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第一章 求人広告
「パトリックの馬鹿―! どうすんのよ?!」
「どうしようもないだろう……この状況は」
眼下には紺碧の熱帯の海が広がる。澄んだ水を通して、巨大な魚影がいくつも行き交っているのが、涙目でも確認できた。足元の一枚板は二人の荷重にぎっしぎっしときしみながら、もう限界に達しようとしている。
「おらおら、もっと歩け!」
「こっから狙い撃ちしてやってもいいんだぞ!」
一枚板が伸びている端、船体につながっている部分には野卑な笑みを浮かべた海賊たちが集まり、たわむ板の先端で震えている二人をはやしたてる。パトリシアの長い茶色の三つ編みがぶらぶらと揺れた。
「パトリック! あんた、なんとかしなさいよ! 今のわたしは無力なんだから」
「いや、今この瞬間はどうしようもない、少し時間が欲しいな、パトリシア」
まとめて一緒に腰を縄で縛られている少年からいつもどおりの平静な答えが戻ってくるが、パトリシアはそんな答えは聞きたくなかった。海賊船上で公開処刑の真っ最中。いったい、なぜこんなことに。自分は堅実が信条の勤勉な少女だというのに、なぜ、こんな派手な死にざまを晒す羽目になっているのだ?
それもこれも、そもそも。
「なにが、『どん詰まりの人生を逆転させませんか』よ! 今がもう、人生のどん詰まりじゃないのよ!」
――どん詰まりの人生を逆転させませんか。
「なんですか、これ」
孤児院院長のクリオロがかざした紙片を読み、パトリシアは怪訝な表情になり、胡乱な表情になった。
「いいだろう、君向けの仕事だ」
「はあ……」
「どん詰まり、まさに、君は今どん詰まりだ。君はとてもよく働き、学ぶ優秀な子供だったが、知っての通り、規則で孤児院には十六歳の誕生日までしかいられない。残念だが、先日から行っていた君の就職活動もうまくいかなかった。身元保証人がいない、というのが主な原因でね」
「院長が身元保証人を引き受けてくれない、というのが原因ですね」
「まあ、あれだ、わたしも五十人以上の子供たちを見ているわけだから、君一人を特別扱いするわけにはいかないんだよ、残念ながら。だから、結論として言えば、君は君の力だけでこれから生きなきゃならん。なんらかの収入を得て、だ」
「わたし、固くて真面目な仕事なら、本当になんでもしますけど。肉体労働以外は」
「そうはいってもね、固くて真面目な仕事が欲しい人は沢山いるからね。景気が悪いんだろうね。なかなか職がなくてね」
院長は「君の為に身も細る思いだよ」と深く重いため息をついたが、パトリシアは眉間に皺をよせた。濃茶色の瞳で相手を凝視する。この恰幅が良く、市長や校長たちと休日は朝から球戯に精を出している院長が身も細っているとは、到底思えない。
「だが、いい機会が巡ってきたわけだよ」
院長は丸い指で、もう一度紙片を得意げにかざした。何度読んでも文面は同じだ。
――どん詰まりの人生を逆転しませんか。
「これのどこがいい機会なんですか」
「まさに君向けの話だと思うよ。表に書いてあることは少々うさんくさいかもしれないがね、裏面にはちゃんと求人要領が書いてある」
「裏面を一度も見せてもらっていませんけど!」
「あれ、そうだったかな」
とぼける院長からパトリシアは紙片をひったくった。
――条件:文字が読めて書けて料理ができて洗濯が上手な人。身元保証人不要。
――報酬:三食まかないつき。住み込み。食住つき。
「いい条件だろう。君にぴったりだ」
「これのどこがちゃんとした要領なんですか? 給料は? 書いてありませんけど?」
「最後にちゃんとあるだろう。特大だよ」
ほれ、と院長は裏面の末尾を指さした。
――報酬:人生、大逆転の可能性あり。
「これが給料なんですか? 抽象的すぎます。わたしは、わかりやすく金貨や銀貨の枚数で計れる仕事を希望しているんですけど」
「そう言ってもねえ、君、なにぶん不景気だからねえ」
保証人不要・食住つき、こんな好条件の案件は滅多にないよ、と院長は念押しした。
パトリシアは、じっくりと紙片を表・裏と何度も読み返し、眼を閉じてしばらく、今までの求人の惨憺たる結果と現在の自分の状況を真剣に考えた。それから目を開けて、もみ手している院長に告げた。
「――わかりました。これに応募します」
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