疑惑。

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疑惑。

『サイコパス』なんて言葉が当たり前に通じるようになったのは、いつ頃からなんだろうか。僕が生まれる前だろうか、後だろうか。ヒッチコック監督の映画がきっかけだろうか、それとも比較的最近起きた猟奇的な事件がきっかけだろうか。古来からその存在は認められていたのだろうか、それとも近頃になって「なんか変な奴がいるぞ」と世間が騒ぎ始めたのだろうか。 僕は近頃、そんなことばかり考える。 というのも、ゲームきっかけで知り合った友人の一人に、彼はもしかしたらサイコパスではないか、という疑惑が生じた為である。 これと言って大きな出来事があったわけではないし、友人として付き合う上で不都合があるわけではないけれど、この問題に対して僕がどのような姿勢でいるべきか。専らこれが僕を唸らせる悩みであった。 腕を組んでじっと俯いている僕の元へ、ふらりふらり足音もなく近づいてくる。初夏のカフェに相応しくない地味な僕に、やぁ、とぎこちなく声をかけてきたのは、淡白な顔立ちに涼しげな微笑みを貼り付けた件の友人「粟村亮介」だ。 「やぁ」 僕も軽く手を挙げて見せると、粟村は鞄も降ろさないでカフェの出口を指した。 「この店暑いから出るね」 「え、でも僕、君が来てからにしようと思って、まだ何も頼んでいないんだよ」 「それがどうかした?」 粟村は微笑みをぴくりとも崩さないで、額にわずかに浮かぶ汗を拭った。僕の意見なんてまともに聞いてもらえたことがないので、渋々従って店を出た。 「どこか行きたいところでもあるの?」 「別に?」 予想通り、彼は平然とそう言った。 暑いからあの店を早く出たかった。彼にとってはただそれだけのこと。いや、僕や世間からしても、たったそれだけのことである。 小さな子供が目の前で転んでも、ひょいと跨いで歩き続ける。 可愛がっていた金魚が死ねば片付けるのを面倒臭がって、「他の奴が食べてくれないかな」なんてぼやく。 ニュースを見ていても興味はない。誰か死んでも誰も死ななくても、彼にとっては全てのニュースが同等らしい。 どこかで大震災が起きても、通常運転。興味はないままだし、同情もないし、募金箱に募金も入れない。 そう、たったそれだけのこと。 たったそれだけのことがあまりにも積み重なるから、僕は、彼がサイコパスではないかと疑わざるを得なかった。 「ざるそば食べたい」 「うん。わかった」 昼食には中途半端な時間だが、言い出したら聞かないので、基本的に僕は従う。店に入り、同じものを注文し、冷えたおしぼりで手を拭く。 そんなに空いていないお腹にざるそばを滑り込ませながら、粟村を見る。 「なに?」 「変なこと聞くけど、粟村って人を殺したいとか思ったことある?」 怪訝な顔をされる覚悟だったが、彼はフッと笑った。 「ないよ」 「ないんだ?」 「大変じゃん。片付けとか」 「…あー」 そっちね、とは口に出さなかった。 僕がそれきり黙ってそばをすすり始めたからか、粟村はケータイに釘付けだった視線をこちらに向けて、峰は?と返してきた。 「峰は殺したいとか思ったことあるの?」 「ない」 「そうだろ」 自分が思わないことを人に聞くなよ、とその目が言っている。 「僕がそんなこと考えるような人間だったら、こうやって粟村とそば食ったりしてないと思う」 「ふぅーん」 ずるずる、ずるずる… 僕らの間に不自然な沈黙が流れた。僕は気持ち悪く思うが、粟村といるとこういった沈黙がよく降りてきた。そして彼は平気そうな様子で気に留めない。 カラリカラリ、昔ながらの風鈴が鳴る。外国人らしい二人が何か喋りながら入ってきて、店の人に出迎えられた。 「うるせぇなぁ」 粟村がつぶやく。僕は外国人に向けていた目を粟村に戻す。彼はまた片手でケータイを操作しながら、器用にそばをすすっていた。 元々顔も知らない同士の僕らだったが、ソシャゲでグループを組んだことをきっかけに知り合った。 七人必要である為、僕と粟村以外にもメンバーはいたのだが、その中でたまたま近くに住んでいるのが僕らだった。居住地が近かっただけでなく、僕と粟村はゲームをクリアする為の考え方が似ていたのである。 自分一人残った形になっても、ゲームがクリアになればそれでいい。 回復アイテムも自分以外には使いたくない。 チームプレーがクリア条件にある場合は仕方ないが、そんな場面は稀である。大抵はボスキャラが倒れた時に誰か一人でも生きていればクリアになる。そうなればチーム全体に報酬アイテムとポイントはもらえるし、犠牲になったところで損はないのだが、たまに言いがかりをつけてくる奴もいた。 『あの時回復アイテムを使ってくれていたら、もっと簡単に倒せたのに』 『ひとりで突っ走るのをやめてほしい』 『ナルシスト野郎。迷惑』 七人集めると、ひとりはそういう奴がいるのだ。僕はイライラしていた。クリアできたんだからいいじゃないか。次のステージにさっさと行きたいのに、メッセージが邪魔をして進めない。 イライラしていたのは僕だけじゃなかった。 「あのおっさん、めっちゃうざかったから運営に通報したんだよね。俺アカウント三つ持ってるんだけど、女のキャラ使ってるアカウントで、あのおっさんにナンパされたことあったから」 言いがかりをきっかけに僕らはなんとなく意気投合して、現実でも会うようになった。粟村はずっとケータイ片手にゲームに勤しみ、いつも僕より忙しそうだった。 「弱い奴って頭も弱いんだよな」 親指でカタカタ画面を叩きながら、彼はうんざりつぶやいた。画面の中では僕の知らないゲームが展開されていて、やけにリアルな絵柄の人間がマシンガンで蜂の巣にされていた。 それから頻繁に会うようにはなったけど、会ったところでやることはゲーム以外になかった。一緒にご飯を食べに出ても特に話題もない。あるわけがない。僕は大学を中退して就職した社会人二十三才で、粟村は今年の春に大学に入ったばかりの十八才。姉がいる僕と、ひとりっ子の粟村では、それぞれの年代の扱い方すら知らなかった。それでも特別な不快感もなくこうして過ごせるということは、僕らは仲良しの部類に入るのではないだろうか。 粟村は実家暮らしなので、食事を済ませた後は大抵僕の家に来た。 「映画好き?」 知り合って一年ほど経つその日に、僕は初めてそんなことを聞いた。集合ポストの中身を確認する僕の後ろでゲームをしながら、粟村はどうでもよさそうに、どちらでも、と答えた。 「僕、今日観たい映画借りてるから、それ観ててもいい?粟村はいつも通りゲームしてればいいよ」 「言われなくても」 請求書と保険の勧誘封書を取ってから、僕と峰は部屋に向かう。八階建てのそれほど大きくないマンションで、僕は三階に住んでいた。狭いエレベーターに乗って、粟村のケータイから流れるゲームのBGMに耳を澄ませる。その音だけで、粟村が軽々とクリアを繰り返していることがわかった。 部屋に入っても、麦茶を出しても、ソファに占領して淡々とゲームをしていた粟村が、DVDを取り出した時だけ顔を上げた。 僕が取り出したのは、ヒッチコック監督の『サイコ』である。今までも何度か観たことのある作品だが、粟村と知り合ってからはまた頻繁に見るようになっていた。特別お気に入りというわけでも、僕の人生に大きな影響を与えたとも思わないが、どういうことか観ずにはいられない時があったのだ。借りた、と僕は言ったけれど、本当はこの時既に購入していたのである。 「なにそれ?」 古くさそうなラベルに、粟村が眉をひそめる。僕は彼にもよく見えるように持ち直して、ヒッチコック監督だよ、と答えた。 「昔の映画なんだけど…ホラー、かな」 「ホラーかぁ」 彼はますます顔を歪めた。もしかして好きじゃないのかもしれないと思い、僕はセットしないまま、彼の次の言葉を待った。 しかしいくら待っていても彼は何も言わずにゲームを続けたので、再生することにした。 クライマックスに差し掛かるまで僕らは会話もなかったのに、エンディングになってから粟村が急に口を開いた。 「こういう、サイコパスを題材にしたような映画とか小説って好きじゃないんだ」 そんな気はしていたけど、まさか観てしまってから、はっきり口に出すとは思っていなかった。 「ホラーやサスペンス自体が好きじゃない?」 「うーん…というか、そんな複雑なこと考えてるわけないじゃん?」 「は?どういうこと?」 「人を殺すって、そんなに複雑なことだとは思えないんだ。家庭環境だとか、生い立ちだとか、心理的ななんちゃらかんちゃらとか、そんな難しいこと考えて殺す犯罪者なんて、いると思う?あまりにもリアリティに欠けてて気になる」 僕はなんて言えばいいのかわからず、唇を内側に巻き込んで、黙り込んでしまった。 粟村は既にゲーム画面に戻り僕の方なんて見ていなかったので、構わず続ける。 「サイコパスとか呼ばれる人って、もっとシンプルだと思うんだよね。猫が動くものに反応して手を出すとか、叩かれそうになって咄嗟に身を庇うとか、そういうことだと思う。理由も動機も全部周りの人間の勝手な後付けに思えるし。語れば語るほど、こうやってサイコパスを全面に押し出せば押し出すほど、ちんけに見えるというか、安っぽいし嘘臭い」 ピコン、とミニゲームをクリアした音が響く。さして嬉しそうな顔もしないで彼はアイテムを受け取り、ごろりとソファに寝そべった。 映画や小説に出てくるサイコパスにリアリティを求める人が、どれだけいるのだろう。サイコパスはこうあるべきだ、サイコパスと言うには余りにもこうだ、と批評する人間は、自分達の中で確立したサイコパスというキャラクターの理想像を求めているだけであって、恐らくサイコパスそのもののリアリティを求めてなどいない。 だって、みんなは知らないだろう。本物のサイコパスがどんなものかなんて。 サイコパス本人以外は。 僕がじっと見つめすぎたからか、粟村もふいに僕を見て、また顔をしかめた。 「DVD、終わってるけど」 「あ、ああ…ほんとだ」 DVDをデッキから取り出す。機器を操作してケースに納めながら、例えば今この瞬間、背後で粟村がナイフを振り上げていたって、僕には自分を守る術はないわけだ。 振り返ると、彼は相変わらずゲームに勤しんでいた。 正体のわからない恐怖や不安に晒されながらも、僕はこうして粟村と友人関係を続けている。そう思っているのは僕だけで、彼からすればもしかしたら捕食関係かもしれないけれど、その可能性さえ考慮した上で、僕は現実で彼と待ち合わせをして空間を共にするのだ。 表向きは魅惑的で周囲の人間を惹き付ける…それもサイコパスの特徴の一種であると、いつか本で読んだことがある。 僕はきっと戻れない。
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