明朝

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明朝

朝が早くても、暑いものは暑い。 佐竹はマンションの管理人が貼った不審者情報の前に立ち、思わず顔をしかめる。のっぺらぼうの人物イラストが、恨めしく自分を睨み付けているようにも見えるし、めそめそ泣いているようにも見えた。 「佐竹さん、入らないんですか」 叩き起こされてきたのだろう、山岡が目をしょぼしょぼさせながら歩み寄ってきた。入ってきたばかりの頃はまだまだ小僧だと思っていたが、付き合いの長い今になってもまだまだ小僧に見える。呆れ半分可愛さ半分で、その背中を強く叩いて、階段を上がる。 足取りは重たかった。こんな早朝だから、ではない。 「月に二回も殺しがあっちゃ、ここの大家も具合が悪くなるってもんだ」 先に来ていた警察官によると、大家はこちらに顔を出したくないと駄々をこねて聞かない為に、こちらから二人出向いて話を聞いているのだと言う。しかしここの大家は離れた一軒家に暮らしているので、聞くべき話なんてほとんどないだろう。 二人が向かった先には、警官が二人。佐竹と山岡に気がつくと会釈をして、ヘアキャップや手袋などを渡してくれた。佐竹と山岡は素直に受け取り、今から手術でもするのかというような格好で、半開きのドアから滑り込んだ。 「うっわ、蒸し暑い」 佐竹がうんざりした声を出してしまうくらいに、部屋の中は湿度が高かった。よく見ると床が若干湿っているではないか。それは血痕だけではなく、明らかに別の水分が加わっていた。 「俺達はここから入らない方がいいかな」 現場を踏み荒らしてはならない。刑事の基本である。元からいた警官も濡れた床の手前で踏み留まっていたので、恐らくここからは立ち入り禁止にされてしまったのだろう。 警官が、数枚の写真を見せてくれた。 「キッチンで揉めた形跡があったそうです。タオルで首を絞められた跡がありますが、それだけでなく、背中を二回、胸部を四回、首を一回刺しています。どちらが先かはまた鑑識から来ると思いますが、死体の様子だと首を絞めたのが先と考えるのが妥当かと」 凶器や死体や現場の写真が、紙芝居のようにぺらぺらと見せられる。佐竹も山岡も鼻の頭に皺を寄せて、口元を歪めた。 「惨たらしいねぇ…血生臭くて仕方ない」 「人間のすることじゃありません」 山岡は侮蔑と嫌悪を込めて吐き捨てた。 佐竹は刑事としての長年の勘で、こいつは怪しいと、それなりに感じていたのだ。しかし勘だけで逮捕などできるはずもない。野放しにしていてはいけないと本能が疼く中で、なんとか尻尾を掴めないかと、奴の友人に近付いて話を聞いてみたりもしたのだ。 思わず舌打ちが飛ぶ。 「事件が起きてからじゃねぇと、俺らは役に立ちゃしねぇなぁ」 こんな老いぼれの嘆きも、ゆらり蜃気楼に揺れて、血の池に溶けていくだけである。 加害者も被害者も関係者でも、いろんな人間を見てきた。目は口ほどにものを言う、なんてよく言ったもので、奴のあの双眸を目の当たりにした瞬間、佐竹の背中には悪寒が走った。これを第六感と呼ぶのか、それともただの後付けなのか。 「あいつは、いつかやる奴でしたよ」 悔しそうにつぶやく山岡の声を聞いて、佐竹は笑う。鈍い山岡にまで気付かれるくらいなのだから、第六感も長年の勘も関係はないのだろう。 警官が顔を強張らせた。 「出頭のこと、聞かれましたか?」 「ああ、ここ来る前に署で。殺してからちょっとして、自分から通報してきたんだろう?」 「出頭の理由についてはまだ聞かれていませんか?」 山岡と佐竹が揃って片眉を上げたものだから、聞いてないと彼にも十分伝わったのだろう。ぐっと顔を寄せて、声を低めた。 「死体を片付けるのが大変だから手伝ってほしい、て言ったそうですよ」 まるで怪談でも語るような口調に、山岡は気前よく震え上がり、佐竹はずいぶん冷ややかな目を向けた。 開けっ放しになっているリビングのドアの向こうに、空き缶が二つ並んでいる。嫌な気分である。あれは佐竹と山岡が話を聞く為に部屋に上がり込み、ご馳走になったものである。来客の後、図々しく佐竹達が居座っていれば、この事件は起きなかった。しかしあの時、居座る理由も彼を引き留める言い訳もなかった。 嫌な気分である。 友人の彼は、恐らく友の不穏な影には気がついていたはずだ。直接的な疑いを口から出すことはなかったが、顔つきといい、声音といい、友を恐れていた。それでも佐竹達を頼らずに、一人で友を監視して、それでも尚一人でこの部屋に出向いたのは何故だろうか。 警官が最後の二枚の写真を見せる。履歴書か何かの写真だろうか。佐竹が直接見た顔より、二人とも幼く見える。 嫌な気分である。 「取り調べ、俺らも参加できると思うか?」 「佐竹さんは犯人より俺ら身内を脅す方が上手いじゃないですか」 「そうだよな。信頼関係の賜物だよな」 生意気な山岡にデコピンをしてから、現場を後にした。掲示板の不審者情報のポスターを雑に破り、マンションを離れたのに、佐竹の鼻先にはしつこい血生臭さがまとわりついていた。 得意の脅しを使って、取り調べ室にひょっこり顔だけ出す権利を得た。 ドアを開けて目が合うなり、またぞっと悪寒が走る。やはり彼は"普通ではない"のだ。もちろん人を殺した時点で普通ではないのだが、そんなことよりもっと深い部分に、もっと恐ろしい性分を隠していそうである。 佐竹は笑顔を貼り付けて、手を挙げる。 「なんだかお久しぶりな気がしますな、峰直哉さん。私のこと覚えておられますか」 「はぁ」 自宅での態度と何も変わらない、気の抜けた返事。こんな緊迫した取り調べ室では、緊張で強張るのが普通なのだが、彼は最初に会った時から今まで、本当に変わらない。 友人を殺す前と後で、変わらないのだ。 青山卓也の事件の後、粟村亮介が警察を訪ねてきた。内容は突拍子もないもので、事件の起きたマンションに住む友人が犯人かもしれない、というものだった。根拠はない。ただ日頃から、友人がサイコパスに分類する危険人物なのではないかと、疑いを持っていたのだそうだ。 進展しない事件報道に苛立ちを覚えたのか、警察に失望したのか、粟村は一人で峰を訪ねた。そして、峰に無惨に殺された。 峰の目の前には別の刑事が座っているので、佐竹はその背後に立って腕を組んだ。 「で、単刀直入に聞きますが、その…何で粟村さんを?確か、ご友人でしたよね?」 顔色を窺うつもりもないので覗きはしないが、後頭部しか見えないこの刑事は嫌な顔をしているに違いない。 峰は顔色ひとつ変えず、すんなり答えた。 「未経験の事に対して、やってみたい、経験したい、というのは、人間としては立派な向上心ではないですか?」 「それが動機ですか?」 「動機、と言うほどのものでもありませんが…人を殺すって、どうしても片付けが面倒じゃないですか。だから今までチャレンジはしたことなかったんですが、ふと思い付いて…自宅の風呂場やその近辺なら、血を流せるし、案外できるかもしれない、と。幸い、自炊もするので凶器を新しく買いに行く手間もないし」 顔をしかめずにはいられない。 峰は心底残念そうな顔をした。 「でも、そもそも死体を運び込めなくて」 「……そうですか」 ここに山岡がいたら、腹を立てて怒鳴っていたかもしれない。人の命を何だと思ってるだとか、反省しろだとか。しかし佐竹ほど経験年数を経てしまうと、激昂する気力もなくなるのだ。峰のようなタイプには、こちらが熱を持って接したところで何の効果もない、というのもある。 「…粟村さんは、あなたがサイコパスじゃないかと、青山卓也さんを殺害したのはあなたではないかと、心配して我々に自ら接触してきました。青山さんの件は別に犯人の目星がついたので疑っていませんが、あなたの今の考え方が法治国家に不適合であることは、否めません」 なるべく感情を込めずに、きっぱりとした口調で言った。それでも彼は表情ひとつ変えないで、はぁ、と力なく頷くのだろうと思っていたが、予想外に目を見開いて大胆な驚きを見せた。 「それは心外です。僕に殺されたお陰で、粟村の思考は無罪放免ですか」 「は?」 「僕がサイコパスだって言うんなら、そんな奴と親しくしていたあいつも怪しいものです。実際、僕はあいつをそうだと思っていましたし、あいつはあいつで、僕の疑いに気付いていたはずです」 きらり、峰の瞳に鋭い光が見えた。無表情なままなのに、その光だけで、不適な笑みを浮かべているように錯覚する。 「青山卓也さんの件、本当にその人が犯人なですか?僕に殺されるまでが、粟村の計画だったんじゃないですか?」 目眩がした。 峰の一言で、佐竹の世界が変わった。恐らく佐竹だけではない。こっそりこちらを覗く彼らも、後頭部しか見えない彼も、記録をつけている背後の彼も、みんな、自分達が自分達の意思で歩んできた道や世界を疑い始めたに違いなかった。 目の前にいる、峰直哉は何者なのだ。 無惨に殺された粟村亮介は何をしたのだ。 青山卓也を殺したのは誰だ。 佐竹達が立つこの場所は、一体、誰の掌の上なのだ。 事件は幕を下ろしたと思っていたのに、全てが振り出しに戻った気がした。
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