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いつからだっただろう。
生きることに、憎しみ以外の理由を求めはじめたのは。
昔は、ただ獣人を憎んでいればそれでよかった。獣人を憎み、屠りさえすればそれだけで満たされた。他には何も要らなかった。友人も、恋人も、家族さえ必要なかった。そんな己の生き方に理解など誰にも求めなかった。ただ、獣人を屠る一振りの刃として生きられたならそれだけで満足だった。
なのに。
「……くそっ!」
人けの少ない路地裏を、裸足のままひた走る。昨晩の疲労が残る足は今にも砕けそうで、この全力疾走もいつまで保つか分からない。それでも背後からは、なおもゲインが追ってきている。わざわざ振り返らずとも、首筋にへばりつく冷たい殺意がそれを教えていた。
ゲインは本気だ。おそらくは本気でロアを殺すつもりでいる。
なぜゲインが、これほどの殺意をロアに抱くのか、ロアには全く見当がつかない。むしろロアが獣人殺しの看板を下ろせば、あの男が国内一の獣人殺しになる。それは、歓迎すべきことではないのか。
分からない。
あの男は、俺に何を求めているのだ。
だが、理由はともかく距離は確実に詰まっている。獣人の討伐数はともかく、純粋な身体能力で言えば五分と五分。まして、昨晩の疲労を残す今のロアではまず太刀打ちができない。追いつかれるのは時間の問題だ。
どうする。腹を括って一騎打ちを挑むか。
だが、その一騎打ちを挑むための武器がそもそもない。武器の類は全て秋風亭に置いてきてしまったからだ。あの時はゲインから逃げるのに一杯一杯で、剣を手にする余裕などなかった。
このまま、殺されるしかないのか――
――好き。
ああ。なぜ今、あの男の声を思い出す。
リク――家族を奪った仇を、こともあろうに愛してしまった哀しい獣人。その獣人を、きっと、ロアは愛していたのだ。自分でも気付かない間に、あの哀しい獣人を愛していた。口ではリクを厭い、時に殺すとさえ告げても。
そうしてロア自身も気付かない間に押さえ込んでいた想いが、この期に及んで馬鹿馬鹿しいほど溢れ出てくる。
「……リク」
逢いたい。
お前に逢いたい。
助けてほしいなどとは言わない。ただ、最後に一目、ほんの一瞬すれ違うだけでいい。すでにこの町を立ち去っているのかもしれない。が、最期に一つ何かを願うなら、そう、リクに逢いたい。逢って、その無駄に大きな身体を抱きしめたい。
「リクううッ!」
届くはずのない声を、路地裏の狭い青空めがけて叫ぶ。
「リクッッ! 俺もッ、お前が好きだ、リク――」
その時だ。不意に何かがロアの足をけつまずかせる。立て直そうとたたらを踏むも虚しく、そのままロアはがらくたが散らばる路面に叩きつけられた。
「……っ、」
全身を強い痛みが襲う。特に、がらくたに打ち付けた脇腹の痛みは深刻だった。身じろぎどころか息を吸うたびに身体に激痛が走る。この痛みは確実に骨を痛めている。折れてこそいないが、確実にヒビは入っているだろう。
じゃり。じゃり。
うずくまり、脇腹を押さえながら苦吟するロアに、あの男の足音が悠然と近づいてくる。
「これ以上、俺のロア=リベルガを穢させはしない」
「……は……?」
一体、今度は何を言い出すのだ――そう、疑念を込めて顔を上げると、そこには、物でも見るような目でロアを見下ろすゲインの氷の双眸があった。
「お前は雌犬だ。獣人に嬉々として股を開く忌まわしい雌犬だ。――断じて、俺が憧れた最強の獣人殺し、ロア=リベルガではない」
それは、ゲインが自らに言い聞かすような口調だった。
その言葉に、ようやくロアは理解する。おそらくゲインは憧れていたのだろう。かつての、リクに出逢う以前のロアに――確かに、あの頃のロアは強かっただろう。ただ憎悪のみを胸に、獣人を斬り伏せるためだけに生きる一振りの刃。それが当時のロアの在り方だったから。
だが今、ロアは知ってしまった。誰かを想い、そして誰かに想われる幸福を。その包み込むようなぬくもりを。それは、しかし結果的にロアの在り方を曇らせた。リクと出会って以来、ロアは女と子供の獣人を狙うことをやめた。心のどこかで、リクの心を傷つけてしまうのを恐れていたのだろう。
が、それでもロアは構わなかった。
たとえ刃先が曇ろうとも、そのぬくもりだけは決して手放したくなかった。
その選択を、ロアは今、一切悔いていない。むしろ最後に人らしいぬくもりを抱きながら死ねることが、今は嬉しくてたまらなかった。
ふ、と笑みが零れる。ああ。俺はもう、満足だ――
「やってくれ」
刹那、ゲインの端正な顔が醜悪に崩れる。嫉妬と憎悪。嘆きと悔恨。相手をただの雌犬と見做すなら、こんな表情は浮かべはしないはずだ。
そうか、この男もきっと、この男なりに愛してくれていたのだな。
「ああ……やってやる。殺してやるッッ!」
そしてゲインは、腰の長剣をさっと抜き放った――
それは一瞬の出来事だった。
一陣の金色の風が目の前を過ぎ去ったかと思うと、次の瞬間には、もうゲインの身体は骨を砕く音とともに路地裏の壁に叩きつけられていた。
「……は?」
そのままゲインは、襤褸切れのようにずるすると地面に崩れ落ちる。今の衝撃で気を失うかしたらしい。辛うじて手足が痙攣しているところを見ると、一応、生きてはいるのだろう。
それにしても、かつて掃討部隊でも秀才と謳われたあの男が、こうもあっさりと……
「ロア」
茫然となるロアの耳に、聞き覚えのある声が届く。
まさか、と顔を戻す。いつしか目の前に、今となっては見慣れた男が立っていた。肩を流れる金色の髪。夕日よりもなお赤い紅蓮の瞳――
「い……今のは、お前か、リク」
「うん。あいつ珍しく隙だらけだったから、こう、」
そしてリクは、右足で何かを蹴る真似をする。その顔は、手伝いの成果を親に自慢する子供そのもので、昨晩の大人びた表情が今は嘘のようだった。
いや、そんなことより……
「どうして、ここが」
するとリクは、心底不思議そうに顔を傾げる。
「だって、呼んだよね、俺のこと」
「え……」
聞こえていたのか、あの声が――ということは、まさか。
「俺のこと、好きって言ってくれた」
「……っ、」
覚えずロアは息を呑む。やはり、そこも聞こえていたのか――
だが、心底嬉しそうに頬を緩めるリクに、それ以上ロアは何も言えなくなる。その気になればリクの耳が潰れるほどの苦言を垂れることもできるだろう。が、不思議と今はそうする気になれなかった。ただ目の前にリクがいる。その事実だけが今は何よりも嬉しい。
まさか、獣人相手にこんな感情を抱く日が来るなんて。
逢いたかった。触れたかった。人でも獣の姿でもどちらでもいい。ただ、いついかなる時もロアの傍にあったその姿が、いつしかロアの人生に欠けてはならない何かと化していた。
それはリクも同様なのだろう。今のリクの、優しく緩む笑みを見れば一目瞭然だ……
だが。
ロアのひねくれた口は、本心に反してやはり苦言を垂れてしまう。痛む身体をどうにか起こすと、いつもの詰問口調で問うた。
「で、どこに行っていたんだお前。また例の女のところか」
すると今度は、途端にリクは泣きそうな顔をする。ころころと変わる表情は、本当にただの子供だ。
「えっ? ち、違うよ! 一人で町を出たくて、でも、門番の人に引き止められるのが怖くて、その、ずっと、困ってた。そうしたら、風に乗ってロアの声がして、気付くと、ここに来ていて……」
「……気付くと、か」
ロアが最初にリクに手を差し伸べた時もそうだった。気付くとロアはそうしていた。あれはきっと、ロアも知らないロアの感情が強いたものだったのだろう。復讐以外の存在理由――愛すべき何かを求める衝動が。
「なぁ、リク」
「は、はいっ!」
「何だよ、急に改まって……まぁいいか。どのみち重要な話ではあるんだがな」
「はい――えっ、重要?」
そしてリクは、なぜか怯えた顔をする。あるいはロアに捨てられるものと勘違いしたのだろう。が――
「ああ。詳細は省くが、昨日限りで俺は獣人殺しやめることにした」
「はいっ、――え?」
あまりにも予想外の言葉だったのだろう、皿のようにルビーの目を丸くするリクに、ロアは小さく苦笑する。
「そこまで驚くことじゃあないだろ。ともかく、今日から新しい仕事を探すことにした。正直、一人じゃどうにも知恵が出なくて困っていたんだ」
そしてロアは、握手のための手を差し出す。情けから差し出す強者の手ではなく、友、あるいはそれ以上の何かとの絆を求める手。
もう一度、お前と二人で。
「手伝ってくれるか」
「うん!」
両手でロアの手を掴み、ぶんぶんと、ちぎれるかと思うほどの勢いで振るリク。普段は暑苦しいリクのそんな反応が、今は不思議と愛おしい。が――
「俺、手伝い頑張るっ! ロアのために、いっぱい、頑張るっっ!」
「や、やめろっ、う、腕がっ、ちぎれるっっ……!」
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