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事件。
真夏のある日。
いつもよりちょっと早い時間に出社した僕は、その分早い時間で帰ってきたのだけど、なかなか疲れていた。会社を出てからは誰とも喋らず帰り、テレビもつけないでネクタイを外してシャツを脱ぎ、皮がめくれそうなほどに熱いシャワーを浴びた。体に良くないと色んな人から注意を受けてきたが、この熱湯のシャワーだけはやめられない。
その後すぐにベッドに倒れて、眠り込んでしまった。髪も乾かさないままだったから、ふと夜中に目が覚めた時には変なヘアスタイルが決まっていた。
(腹へった)
食事はおろか飲み物さえ口にしていなかった。現代に似つかわしくないくらいの空腹を覚えた為、コップ一杯の水道水で喉を潤してから、僕は最寄りのコンビニに向かうべく家を出た。
暑い。
湿度の高い、嫌な熱帯夜である。
寝起きの気だるさと湿度の重苦しさを両肩に抱えて、マンションを出る。その瞬間、バッ、と目の前に現れたのは、なんと粟村だった。
「あれ、粟村?」
こんなくそ暑い夜に、彼は上下ジャージを着ている。黒地に蛍光色の黄色のラインが入ったものだ。せめて上くらい脱げばいいのに、額や首筋から汗をだくだく流しながら、僕を見た。
「ああ、峰か」
奇遇だな、とでも言いそうな声音だった。が、このマンションに僕が住んでいることはずいぶん前から知っていただろう。そして、ここからは二駅隣の町に実家のある粟村が、なぜこんな深夜にここにいるのだろう。
ふ、と彼は目を逸らした。これはとても珍しいことで、途端に僕の胸中に嫌な興奮が芽生えた。
こんな時間に、
こんなところで、
そんな格好で、
何をしているんだ?
その程度のことを、聞けなかった。
じっと見つめるだけの僕に、粟村は少しだけ面倒そうな顔をした。いや、そう見えただけかもしれない。あれだけ汗を掻いているのだから、単純に不快感に眉をひそめただけかも。僕の顔が変だった可能性もある。根拠もない不安に煽られて疑って、その感情が僕の目に浮かんだのかもしれない。
「どっか行くの?」
粟村は汗の滴を垂らしながら、風呂上がりそのままの姿の僕を見た。
「今日、仕事で疲れちゃって、飯がまだだからコンビニに買いに行くところ」
「俺もアイス食いたい。汗臭いかもしれないけど、一緒に行っていい?」
「え?」
「は?だめ?」
「いや、もちろんいいけど。行こうか」
汗臭い粟村と並んで、外灯だけの不気味な夜道を歩き出す。
コンビニに着くまでの間、僕らはいろんな話をしたはずなのだが、僕は上の空で、きっといい加減なことしか言わなかった。この時間にマンションの前でこんな汗だくの粟村と遭遇した謎は未だに謎のままだし、何より、汗臭いかもしれないけど一緒に行っていい?なんて粟村らしくない言い方が僕を動揺させていた。
僕の隣にいるのは、僕の知っている粟村だろうか。
彼が粟村でないとしたら、彼は一体誰なのだろうか。
安いホラーみたいな話だけど、想像すると心臓が凍るようだった。
コンビニで僕は夕飯になりそうな弁当と麦茶を、粟村はアイスとスポーツドリンクと湿布を買った。コンビニで湿布が売られているなんて知らなかった僕は、その単価の高さにびっくりさせられる。
「どっか痛めたの?」
今すぐ必要でないのなら、明日ドラッグストアで購入した方がいいのではと考えた。しかし粟村はうんとも否とも答えず、湿布をレジに持っていったのである。
「家、寄る?湿布貼るならどっか落ち着ける場所がいいでしょ」
これは僕の親切心で言ったつもりだったのだが、粟村は素っ気なく首を振った。コンビニを出ると彼は簡単に僕に別れを告げて、彼の自宅方面に向かって走り出した。
アイスはどこで食べるつもりなのだろう。終電もない時間だけど、このまま走って帰るつもりなのだろうか。
夜闇に呑み込まれて消えた粟村に聞けなかった僕が、その答えを知る術はなく、自宅に帰ってバラエティを見ながら食事を済ませるしかなかった。
深夜の奇妙な遭遇から二日経った昼休憩、フロアが違う先輩社員が僕を見かけるなり、歩み寄ってきた。普段から馴れ馴れしくて好めない相手だったので、さりげなく忙しいふりをして避けようかとも考えたが、それで気遣って機会を改めてくれるような人だったら元よりこんなに僕に嫌われていないのである。
「峰くん、峰くん」
肩までしっかり叩かれてしまったので、聞こえないふりもできない。僕は覚悟を固めて振り返る。
「ああ、麦田さん。お疲れ様です」
「お疲れ。いや、そんなことより峰くんさ、確かあのマンション住んでなかった?」
「は?」
僕が思いきり首を傾げて眉をひそめると、麦田さんは最寄りの駅の名前と、近くにある目印をいくつか挙げた。確かに僕の住むマンションと彼の言うマンションは合致しているようなのだけど、それを確める意図はまだわからなかった。
「はい。そこに住んでますけど」
「やっぱり。ニュース見てないの?」
麦田さんは手近の椅子を引っ張って、僕の隣に座った。これから近くの店にお昼を食べに行くつもりだったのだが、今日はもう諦めるしかなさそうだった。こういう時の為に、ひきだしの中に非常食を準備してある。
ポケットからケータイを取り出し、彼は何かを検索しだした。
「俺も今朝のニュースで初めて見たんだけどね。峰くんのところに警察来たりしなかったの?」
僕の胸の中にズクズクと、嫌なものが広がる。
「なんですか?何かあったんですか?」
「いや、何で知らないの?峰くんなら何か知ってると思ったのに」
責めるような目で僕を睨み付けてから、ほら、とニュース画面を見せてくれた。
見慣れたマンションの写真がある。
『独身男性の刺殺体 住人の三十代男性か』
どうやらあのマンションで殺人事件が起きたらしい。その見出しを読んでから、殺人事件か、と案外簡単に飲み込んだ。が、その後の本文を読んで、息が詰まった。
死体の発見が、昨日の朝。殺されたのが夜の内ではないか、と書いてある。その夜の内というのは、僕が寝起きでふらふらマンションを出て、不自然に粟村と遭遇した熱帯夜の時間帯も該当する。
生まれて初めて、心臓の音をうるさいと思った。
「玄関先で死んでたから帰宅時に襲われたんじゃないかって、今朝のニュースでは言ってたんだ。峰くんも気を付けろよ。まぁ、犯人がまた同じマンションで罪を重ねるとは思えないけど」
何が面白いのか麦田さんは笑って、僕の背中を叩いた。僕は答えられないまま彼のケータイから顔を逸らし、喋り続ける麦田さんなんて無視して、あの夜に会った粟村の様子を思い返した。
いや。
いやいやいやいやいや。
なぜ僕は友人を疑っているんだ。
本来なら、僕らも外に出ていたから狙われていたかもしれない、という面でおぞましく思うべきじゃないか。
そもそも粟村には友人がいない。人の顔もなかなか覚えない。これは初めて現実で待ち合わせて会った時に、自己紹介ついでに本人から聞いている。ということは、あのマンションで偶然、僕以外の知人と会う可能性も他の人より低いはずなのだ。
だから、殺人の動機がないはずだ。
でも、と僕の脳みその片隅から、幻聴が割り込む。
それなら、あの辺をうろついていた理由もないはずだ。
僕の家に上がるでもなく、僕に連絡を入れるでもなく、不自然な時間に不自然な格好でマンションにいたのは、なぜ?
じわり、掌が湿った。
(本人に聞けばいいだけのことだ)
全くその通りである。その通りなのだが、それはとても難しいことに思えた。
「峰くん、聞いてる?もしかして怖がらせちゃったかな」
麦田さんは心配するように眉を下げて、口元で得意気に笑って見せる。一体何をそんなに気持ちよく喋り続けていたのかは知らないが、僕は曖昧に笑って首を振り、追い払うように昼食を強行した。
お陰さまで午後からの仕事なんて何も記憶にない。パソコンに向かって仕事を自動的に進めながら、僕はあの夜に会った粟村のことばかり考えていた。そして考えても考えても思い出されるのは同じことばかりで、当然何の確信にもつながらず、粟村のことよりも事件の情報をもう少し待つべきじゃないかと思い至った。
定時になると頃合いを見計らってさっさと帰り支度をし、会社を飛び出る。通勤はバスを利用しており、会社近くのバス停はコンビニの目の前にあった。試しに新聞のラックを覗いてはみたものの、スポーツ誌がメインで、マンションでの殺人事件が詳しく書いてある望みが薄かった。入店したからには何か買わなければならない気がして、今日の夕飯にコロッケとサラダを買う。
バスの中では事件について検索を繰り返した為、酔った。マンションに向かって歩いている時に初めて、昨日と今朝では気付けなかった物々しい雰囲気に気がつく。
子供の遊ぶ声が聞こえない。定時で帰った日にはちらほら見かけるはずのランドセルも見当たらない。見かけない顔の大人がマンションの付近をうろついている。もしかしてマスコミなんかもいて、タイミングが悪ければインタビューなんて受けるんじゃないかと思ったが、マスコミらしい者は見える範囲ではいないようだった。
集合ポストの中身を確認したところで、すみません、と背後から声をかけられた。振り返ると、初対面に違いないスーツの男性が二人立っている。若いオールバックが手前で、僕に声をかけてきたのは恐らくこちら。目尻も口角も垂れ下がった妙齢の方は少し離れて、携帯用の扇風機の風を浴びている。
「こちらにお住まいですか?」
オールバックが、ずいぶん真剣な顔で言った。僕は半ばぼんやりした頭で、はぁ、と頷く。
オールバックはちらりと妙齢の方を振り返るが、相手は無反応で、目配せさえなかった。諦めたようにオールバックが僕と向き直り、
ドラマでよく見る警察手帳を取り出して見せてくれた。ただしドラマのもののような厳かなものでなく、もっと手帳っぽく、地味なものである。しかも紐みたいなもので体とつながっており、間抜けに見える。
一瞬だったが、山岡という名字は読めた。
「警察です。今、お話いいですか。お時間はとらせません」
「はぁ」
一応、姿勢を正してみる。山岡さんは僕が緊張していると考えたのか、にっこり、下手くそな作り笑いを浮かべて見せようとした。しかし唇が一文字に結ばれて口角は全く上がってないので、笑顔とみなすには少し無理があった。
「まず、あなたがお住まいの部屋の番号と、お名前、ご職業をお聞かせください」
「304号室の峰直哉です。ただのサラリーマンです」
先ほど見せてくれた警察手帳とは別の、もっと使い込んでいる様子のメモ帳に、山岡さんがそそくさと書き込む。そして申し訳なさそうな顔をこれまた下手くそに歪めて作って、名刺を要求してきた。配給までにいつも配りきれなくて捨てるものなので、僕も出し惜しみしないで渡した。
「これは、IT関係ってことですか?」
「いいえ、そんな大それた内容ではありません。文具や雑貨の輸入が主な業務なので」
「無知で申し訳ありません」
「うちの会社の部署名がややこしいだけです。こちらこそ申し訳ありません」
山岡さんは僕の名刺をポケットに仕舞い、マンションに暮らし始めてどれくらい経つのか、住み心地はどうか、ご近所トラブルなどはあるか、ここの住人はどこまで把握しているのか、などを淡々と問いかけてきた。僕は全てに正直に答えながら、時おり、妙齢の刑事に注意を向けた。僕も山岡さんも真夏の暑さにじわり汗を滲ませながら話していたのだが、扇風機の風に当たる彼だけは涼しげな顔をしていた。
どこからか風鈴の音がした。なのに不思議なのは、僕らには全く風が吹いてこなかったことである。
「青山卓也さんの件は、もうお耳に入っていますか?」
その名前は初めて聞くのだけど、恐らく殺された人の名前だろう。僕は頷いた。
「昨日から全ての部屋を回ってお話を伺っています。今日は、昨日お会いできなかった方にこうして声をかけさせていただいています。疑われているんじゃないかと誤解される方も多いので、始めに言っておきますね」
「はい。大丈夫です。なんとなくわかります」
「助かります。青山卓也さんとお話されたことはありますか?」
「ありません。先ほどお話した通り、僕はご近所付き合いが皆無です。顔を合わせたり挨拶をする程度なら、同じマンションですしもしかしたらあったかもしれませんが、お互いの顔と名前も知らないはずです」
「ええ、ええ。まぁ、最近はそっちの方が多いですよね。近所で親しくしている方が稀ですよ」
口調はゆったりとしているが、メモをとる手だけはせかせかしている。僕はその手を労るつもりで、ひとまず額に浮かぶ汗を拭った。
「すみません、こんな暑い中、引き留めてしまって」
「いえ」
「お仕事帰りでお疲れでしょう。次で最後です。ここ最近、この辺で気になることとかありませんでしたか?普段見かけない顔を見たとか、いつもと違うことが起きたとか。些細なことでも、事件と関係ないことでもいいです」
きゅっ、と心臓が絞まる。
脳裏には黒いジャージを着た、汗だくの粟村が立っている。
山岡さんは僕から目を逸らさない。そして、それまで夕焼けの空なんて見上げて、ぼんやり扇風機に当たっていただけの妙齢が、いつの間にか僕の方を見ていた。
粟村は僕の友人だ。見知らぬ顔なんかじゃない。
だけど。
あの時間にあの場所で遭遇したことは、明らかに"いつもと違うこと"である。
きゅぅっ、と心臓が縮こまり、不自然な痛みさえ感じた。
「…ちょっと、今、すぐには思い付かないですね」
「そうですか。わかりました」
山岡さんはあっさり受け入れて、メモ帳とペンを胸ポケットに片付ける。ご協力ありがとうございました、と差し出された手はなかなか筋肉質で、こちらに変な緊張を与えるには十分だった。
僕は、勇気を振り絞った。
「あの、変なこと聞くんですが」
「はい、何でもどうぞ」
成人男性が二人、汗ばんだ手で握手をしたまま向かい合う姿は、他者からはどう見えていたのだろう。しかし僕はそんなことに構っているわけにもいかず、山岡さんから目を逸らさず、喉から絞り出すのに必死だった。
「これって、もし犯人がこんな奴だってわかったら、ちゃんと指名手配みたいなの出回るんでしょうか?服装とか、髪型とか」
「なぜそれを聞こうと思ったんですか?」
妙齢の方がすかさず入ってきた。ずっと見物役だと思っていたのでびっくりさせられ、思わず仰け反った。
「だって…、怖いじゃないですか。単純に」
「そりゃそうだ」
妙齢は笑っているのか笑っていないのか、よくわからない顔つきだった。垂れた目が細くて、瞳が見えないせいかもしれない。とてつもなく情の深い人にも見えるし、ロボットより冷徹な人にも見えた。
「人相や特徴がわかればそういった注意の呼掛けもあるかと思います。その時また改めてご協力願うこともあるでしょうから、よろしく頼みますね」
妙齢の刑事はずいっと僕らの間に割り入り、僕の肩を叩いた。ずっしり重みのある手だった。僕はようやく手を引き、はぁ、と力なく頷く。
妙齢の刑事が先にマンションを出ていく。山岡さんはその背中を目で追った後で僕に向き直り、改めて、ご協力ありがとうございました、ととても丁寧な口調で言ってくれた。
自宅に入って、また熱湯のようなシャワーを浴びてから、ようやくケータイのライトが通知の為に光っていることに気がつく。普段から小まめに確認する癖がなくて、いつも気がつくのが遅くなるのだ。開いてみると、粟村から着信が入っていた。
ズクズク、ズクズク…薄い暗雲が僕の心を包み込んでいく。
かけ直したら、珍しくすぐに出た。
「どうしたの?」
「ニュース見たんだよ」
粟村は少し息が上がっているようだった。またランニングかジョギングでもしているのだろうか。カーテンをわずかにつまみ、マンションの敷地入り口の方を見下ろしてみる。が、もちろん黒いジャージの若い男なんて都合よくは見当たらない。
カーテンを戻して、ソファに腰掛けながらテレビをつける。ちょうど夕方のニュースが流れているが、このマンションでの事件ではなかった。粟村が電話をくれた頃にしたのなら、もう報道し終わったのだろう。
「峰のマンションでしょ?誰か殺されたそうじゃない」
「あー、うん。そうらしい」
「警察もう来てるよね?」
「えっ?あ、あぁ…うん、 まぁ、」
咄嗟に答えてから、なんでそんなこと聞くんだろう、と眉をひそめる。粟村に対する疑念はいつも一歩遅れてやってきた。
彼は深い溜め息を聞かせた。
「ニュースになってるくらいだし、そりゃ警察まだいるよね。峰んとこに行こうと思ってたんだけど、めんどくさそうだからやめておこうかな」
「…あぁ、まぁ、さっき僕も声かけられて、いろいろ聞かれたから」
「やっぱりか。巻き込まれたくないし、しばらく近寄らないでおくよ」
「あ…うん」
電話は切れた。
ケータイをベッドに投げて、頭を拭きながら、また粟村のことを考えた。彼がサイコパスに近い思考の持ち主じゃないかと疑い始めて、徐々に彼について考える時間も増えてきてはいたが、これほどこびりつくことはなかった。
とても単純な話で、僕は殺人事件の犯人が粟村じゃないかと疑っている。被害者とのつながりも、彼の動機もわからないが、もしかしたらそんなものなくても彼なら殺すのではないかと考えている。
サイコパス、だから?
水分を吸いすぎて湿ったタオルで、手持ち無沙汰に頭を拭き続けながら、僕はまとまらない考えに茫然とする。そもそもどうして疑い出したのかも思い出せない。でも、初対面から違和感を覚えていたのは確かなのだ。何を見て、聞いて、そんな違和感を引きずっているのだろう。
夕飯のコロッケとサラダのことなどすっかり忘れていて、気がついた時には食べられるものではなかった。
殺人事件の詳細については、熱心な検索と積極的なニュース鑑賞で、集められるだけ集めたと思う。
七月十四日。会社を出てからマンションに帰ってくるまでの間、店頭カメラなどで被害者の足取りを追ったのだろう。青山卓也は襲われることなく、誰かと合流するでもなく、このマンションまで帰ってきた。夜の十時頃にマンションに入っていくのを、駅からここまで乗せたタクシーの運転手が証言したとニュースが報じていたので、確かなはずだ。
青山卓也の部屋は210号室。エレベーターに近い僕とは違い、角部屋である。彼はカメラの付いているエレベーターではなく、自分の部屋から近い非常階段を普段から利用していた。おそらく犯人も同じ非常階段を使ったのだ。そして今時誰でも開けられる無防備な集合ポストを使用しているこのマンションでは、個々の鍵と、エレベーターのカメラくらいしか防犯対策は用意されていなかった。
死体を発見したのは翌朝の七月十五日、青山卓也の隣に住む小学生男児。七時半頃、登校する為に部屋を出たところ、隣の部屋のドアが開きっぱなしになっていた。男児も非常階段を利用していたので、邪魔なそのドアを越えて階段に向かう必要があったのだが、その時に玄関に人が倒れているのを見た。まだ九才だと報道されたその男児は賢く、それを見るなり自分の家に戻って、両親に「人が倒れてる!」と報せたのである。両親も青山卓也の死体を見て、すぐに救急車を呼んだ。ちなみに僕が家を出たのは七時五十分、その救急車が来るまでの間であり、エレベーターを使うのでその騒ぎに気がつかなかった。僕がマンションを出てから、救急車が来てパトカーが来て、みんな大変だったようだ。
最初は玄関で倒れていた、としか報道がなかったのだが、後になって青山卓也がドアを開けて刺された可能性が高いという情報も開示された。つまり麦田さんの推測は外れて、青山卓也は帰宅時でなく、在宅時の訪問者にドアを開けたところ、グサリ、胸を一突きにされたのである。
さて。
ここまでが、僕が病的な積極性をもって集めた、事件の詳細。本当はもっと詳しいこともわかっているのだろうけど、まぁ、警察がメディアに全てを曝すわけがない。
七月十四日に戻るけれど。
今度は、僕の記憶として。
あの夜、僕は夕方六時に会社を出た。帰宅にはだいたい三十分から四十分。いちいち時計は見なかったが、七時前には僕は自宅に帰り、シャワーを浴びて、七時半に差し掛かる頃には呑気に眠り込んだはずである。
起きた時は時計を見た。
夜の十一時五十分だった。
早く帰ったから、汗を流せばすぐにコンビニに行っておいしいものでも食べようと思っていたのに、日付が変わる直前だったからがっかりさせられた。それからひどい寝癖を直して、水を飲んで、やっと家を出たから、たぶんエレベーターに乗った時には日付を跨いでいた。
マンションを出てすぐのところで、粟村と遭遇した。僕は当然マンションから出てくるところで、粟村は、目の前の往来を横切ろうとした様子だった。
(あれ?そういえば…)
彼は方角で言うと東側からひょっこり現れた。
マンションは各階十部屋ずつあり、五号室と六号室の間にエレベーターが一基ある。部屋は西から東に向かって順番に番号が割り振られている為、一号室はマンション内で最西端、十号室は最東端。西側には大きな木があって、西日が部屋に直射しないように工夫され、東側に事件に使われたかもしれない非常階段がある。
石碑のようにマンション名が刻まれたコンクリート塀で囲まれており、出入り口は、駐車場になっている裏側と、エレベーターを降りて真っ直ぐ歩いた先しかない。つまり車を持たない僕はエレベーターを降りて、手入れされているのかされていないのかわからない庭をまっすぐ歩き、マンションの敷地を出た。そこへ、東側から、粟村が現れた。
殺された青山卓也の部屋と、使用されたかもしれない非常階段は最東端。そこからコンクリート塀をよじ登って敷地の外に出て、逃走しようとしたところなら、東側から現れることになるだろう。
(……いやいやいやいやいやいや)
思わず笑ってしまった。
逃走するなら他に道があるだろう。僕ならマンションの住人に目撃される可能性がある正面になんて回らない。それに、東側で殺人を犯して馬鹿正直に東側から現れるなんて、そんなの愚かだ。
僕は粟村を疑っている。
だから何でも怪しく見えてしまう。それだけのことだ。
「そうだ、レシート」
ひとりベッドの上で考えていた僕は立ち上がり、室内を見回す。
今日は七月十九日。日曜日だから仕事もない。朝から天気は憎たらしい程に良くて、当然暑さも酷く、夏休みの為のレジャー施設紹介番組が続く。なのに僕は自宅に引きこもり、ご飯を食べることも忘れて、殺人事件と友人について考えている。青山卓也が殺されたこのマンションだけ、浮き足立つ夏に乗れないで、暑さを堪えていた。
玄関に向かう。レシートや不要な郵便物のような、時間が経ってもさほど害をもたらさないゴミを、玄関に放る習性がある。お陰でドアを開けたらひどく散らかっている部屋に見えるのだが、玄関だけだ。
くしゃくしゃになったレシートがいくつか転がっているので、ひとつひとつを広げて確認する。粟村と一緒に行ったコンビニのレシートはすぐ見つかった。
「十二時四十一分」
コンビニまでは徒歩十分といったところか。十二時過ぎに粟村と遭遇したと考えて、やはり相違なさそうである。
重い溜め息が出てきた。
探偵じゃあるまいし、事件の情報を収集して整理したところで、何の確信も得られない。むしろこんな無意味なことを繰り返す内に、僕の理不尽な疑いは増すばかりのようだ。
頭を激しく振り、レシートを壁に投げつける。
ラーメンでも食べに行こう。
家を出て、エレベーターで降りる。集合ポストのところに掲示板があり、住人に向けてのポスターやチラシが貼られているのだが、その中にハッとさせられるものがあった。
不審者情報である。
黒いジャージ上下を着た、二十代くらいの若い男。背丈は、ちょうど粟村くらい。
立ち止まり、粟村本人でないその不審者情報を、じっと睨み付けた。誰がこの情報を流したのだろう、という見当違いの怒りと、これは粟村のことではないだろう、という根拠のない慰めを頭で巡らせ、その相性の悪さに吐き気を催している。
庭で子供を遊ばせていたらしい女性が、こんにちは、と声をかけてきた。僕も返すと、不審者情報を見ていたと察した彼女は、怖いですよね、と声を低めた。
「事件があった日に、この不審者を須賀さんが見かけられたそうですよ。他にも古田さんや、木村さんも」
全員、顔も部屋番号も出てこない名前だったが、きっとこのマンションの住人なのだろう。
「それって事件と関係がありそうなんですか?確か、夜中に起きたんですよね?」
なかなか平静を装えたと思う。三才くらいの娘さんは母親の手を両手でぎゅっと握りしめて僕を睨んでいたけど、母親は僕に対して警戒心もなく、たぶん犯人よ、と言い切った。
「あの三人、仲が良いでしょう?あの日も須賀さんのお家に集まって晩酌をされていたんですって。ちょうど家を出る時に、階段を降りる音がして…ほら、あの階段、カンカン言うじゃないですか」
彼女は迷惑そうに眉をひそめたけれど、鉄製なのだから、それは仕方がない。むしろ今まで青山卓也や発見者の男児が、よく気を遣って静かに使い続けてくれたものだと思う。
「まさか事件が起きたなんて思わないから、誰かのお客さんかしらなんて話して、それだけだったみたいですけど」
「…怖いですね。小さなお子さんがいると余計に怖いでしょう」
ちらり、娘さんに顔を向けて、にっこり微笑んで見せると、母親がやけに嬉しそうに、そうなんですよぉ、と話し出した。それから十分近くも彼女は旦那の愚痴を一方的に喋り続けるのだが、その間に僕は集合ポストへ視線を移し、須賀さん、古田さん、木村さんの名前を探した。須賀さんは601号室、木村さんは402号室。古田さんの名前は見つからなかったから、名前の入ってないポストのどれかだろう。
ようやく旦那の愚痴から解放されて、ラーメンを食べに行けた。中途半端な時間になったので行列もなくすんなり食べられたのは、不幸中の幸いである。
店を出てから、粟村からのメールに気がついた。
『今日寄るわ』
よりによって今日かよ、と思わなくもない。が、確かにあれから警察らしい人間を見かけていないから、粟村がそろそろだと思った勘は正しいのである。
警察に呼び止められて巻き込まれるのが面倒な一般市民として、だ。
きっとそうだ。
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