懸念。

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懸念。

粟村が来るなら飲み物くらい用意しておかないと、と気を利かせて、滅多に行かないスーパーで麦茶と炭酸飲料とミネラルウォーターを購入した。その後で、炎天下に持ち帰ることを考えて最寄のコンビニにしとけばよかった、と後悔する。だが帰りにまで考えが至ったにせよ、今日の僕はあのコンビニに行かなかったのだろう。 マンションに帰ると、また集合ポストのところで二人が立っていた。正直、不審者情報といい、粟村といい、この二人といい、なぜ揃いも揃って今日なんだ、とうんざりさせられた。 山岡さんが僕に気付き、ズンズン遠慮のない歩幅で近付いてくる。 「度々すみません。峰さん、またお話いいですか」 さすがにペットボトル三本提げて帰ってきた僕は、Tシャツが背中に貼り付くくらいに汗だくで、不快感から首を振った。 「すみません…せめてシャワーを浴びさせてください」 「すぐ済ませますから」 「いえ、勘弁してください。僕がそのままドアを開けず眠り込むことを心配されているなら、もううちで待っててくれても構いませんから」 暑くてイライラもしていた。そしてそれは僕だけでなく、山岡さんも同様だった。眉間にぐっと皺が寄って、お願いします、とずいぶん迫力ある声で言うのだ。 僕は遠慮する余裕も失い、舌打ちする。山岡さんの顔がますます険しくなる。険悪な雰囲気を切り裂くように、まぁまぁ、とのんびりした妙齢の声が割り込んだ。 「中で待たせてくれるって言うんなら有り難いじゃないの。今日は暑くて敵わん」 もちろん、本気で中で待たせるつもりで言ったわけじゃない。こちらとしては、それくらいすっぽかすつもりはないです、という意味だったのだ。しかし強要されたわけでもなく、言い出しっぺは他でもない僕なのだから、不満そうな顔はできても拒むことができなかった。 嫌々ながら、汗臭い二人を部屋に通し、冷蔵庫に入れていた缶コーヒーを出した。僕は宣言通りにシャワーを浴びて、さっぱりしたお陰か、イライラが少し治まっていた。 「すみません。で、なんでしょう?」 二人の目の前で、氷と麦茶をグラスに入れて、ぐびぐび飲み干す。山岡さんは羨ましそうに目を丸くした後で、憎々しげに目の前の缶コーヒーを睨んだ。僕は彼らには麦茶を出さないまま、適当なところに腰をおろす。 妙齢の刑事は口をすぼめて、ちょっととぼけるような顔をした。 「いやぁ、お恥ずかしながら進展がなくてですね。未だに小さなことをコツコツ拾う毎日ですわ。それで今日も、峰さんにはしょうもないことを聞いてしまうんですが」 やけに前置きが長いな、と思った。それに、前回はまったく喋らなかった妙齢が饒舌で、逆になめらかに質問を重ねていた山岡さんが、口をきつく締めている。それらが僕に嫌な予感を与えた。 そしてそういう予感というのは、当たるものなのだ。 「単刀直入に聞きますが、粟村亮介さんをご存知ですか」 ズン、と胸中に重石を放り込まれた。 頭が真っ白になる、というのは正にこういうことなのだろう。実際はいろんなことを考えている。汗だくの粟村の姿や、不審者情報の絵や、ニュースで見た現場のイメージ図や、ネットニュースの画面など、様々なものが瞼の裏に浮かんで、巡り、頭の奥に焼き付いた。けれどそれらの色が複雑に混ざり合い、殺し合い、最終的に真っ白に変わり、何を思い浮かべたのか何を考えたのかも、自分でわからなくなる。 「峰さん、」 刑事に肩を揺さぶられ、ハッとする。頭の中の真っ白な靄が溶けるように消えた。どちらに呼び掛けられたのかは、わからない。 「大丈夫ですか。具合でも悪いですか」 妙齢がやけに穏やかな笑顔で言った。その嘘ばかりの笑顔に、僕は冷静さを取り戻す。 よく考えてみれば、別に僕がここで粟村を知らないふりをする必要はないのだ。むしろ善良な市民として、捜査協力の為に知ることは正直に答えるべきではないか。 「すみません…急に粟村の名前が出てきたものだから、驚いてしまって」 「そうですよね。当然です。いきなり説明もなしに失礼しました」 妙齢は缶コーヒーの残りで喉を潤してから、唇を舐めた。 「事件があった夜、峰さんは粟村亮介さんとお会いしましたか?」 「はい。会いました」 「彼はどんな格好をされていたか、覚えておられますか?」 もちろんだ。忘れたことなどない。 「えぇと…黒いジャージを着てました。メーカーやブランドまでは、ちょっと」 「ああ、そこまでは大丈夫ですよ。ただ、我々が急に粟村さんの名前を出したのは、事件の夜にこのマンションの住人の方が見かけられたというのが、粟村さんのようでしてね」 心臓が痛い。僕のことではないのに、僕のことのように陰鬱となった。 それまで黙っていた山岡さんが、妙齢を押し退けるように、ぐいっと体を前倒しにした。 「その日は事前に会う約束をされていたのですか?それとも、偶然会ったのでしょうか」 「どちらとも言えません。僕の家によく来る奴で、いつも約束らしい約束なんてしませんから」 山岡さんは少し訝しげに目を細めたけど、妙齢は、男同士なんてそんなもんですな、と笑った。僕は頷きながら、ズクズク嫌な動き方をする心臓に嫌気が差す。嘘はついていない。嘘はついていないのだ。 妙齢の、今にも皺に埋もれてしまいそうな目が、嫌だった。この世に法律なんてなければ衝動的に潰してやりたいくらいに。 「ちなみに、その日は粟村さんと何をされたんですか?」 「何を、ていうのは?」 「その日もこの部屋にいたんですか?DVDを観たとか、ゲームをしたとか」 「コンビニに行きました」 ほぉ、と妙齢の嫌な目が光る。僕らがコンビニに行ったということが、そんなに嬉しいのだろうか。 「何を買われましたか?」 「僕は夕飯を。粟村は、アイスと、どこか痛かったらしくて、湿布を」 「湿布」 妙齢がゆっくり、噛み砕くようにつぶやく。だから、湿布が何やら事件に関わっているのだとわかった。 僕が怯えるような顔をして見せたせいか、口に出して聞いてはないのに、妙齢は教えてくれた。 「報道はされておりませんが、現場には置時計が落ちていました。おそらく靴箱の上に置いていたものだと思われます」 「はぁ」 「自然に落ちたとは考えにくい。青山さんが息絶える前に、犯人に投げつけたかもしれないそうです。しかも、破損の箇所や具合から見て、それは犯人に当たった可能性がある」 眉間に皺が寄らないように、変なところに力が入る。 あの夜、粟村はアイスと湿布を購入した。割高な湿布をコンビニで購入したということは、必要性が高かったのではないか。そしてアイスは食べずに、僕の前から立ち去った。 脳裏には、見たこともない事件現場が浮かぶ。顔も知らない青山卓也の投げた置時計が、粟村の体にぶつかる光景。そして、粟村が購入したアイスで患部を冷やし、湿布を貼る姿。 痣として残さない為に、一刻も早い処置が必要だったのではないか。 (それなら氷を買った方が) 思いかけて、いや、とどこから否定の幻聴が上がる。氷なんて買ったら、何に使うのか必ず僕が聞く。粟村の実家が近くないことを知っているから。 そもそも僕と彼が会ったのは、偶然なのか? あの近辺にいた理由付けに、僕は利用されたのではないか? 青山卓也を殺した動機はわからない。が、もし僕が殺人犯になったら、現場近くに友人が住んでいるのなら訪ねる。理由なんて何でもいい。目撃された時に、その為にここにいましたと言えるのなら、何でも。 気持ち悪くなってきた。暑いせいだろうか。 「そういえば今年は蝉が鳴きませんな」 妙齢が日差しのきつい窓を険しく睨みながら、つぶやいた。僕と山岡さんが同時に口を開きかけたその時、ピンポンッ、とやけに軽快なインターホンが響いた。 喉を締められた思いがする。 刑事二人も、パッと玄関を見た。 「峰ぇ、」 粟村だ。僕がすぐに出ないから、声音が苛立ちを帯びている。 「粟村です」 僕は聞かれてもいないのに二人に告げて、立ち上がる。ドアを開けると、あの夜よりも暑いのに涼しげな顔で、粟村がいる。 僕の顔が変だったのか、それとも見慣れない革靴にすぐ気がついたのか、彼は即座に眉間に皺寄せて、誰?とつぶやく。 「刑事さんだって」 粟村の顔色を窺いつつ、答えた。 「ほら、まだ事件の犯人捕まってないらしいから。暑い中まだ捜査しなきゃいけないらしくて」 「そりゃそうだろうけど、何で峰の部屋に?」 「いや、それが」 どこから説明しようか、こめかみを掻いた辺りで、刑事の二人も立ち上がって玄関に寄ってきた。粟村は露骨に嫌な顔をして、一歩下がって睨み付けた。 「いや、峰さん、わざわざコーヒーまでいただいてすみませんでしたな」 妙齢がずいぶん腰を低くして笑い、山岡さんも初めて会った時から進歩のない下手な作り笑顔で、頭を下げる。 「我々はこれでお暇させていただきます。いや、本当に、お話聞かせていただきありがとうございます」 「あ、はぁ、」 僕はろくな返事もできないで身をずらし、二人の刑事が靴に足を突っ込むのを眺めていた。粟村は顔を俯かせて、ドアの陰に身を寄せる。刑事から顔を見られない為に隠れているようだと思ったのは、僕の視界が心理的なもので歪んでいるせいだろうか。 刑事の背中が見えなくなる頃になって、粟村はようやくドアの陰から出てきた。僕なんてその場にいないかのようにするりと入ってきて、我が家のように冷蔵庫を開ける。 「あ、ファンタあるじゃん」 粟村の嬉しそうな声が聞こえる。 僕は鍵を閉めながら、じりじり喉の奥が焼けるのを感じた。 本人に聞けばいい。 あの夜、何をしていたんだ? アイスはどこで食べた? 自宅まで走って帰ったの? もし事件なんて起きてなければ、簡単に聞けたはずである。なのに、聞けない。声に出そうとすると、気管が締まって呼吸さえままならない。 粟村はソファでファンタを飲んでいる。刑事が置いていった空き缶を、無機物な目でじっと見下ろしている。 「今日は大学?」 「バイト」 平然と答えたけど、彼がバイトをしていることは初めて聞いた。 (待てよ。それなら、あの夜もバイトに行ってたかもしれない) 一筋の光が見えた気がした。ソファの傍らに僕は座り、なに食わぬ顔で空き缶を取りながら、平常心を装う。 「バイト、始めたんだ?」 「うん、まぁ」 「何のバイト?」 ちらり、粟村が僕を見る。空き缶を握る手に若干汗が浮かぶ。 彼は口元だけで笑った。 「ナイショ」 僕の聞き方が悪かったのだろうか。それから粟村はしばらく、空き缶に向けていたような無機質の目を、僕に浴びせ続けた。 一分くらい見つめられた後、彼はふいに視線を外した。 「刑事の人ら、何聞きに来たの?」 「…あー」 前回に聞かれた質問をされたと偽ろうか。 それとも、お前が不審者扱いされていたぞ、と笑い話にするか。 僕を映す粟村の目はカメラのレンズに似ていた。ピントを合わせる為だけに瞳孔が働き、一度捕まえた肖像を逃さない。録画された状態で質疑応答を求められることがこんなに精神的に圧迫されるとは思わなかった。 このカメラレンズの前では、疑いを隠したがる僕の芝居なんて、滑稽にしか映ってないのかもしれない。 「…粟村、あの夜、何であそこにいたんだ?」 カメラレンズはゆっくり瞬きをした。フィルムを切り替えるみたいに見えた。彼のその小さな動きで、僕は戻れない一歩を踏み出したのだとわかった。 「あの夜って?」 「ほら、僕がマンション出たら、偶然そこの入り口で会った時があっただろ。その後二人でコンビニ行って、お前は、アイスと湿布を買って帰った」 「ああ、あの日」 カメラレンズは一瞬僕を焦点から外し、またすぐに戻した。そして再び、ゆっくり、瞬きをする。 「別に」 「別にって。実家から離れてるのにここまで走ってくるなんて、変だろ。アイスも食べないで帰ったし」 「俺、走ってたなんて言ってないよ」 「え?だって、あんなに汗…」 上下ジャージで、汗を大量に掻いていたから、走ったものと思い込んでいた。 粟村のレンズに僕が映る。憐れなくらいにうろたえて、顔色が悪かった。 もしかして、これは、粟村の方から誘われているのだろうか。僕の疑いに応える為に、彼がわざとわかりやすい罠を仕掛けて、待っているのだろうか。 一度唾を飲んでから、僕は切り出した。 「…じゃああの日、何してたの?」 僕なりにあんなに苦しんだのに、いざ口に出してみると、たったこれだけのことだ。だけど心臓は破れそうだ。呼吸するってこんなに苦しかったっけ、と最近はよく悩まされる。 粟村は目を細めて笑う。 「何してたと思う?」 氷水をぶっかけられたみたいに、体温がサッと落ちた。 汗を掻いたからシャワーを貸してくれ、と彼は言った。僕には涼しげに見えたけど、汗を掻いたから気持ち悪いのだとも付け加えた。先程まで事件の夜の話をしていたとは思えないくらい淡白な態度で、当然のように立ち上がる。 「え?今日泊まってくの?」 「いや、シャワー借りるだけ」 結局、あの夜の詳細は聞けなかった。 ドアの閉まる音がした後、すぐにシャワーの音が続いた。僕は粟村の座っていた椅子に腰を下ろしてテレビをつけたが、番組なんて目に見えないし、耳にはシャワーの音しか聞こえてこなかった。 とりあえず汗だけ流したいというのは本当だったらしく、十五分程度で粟村は出てきた。何度も何度も訪ねている内にすっかり我が家のように振る舞って、タオルも勝手に首にかけている。肩からわずかの湯気を揺らしながら、冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取る。 「あ、ワイパー忘れた」 粟村は悪気もなさそうに言ったが、僕はそれを聞いてうんざり濃い溜め息を吐かないではいられなかった。 カビが生えるのを嫌がって、僕は風呂に入る度にワイパーで水滴を取っている。粟村が泊まりに来る時には宿代として、彼にその作業をしてもらっていた。が、時おりこうして忘れて出てくることがある。そして一度忘れて出てきたら、もう風呂場には戻らず水滴を取ってはくれないのだ。 飄々とソファに向かう粟村と、嫌々ながら風呂場に向かう僕はすれ違う。 神経質な目と手で水滴を取りながら、ようやく思い立った。 (どうしてシャワーを) "あの夜"の話をしている最中だったのに。 それで、僕も、どうして風呂場の水滴なんて取っているんだ。 手から力が抜けて、狭い風呂場の中心に僕が取り残されている。その時、かちゃん、ととても小さいけれど、不穏な音がした。 静かに、静かに、風呂場のドアを押し開けて、音のした方を覗く。もう音は聞こえなかったが、それでも、なんとなくその方向から聞こえた気がした。 キッチンだ。 裕福とは言えない収入だから、こんな僕でもたまには自炊もする。自炊をするとなると、どうしてもあれは置いておかなくちゃならないのだ。 どうして、もっと早くに気がつかなかったんだろう。 薄暗いキッチンに、粟村の背中がぼんやり浮かんで見えた。今まで気にならなかったはずの秒針が、サイレンのようにけたたましく響いている。いや、これは僕の心臓の音なのだろうか。それとも、幻聴だろうか。 かちゃん。 少ない皿とコップを入れている水切りカゴの端の方で、それは、肩身狭そうに縮こまっているはずだ。粟村はそこへ手を伸ばし、柄を、握った。 秒針も聞こえなくなる。 この世界から音がなくなった。 粟村が僕を振り返る。顔に影がいたずらに集まり、表情が見えない。もはや彼が僕の知る粟村であるかどうかも、定かではない。 その手には包丁が握られていた。
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