、こと、」
「あんたにも自覚があるはずだ。少なくとも、俺の知るロア=リベルガはそんなことも分からないほどの馬鹿じゃなかった。別に今のあんたが耄碌したわけじゃない。単に、己の罪を認められずにいるってだけの話だ」
「……罪、だと?」
そんなものは、獣人殺しの道を選んだ時点で覚悟の上だ。獣人の屍の山を築くことでしか生きる意味を見出せない罪深さ。そんなものは、とっくの昔に織り込み済みだ。それを、何を今更――
「おっと、誤解はするな。ここで言う罪ってのは、別にあいつから家族や仲間を奪ったことじゃない」
「……なに?」
だとすれば、一体……
茫然となるロアの前に、やおらゲインは身を乗り出す。その、捕食者めいた眼光にロアが身構えたその時、重ねてゲインは言った。
「あいつにあんたを慕わせたことだ。ロア」
「は……」
「あんたへの憎しみを塗り潰すほどの好意を、あいつに抱かせたことがそもそもの罪だったのさ。それが、どれほど残酷な行為だったか、あんたには分かっていたはずだ、ロア」
「……っ、」
ロアの脳裏に、二つの感情に引き裂かれるリクの慟哭がよみがえる。ロアへの憎悪を伝えながら、同じ口で切々とロアへの〝好き〟を伝えるリクの悲痛な声が。
リクは憎んでいたのだろう。ロアだけではない。家族を奪ったはずのロアに好意を寄せるリク自身をも。
そんなリクの好意を、ロアは一度も拒まなかった。獣人を憎む者としては余りにも不誠実で矛盾に満ちた態度。それでも、ロアは――
ふと、古い記憶が脳裏によみがえる。
それは、リクと出会ってしばらく経ったある日のこと。突然、リクは森の中で病に倒れた。本来なら、そんな獣人は森に捨て置くべきだった。獣人殺しとして、何より、獣人を誰よりも憎む者として。
だが。
そんなリクをロアは助けた。放置できずに手を差し伸べた。看病の甲斐もあって、ほどなくリクは元気を取り戻した。嬉しそうに笑うリクを眺めながら、なぜ、自分はこんなことを――とロアは何度も自問した。
「奴を殺せよ、ロア」
「――え」
唐突に告げられた言葉にロアは唖然となる。
なぜ、今の流れでそんな――
「俺たちは獣人殺しだ。少なくとも、救世院の坊主なんかじゃない。だとすれば、獣人殺しらしく剣で解決するのが筋ってもんじゃないか。たとえそれが、あんたの手で育てられた獣人だとしても――いや、だからこそ余計にあんた自身がケリをつけなきゃならない。そうだろう」
そしてゲインは、ロアの手元に短剣を投げてよこす。慣れ親しんだはずの冷たい重み。だが、今のロアにはひどく忌まわしく感じられる。
「剣を取れ」
そんなロアに、ゲインは冷たく命じる。
「奴を殺すんだ。今のあんたならわけもないはずだぜ、ロア。昨晩のことで、改めて獣人の何たるかを思い出したはずだ。かつてあんたを襲い、犯した獣人どもの忌まわしい本能を、嫌でも思い出したはずだ。そうだろ?」
「……」
ゲインの言葉は、ある意味正しい。
昨晩の一件は、確かに過去の記憶を呼び覚ましはした。が、同時にロアは、ただの獣欲とは違う何かをリクとの性交に感じ取っていた。
行為の最中、リクは何度もロアの身体を気遣った。支配者を装いながら、その実、終始ロアの反応に気を払っていた。無理に身体を開くことはせず、不器用ながらも丁寧な愛撫でじっくりとロアを開いてくれた。
ただ獣がする性交とは何かが本質的に異なっていた。
その何かを、ロアは美しいと感じた。
「……やめる」
「は?」
「もう、獣人殺しはやめる。……俺にはあいつを殺せない。絶対に」
そしてロアは、手元の剣をそっとサイドテーブルに置く。その、木製のテーブルが立てる乾いた音に、ロアは、自分の中で張りつめていた何かがふつりと切れた気がした。
獣人は憎い。それは今も変わらない。
だが、憎しみだけに囚われる生き方も、それはそれで虚しい気がする。リクがそうだったように、憎しみを抱えながらも誰かを愛し、慈しむことはできる。そんな生き方も、この世界には確かに存在するのだ。
それを、ほかならぬリクが教えてくれた――
「……ふざけるな」
低い、竜の唸りを思わせる呻きが聞こえた、と思った次の瞬間には、もうロアの身体はベッドに押しつけられていた。
見ると、ゲインがロアに馬乗りになっている。そのままゲインは両手をロアの喉首にかけると、強烈な握力でぎりぎりと絞め上げてきた。
「そんなにあの獣人のアレが良かったのかよ、この……雌犬ッッ!」
「ぐ……ぅ、」
喉に深々と刺さる親指が、正常な呼吸の阻害する。どうにか引き剥がそうとゲインの腕を掴むも、屈強な男の体重が乗った腕は微動だにしない。
「そういうことなら……いいぜ、望み通りにしてやる。四肢を切り落として、飢えた獣人どもの集落に放り込んでやる! 大好きな獣人どもに輪姦されながら浅ましく死ね!」
そしてゲインは、一方の手を腰の剣へと伸ばす。その、片手が離れてわずかに首の縛めが緩んだ瞬間を、ロアの戦士としての本能は見逃さなかった。
「っあア!」
渾身の力をこめてゲインの胸板を突き上げる。瞬間、わずかにゲインの腰が浮き、縛めを解かれたロアはすかさず身を捩ってベッドを離れる。
「ロア、貴様っ!」
咄嗟に体勢を整えたゲインがふたたび飛びかかってくる。それを間一髪で捌くと、ロアはベッドの上で丸くなったシーツを素早く掴み取った。そのままシーツを身体に巻きつけると、裸足のまま窓から階下の表通りへと飛び出した。
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