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1話
緊張した趣でエリュシエルはその物体へと近づいていく。
歩くたびに、床のホコリが舞い上がり、足跡が残る。
初めのうちは普通に歩いていたのだが、近くに連れて徐々に歩幅が狭くなり、
やがてエリュシエルは足を止めた。
ずっと、この時を待ち望んでいたのだから無理もない。
期待はあるものの、近寄れば近寄るほど味わったことのない緊張と畏怖が襲ってくる。
今まではただ彼女を遠くから眺めるに過ぎなかっただけの自分。
しかし、彼女が自分を認識してくれて、交流の対象になれる。
だが…嫌われるのが怖かった。
やはり所詮自分には場違いな場所だったのかもしれない。
長い年月をかけて溜まったホコリ、そしてカビの臭いが告げている。
ここは盛者が来るべきではない場所だということを。
ただ、ゆっくり朽ち果てて終わるだけの場所。
(帰ろう…)
エリュシエルは踵<きびす>を返し、自分が来た道を引き返す。
先ほどの自分の足跡とは逆の足跡が床に残っている。
エリュシエルのその足取りはとても重かった。
諦めたくて諦めたわけではないし、諦めたいわけでもない。
ただ、彼女に近づくだけの勇気がなかった。
『あなた誰?』
それは唐突な声だった。
空気を介して伝わる音ではない。もっと直接的に頭に語りかけてくるかのような声。
唐突な声にエリュシエルは思わず飛び上がりかける。
『動くな。動けば戦闘の合図とみなして、即殺す』
エリュシエルの頰に冷たい汗が流れる。
彼女のその言葉に嘘偽りはないだろう。
もしも動けば彼女は躊躇<ためら>いもなく殺すであろうということが
本能で理解した。
『あなたの名前は?』
「エリュシエル…エリュシエル・グラッツェル…」
彼女の問いかけに震える声で答えた。
『あなたはどんな存在で、何をしにきたの?』
「私は…枢教会の聖女で…あなたに会いに来たの…」
言葉を間違えないように一つずつ慎重に答えていく。
もしも、意にそぐわない返答をした場合、待っているのは死だけなのだから。
『聖女…?それはどんな存在なのかしら?』
「聖女は…協会の中でも選ばれし精鋭だけが入ることのできる枢教会のトップで、
国民を導き、ひいては政治にも助言をする存在よ…」
『何のために私に会いに来たの?』
「分からない。でも…あなたに会ってみたかったの…」
彼女の問いかけに真摯に答える。
恐怖心もあったが、それだけではない。
やっと憧れの存在と話すことができたのだ。
できる限り、彼女の期待に答えたかった。
そして、沈黙。恐らく彼女もいろいろと思考を巡らせているのだろう。
嘘か本当かを冷静に吟味している様子が分かる。
ピリピリとした場の空気。
その場の空気がカビとホコリにまみれた臭いを忘れさせてくれる。
だが、エリュシエルとしてはカビとホコリの臭いを感じていたときの方が、
気楽で楽観的だった。
しばらくの逡巡が彼女の頭の中で繰り返される。
『そう…エリートなのね。肩の力を抜いていいわ』
どうやら彼女のお眼鏡にかなったらしく、
エリュシエルはホッと息をついた。
少なくとも今すぐに殺されることはないらしい。
「あなたのこと…なんて呼べばいいの?」
エリュシエルの抱いた素直な疑問だった。
国民が読むのを禁じられ、枢協会の中でも限られたものしか読むことができない
禁書の中に彼女の記述こそあったが、彼女自身の名前はどこにも記されてはいなかった。
『さぁ…災厄とか災害だとか色々な呼ばれ方をしたけど、
どれも私個人を形容した名前ではないわね』
悩むエリュシエル。
その姿にも彼女はきっと無頓着で我関せずという感じなのだろう。
『好きによべばいいわ』
困るエリュシエルに助け舟を出す彼女。
きっと彼女の芯の部分は優しいに違いないとエリュシエルは思った。
出なければ、困っている自分に分かりやすい助け舟を出したりはしない。
「じゃあ…次会うときまでに考えておきます。
その…また会いに来てもいいですか?」
おずおずと彼女に問いかけるエリュシエル。
ひょっとすると迷惑かもしれないと思いつつ、
エリュシエルは自分の欲望を無視することはできなかった。
憧れだった存在が目の前にいて、
例え皮の拘束具で封印されていたとしても繋がりを持つことが出来るのだ。
もっと彼女に踏み込みたいと思うのは当たり前のことだった。
『好きにするといいわ。私はずっと暇を持て余しているのだから』
エリュシエルはその返答にパッと明るい笑顔を浮かべる。
また来ることができる。また話すことができる。
そう考えるだけで胸が高鳴った。
エリュシエルはふと我に帰り、時計を見る。
…かなりいい時間だった。
エリュシエルは枢教会のほぼトップといっても過言ではない。
そのためかなり多忙である。
この謁見をするために実はちょっと無理をしてスケジュールを組んだのだ。
「今日はもう時間なのでそろそろおいとまします。
また来るので、そのときまでに呼び方を考えておきます!!」
せっかく彼女と会えたのに、もう帰らなくてはならない。
それが名残惜しかった。
本当は彼女ともっと色々なことを話したい。
しかし、彼女は自分がまた来ることを了承してくれた。
そのときにまた話せばいい。
次に会うときはどんなことを話そうか…。
色々なシチュエーションを想像する。
来るときまでの重い足取りとは裏腹に、
エリュシエルは明るくウキウキしながらその場を後にした。
また彼女と会うことを夢見ながら…。
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