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ふたたびロアが目を覚ました時には、窓越しの空はすでに茜色に染まっていた。
せいぜい一眠りで済ませるつもりが、どうやら随分と寝入ってしまったらしい。確かに、今回の旅はひどく骨が折れた。森で武装した獣人の一団を相手取り、その帰りに思いがけずもう一仕事だ。ロアもそろそろ三十歳。さすがに全盛期と同じ働きは望むべくもない。
今夜はのんびりスパにでも漬かって疲れを落とすか――
そんなことをぼんやりと考えながら身を起こす。
ふと視界の隅に違和感を覚えて、何とはなしに振り返る。二つあるベッドのもう一方に、見覚えのある長身が――行方不明になっていたはずのリクが堂々と突っ伏していた。
「……は?」
一体、いつの間に……?
とりあえずベッドを降りて立ち上がる。ロアの鼻腔を、嗅ぎ慣れない臭いが襲ったのはそんな時だ。臭いは、明らかにリクの身体から漂ってくる。甘い、しかし果実や花のそれとは違う、もっと淫靡なこれは――
「起きろ」
リクの脇腹を蹴りつける。リクは、しかし痛がるでも驚くでもなく悠然と瞼を開くと、ロアの姿を認めるなり嬉しそうに微笑んだ。分厚い筋肉に覆われた今のリクに言わせれば、今の蹴りも虫が止まったようなものだったのだろう。
「ああ、おはよ、ロア」
「……お前……今までどこで何をしてた」
「どこって……女の人のとこ……」
女――その言葉に、ロアは改めて息を呑む。
やはりそうだ。これは白粉、女が使う化粧品の臭いだ。そして、無精者のリクがこんな洒落た臭いを身に纏っている理由は一つ――
「ロアを待っていたら、綺麗な女の人が俺に話しかけてきてね、俺と一緒にお昼寝がしたいって言うんだ。それでね……」
「……それで?」
「うん……お昼寝はしなかったんだけど、裸になって、いろんなことして……すごく、気持ちよかった」
打ち明けるリクの表情に罪悪感は微塵もない。それが、神の教えに反する悍ましい行為だとは知る由もないのだろう。
そもそも、その行為自体ロアは何一つ教えていない。何せリクはほんの子供で、少なくとも、出会った三年前はそうだった。当時のリクはロアの腰に頭が届くか届かないかの幼子で、小さな足でよたよたとロアの背中を追いかけるのが精一杯だった。
そのリクが、もう、女を知っている……
「ロアも、する?」
「……は?」
「俺、ずっとロアのこと考えてた。こんなふうにロアのこと、気持ちよくできたらいいな……って」
「お……俺のこと、考えながら……してた、のか」
「うん」
――お前は俺のものだ。
喉元に酸っぱいものがこみ上げる。疼きはじめる太腿の古傷。それらの不快感を必死に押し戻しながら、ロアは腰の剣に手を伸ばす。
ああ、俺が何もかも間違っていた。
やはり、この獣はあの村で始末しておくべきだったのだ。獣人なら子供すらも平気で殺戮した当時のロアが唯一犯した失態。その尻拭いを、今の今まで何となく先延ばしにしてきたツケがこれだ。
このまま、この男を放置すればまた……だから殺す。今、ここで。
「!?」
刹那、リクの顔がさっと強張る。さすがに今の殺意には気づいたか――と思いきや、べッドから跳ね起きたリクが目を向けたのは、ロアではなく部屋の扉だった。と、ほぼ時を同じくして扉が開け放たれ、一人の男が部屋に飛び込んでくる。
現れたのは、リクにも劣らない長身の男だった。急所が集中する胴体のみを軽い革鎧で覆い、腰には大小の剣。典型的なご同業の恰好だ。しかも、その端正だが冷たい印象の顔立ちと、邪竜の鱗を思わせる漆黒の髪には確かに見覚えがある。
「……ゲイン」
「久しぶりだな、ロア。十年ぶりか?」
「誰だ、お前」
答えたのはロアではなく、リクだった。そのリクはすでにベッドを降り、ゲインを前に油断なく身構えている。
「ここ、ロアの部屋。お前、何しに来た」
「そういうお前こそ、あのロアの部屋でいぎたなく寛いでいるとは随分と命知らずな獣人もいたものだな」
そしてゲインは、切れ長の目をすいと細める。捕食者が獲物をいたぶるにも似た酷薄な眼差しに、傍らで見守るロアさえ背筋が寒くなる。
――獣人。
全員とは言わないが、獣人の多くは人化の術を心得ている。特にリクは、ロアと一緒に町に入るために他の獣人にも増して人化の術を鍛錬している。まず獣人は町に入れないし、よしんば入ることができても途中で術が解ければすぐに追い出されてしまうからだ。
そのリクの人化の術がものの初見で見破られた。
やはり、同業の目は誤魔化せるものではないらしい。ましてやその同業が、かつて王立の掃討部隊で五指に入るほどの精鋭と讃えられた男なら。
そんな男の漆黒の瞳が、不意にロアを捉える。
「あんたが、獣人を連れているという噂は本当だったんだな」
その言葉にロアは不覚にも息を呑む。何か、見られてはならないものを見透かされているような、そんな居心地の悪さをロアは抱いた。
「つ……連れてなんかいない。こいつが、勝手に俺をつけ回しているだけだ」
「くだらん弁明はよせよ、ロア。仮にそれが事実だとして、あんたはこいつを斬りもせずにただ捨て置いている。そうだろう」
「日和った、とでも言いたいのか」
「さぁね。所詮は二流の俺に、伝説の獣人殺し様のお気持ちなんざ永遠に分かりっこないさ」
肩を竦めると、ゲインは部屋に一つだけある椅子にどさりと腰を下ろす。その目はロアを見つめながら、同時にリクの動向にも抜け目なく気を払っている。不用心に飛びかかれば最後、斬られるのはリクの方だろう。
「……で、その日和った俺に今更何の用だ」
「ああ。ちょうど今、軍からとある獣人の村を潰してくれと依頼を受けていてな。ただ、いかんせん大きな村で、俺一人じゃどうしても持て余してしまう。かといって、有象無象を掻き集めたところで何の戦力の足しにもなりゃしない。で、さっき出張所に顔を出して、腕のいい獣人殺しが町に立ち寄っていないか訊いたところ、窓口の兵士の口から偶然あんたの名前が出てきたってわけさ。ついでに行きつけの宿屋の名前もな」
「つまり、お前に協力しろと? その村を潰すために?」
「ああ。軍の協力も得られるから使える武器や物資は無制限。報酬もたっぷりだ。どうだ、受けない理由はないだろう?」
「……村の人員構成は?」
「人員……ああ、その点もぬかりなく。雄の獣人が五十七匹、雌が五十五匹、うちガキが六十匹前後ってとこか」
「六十? は……半分以上は子供じゃないか」
「ああ。だから仕事自体はさほど難しいもんじゃない。ただ、いかんせん数ばかり無駄に多くて参っているのさ。この規模の集落を一気に片づけられる獣人殺しは、国内でも数えるほどしかいない」
「……」
ロアの脳裏を、ふと、古い記憶がよぎる。燃え落ちた村。充満する肉と脂の焦げる臭い。どこからともなく聞こえる子供のすすり泣く声……
「そいつは……ただの村だ」
「は?」
「ただの村だと言っている。獣人の家族が寄り添って暮らしているだけの……俺はもう、その手の村には手を出さないことにしている。狙うのは若い雄の集落だけだ。あれは放っておくとろくなことがないからな。だが、今回のは、」
「本気で言っているのか?」
刹那、ゲインの双眸が強い怒りの色を帯びる。黒い、光のないその目はしかし、燃えるような怒気に反して冷たく、見る者の心を凍りつかせる。
「昔のあんたなら、そんな言葉はありえなかった……そうだ、獣人と見るや雌もガキも構わず殺し回っていたあの頃のあんたなら」
「――っ、」
覚えずロアは息を呑む。
やめろ。リクの前で、その話だけは。
「なぁ、あの頃のあんたはどこに消えた? 憎悪だけを胸に、ただ一振りの刃として獣人どもを蹴散らしていたあんたは、」
「やめ――」
「ロアをいじめるな!」
怒号とともに、ロアの背後から金色の風が飛び出してくる。風は一直線に、招かれざる客人へと猛突する。彼我の技量の差すら顧みない、ただ己の怒りを叩きつけるかのような突撃。
そんなリクに、しかしゲインは待ち構えていたように椅子を蹴ると、逆に、リクの喉元へと飛び込んでゆく。結果は明白。一瞬後には血飛沫とともにリクの死体が床に転がるだろう。
その切っ先がリクの喉を掻き切る刹那。
ロアの渾身の一蹴が、リクを部屋の隅へと弾き飛ばす。
「――っ!?」
危うくロアを斬りかけたゲインが、咄嗟に身体ごと剣を引く。そのまま部屋の反対側に飛び退ると、ふたたび剣を構え直した。
「い、いたいよう。ロアぁ……」
ロアの背後で、壁に叩き付けられたリクが涙声で呻く。さすがに今度の蹴りは効いたのだろう。が、ロアが彼を蹴り飛ばさなければ、そもそも痛いどころでは済んでいない。
そのロアは、腰の剣に手を添えたまま目の前の賓客を睨み据える。
「……そうか」
やがてゲインは殺意を解くと、何事もなかったように剣を収めた。
「あの頃のあんたは、もう、どこにもいないんだな」
呟くと、ゲインは外套を翻しつつ窓へと向かう。そのまま桟に乗り上がると、早くも星が瞬き始めた窓の向こうへ音もなく消えていった。
――もう、どこにもいないんだな。
何故だろう。ゲインの最後の言葉は、なぜか深い悲しみを帯びているようにロアには聞こえた。まるで、亡くした恋人を悼むかのような……
「どうした!?」
階下から、忙しない足音とともにカミラの声がする。ほどなく、開け放たれたままの戸口から声の主が飛び込んできた。
「な、何だったんだ、さっきの音!?」
「ああ、すまない……ちょっとばかしリクに制裁をな」
「制裁?」
「ああ」
頷いてから、そういえば先程まで制裁どころかリクを殺すつもりだったことを今更のように思い出す。が、突然のゲインの訪問ですっかりその気も失せてしまった。
まぁいい。今日のところは……だが、いずれ。
「リク」
振り返る。相変わらずリクは呆けた顔を晒している。そんなリクに、冷ややかにロアは告げる。
「今度、人間の女とそんな真似をしてみろ。その時こそお前を殺す」
「えっ? う、うん……」
曖昧に頷くと、リクはのそりと身を起こした。男のロアでさえ見上げるほどの長身。筋肉質の引き締まった身体。何より神像を思わせる美しい顔立ちは、改めて見ると、これで女に求められないわけがない。
……吐き気がする。
「ロアは、俺がほかの人と気持ちよくなるの、駄目か?」
「駄目だ」
言い捨て、ドアに足を向ける。戸口ではカミラが、心配顔で二人のやり取りを見守っていた。
「心配かけてすまなかった。カミラ。詫びと言っちゃ何だが、下の連中に一杯奢らせてくれないか。さいわい今日は懐も温かいしな――お前も来い、リク。下の奴らに謝ったら夕飯だ」
「えっ……う、うん!」
頷くと、弾かれたようにリクは駆け寄ってきた。これまでと変わらない、親に縋る子供の顔で。
そんなリクは、しかし、もう――
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