1 1998年

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1 1998年

 暗視カメラで撮影された映像を見ながら、小川警部はじっと考えていた。本当にこいつは。  深夜二時の雑居ビルでの立てこもりに対する突入作戦。立てこもり犯役は、ベテラン警官で、突入側は新人たちだ。確かに今年の新人はなかなか出来がいいとはいえ、指揮するリーダーが良いとも言える。ベテラン警官と互角を張るような手際の良さと冷静さ。こいつを研修に出したのは間違いだったかもしれないな。  小川はビデオを停止させると、書類を眺め、それに何と書くか頭を抱えた。  ビデオの中の男はここ数年で幼さが消え、ますます精悍になってきている。  元々父親のメスチーソの血がある分、少々小柄ではあるが、骨のある体をしている。しかし、母親が日本人なので、筋肉はつきにくいらしく、見た目は華奢である。その細い男がマシンガンを正確に撃ち、五階建てのビルの非常階段を一気に駆け上がって息も乱れさせない。意外だ。  いや、意外ではない。小川は息をつく。こいつはコロンビアの内戦孤児だ。しかも五歳で日本人の母とコロンビア人の父を亡くしてからは、ゲリラ兵として十年もの経験を積んで来た。内戦が終わり、コロンビアを出国してからも、どうやら世界各地を転々とし、日本で逮捕された。彼にとって幸いだったのは、その時点でさえまだ未成年だったこと。それから日本とコロンビアの間に犯罪人引き渡し協定が結ばれていなかったことだ。  コロンビアでは一級戦犯として指名手配され、かの地ではともすれば死刑の可能性だって高かった。それが日本で捕まったことで命がつながった。  その後、紆余曲折を経て、小川の部下となってようやく四年。まだ二十三だが、戦闘経験だけならベテランだ。しかも内戦当時は否応なく毎日が命をかけた戦いだった。覚悟はピカイチで、おそらくたいていの危機には動じないだろう。  書類は、その河瀬達哉を二度目の米軍の研修に出すかどうかを小川に聞いている。小川は一ヶ月前に最初の書類に許可の判を押し、このコピーを残して原本を上司に提出した。小川は反対だったのだが、上司がそれを望み、達哉本人もそれを望んだ。それもまた当然で、彼は三年間、この施設からほとんど出たことがなかった。小川が禁止したからである。  内戦中に暴れ放題だった戦争孤児を、平和な日本に放流なんてしたくなかったのだ。少なくとも、ここなら常に戦闘待機状態である。だからこの施設内で置いておくのが一番だと思ったのだ。  三年間、達哉はこの狭い世界でじっと我慢していた。それが小川への忠誠心と思えるほど、小川は人情的ではなかった。だが、達哉が脱走しなかったのは、小川にとっても驚きだった。何度もチャンスはあったからである。十代の頃から生意気で、人をあざ笑うことにかけては天才的な才能を持つ奴としては、その気がなくても脱走を試みても良さそうだった。  とにかく米軍研修という最初の試みで河瀬達哉は十分な成績をあげた。優秀過ぎて、ちょっと貸してほしい、という依頼がまた来てしまった。それが小川の頭痛の種だった。河瀬達哉をあまり外に出したくないというのは、彼の上司では小川ぐらいなもので、他はみんな「もういいだろう」と思っているのだ。  ノックがあって、張本人の河瀬達哉が入ってきた。小川は彼を見て、ファイルを閉じた。相変わらず上司のオフィスに来るのに、Tシャツと制服のスラックスという格好だ。  今日の早朝の突入訓練から、反省会と次の計画のブリーフィング、その合間に小川の課した一連の日課をこなしてきたはずだが、それほど疲れた顔もしてなかった。それは勝ち気な性格のせいでもあったし、たぶん本当に疲れてもいないのだろう。
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