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雫
四月、新年度の気持ちの良い風が、桜の花を連れ窓の隙間から忍び込んできた。土と若葉の混じった、新緑の懐匂い。
それは春の青い匂いだった。
柴田潤一はこの春から医大生となった。両親ともに医者の家に生まれた柴田は外科医になるという夢を持っていた。いつか両親のように人の心まで救えるような医者になりたい、彼は青臭くもそう夢見ていた。
入学を期に越してきたアパートは八畳一間ロフト付き。アパートは学生街にあり、右手には公園、左手には30階建てのタワーマンションがあった。この地域で一番高い建物で、住民からは葵区のエンパイアステートビルと呼ばれていた。
大学に近いマンションに空きが出るまで、柴田はこのマンスリーアパートに三ヶ月の間、暮らす事になった。
荷解きを終え、ガス会社を待つ間、柴田は部屋の掃除を始めた。室内は清潔だが、それでも幾らか埃が残っていた。
柴田は掃除機をかけ、窓を拭き、ロフトを水拭きした。換気した窓から踏切の電鈴が聞こえてきた。
ロフトには天窓があり、そこから隣のタワーマンションが見えた。光を反射して白く光る建物はまるで巨人、その巨人が小さなアパートを覗き込んでいる、そんな不思議な感覚を柴田は覚えた。
ロフトにはエアコンが備え付けられていた。雑巾でエアコンの上部を拭ったその時、指先に固い物が当たるのを感じた。器具の隙間、そこに小さな鍵が入り込んでいた。
それはよくあるロッカーの鍵だった。前の住民の忘れ物だろうか。柴田はそれを少し気にしながらも棚に鍵を置き、掃除を続ける事にした。
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