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第二章 南洋冒険
「そうか、あんたが応募者のパトリシアか」
そう言って、その少年は鼻の頭をかいた。
「ええ、応募者のパトリシアだったんですけど、帰っていいですか」
パトリシアは、数枚の着替えと小銭と小物――全財産――を詰め込んだくたびれた革の旅行鞄をもう一度持ち上げた。
この状況では、手堅い就職などという言葉は虚しいだけだ。ここは大陸の果て、港町の潮かおる波止場。眼の前で、波止場の隅っこに係留されているおんぼろ木造船が波に上下している。隣の大型の快速船と比較すると、大きさも装備も玩具のようだ。
首元に小さな袋をぶさげ、膝までの短衣を着た同い年くらいの、ぼさぼさの髪が目の上までかぶさっている船主の少年が係留杭に座って言う。
「俺は船長のパトリック。名前が似てるな。『海の喜び』号へようこそ」
「聞えませんでした? わたし、帰りますので、失礼します」
「一緒に人生逆転しようぜ」
「そういうの、わたしは結構です」
「結構いいなんて言われると照れるな」
「断ってるんですけど! 結構の意味が逆なんですけど」
「え、断っているのか。けど、あの募集で来たんだろう? 逆転したいんじゃないのか」
「今この場を逆転したいですね。逆に戻したいですね。わたしは、地に足がついた、ささやかでつつましい幸せがあればいいんです。住む場所があって、食事があるような」
「安心しろ。全部そろってるぞ」
パトリックは親指で、港内のさざ波に大揺れしている『海の喜び』号を示した。
「この船が住む場所だ。食事はおまえが作る」
「船って、地に足ついていませんよね? というか、この船は波にすらまともに乗れていませんよね」
「俺はおふくろの腹の中にいた頃から船に乗ってる。世界の海と島、生物を知っている。腕は確かだ」
「腕は確かかもしれないですけど、船は明らかに大丈夫じゃないですよ」
パトリシアはばっさりと言い切ったが、パトリックは気にする風もなく、
「ああ、契約のことを心配しているのか」
と言った。
「安心しろ、おまえは乗組員として共同経営者になるんだ。宝は山分けだ」
「だから、わたしはもう帰ると……宝?」
パトリシアは瞬きした。宝ってなんだ?
「そうだ。俺のじいさまがあの海賊フスマインの宝を発見してその場所を地図に示した。じいさまはフスマインの仲間から逃げる途中で死んだが、ばあさまに地図を託し、その地図が俺まで伝わった。正真正銘の本物の宝の地図だ」
パトリックは短衣の胸元から縁がぼろぼろの羊皮紙を一枚取り出した。軽く振ってみせる。
「宝は金貨五千枚。どん詰まりの人生逆転、だろう?」
「金貨五千枚……」
忙しく手を動かして鶏肉を調理しながら、パトリシアはうっとりと呟く。
「お金があるって、すてき」
地に足ついた人生を歩んでいこうと思っていたが、つましく切り詰めた生活を送ってきたパトリシアには金貨五千枚の誘惑は強力だった。海賊の宝物なんて夢みたいな話と一蹴しようかとも思ったが、五千と枚数が具体的なところが気に入った。そこまで言うのなら、宝は存在するのではないか。別に、帰るのはパトリックにしばらくつきあってやった後でもいい、と思えた。他に働き口があるわけでもない。
一応、パトリックの募集要項に嘘はなく、『海の喜び』号にはちゃんと二人分の食糧が積まれていたし、狭いながらも寝場所も用意されていた。あまりにも老朽化が進んでいる『海の喜び』号の出航には少々不安を感じたが、外洋に出ると意外と揺れは減った。初日の夜に船底に突然複数の穴が開き、それらを必死にふさいで徹夜で海水を汲みだしたのも、今となってはいい思い出である。あれから毎日穴を点検しているが、対応が早いので水濡れ厳禁で重要らしいパトリックの荷物も濡れていない。
「パトリック、食事ができたわ」
舵輪のところで船の位置を計測していたパトリックに鶏飯を持っていくと、「ああ」と言って、受け取った。
「鶏の残骸は? とってあるか?」
「言われたとおり、あるけど、どうするの?」
「南洋のお守りにするんだよ」
「意味がわからない。まあ、いいわ、とにかくご飯よ」
鶏飯を一口食べて、パトリックはうなる。
「本当に料理がうまいな、おまえ」
「孤児院には料理当番があったから」
「うーん、あとはあれだな、同年代だし、もっといい雰囲気になるかもな、と思っていたが、意外とおまえ、気性がきっぱりとさっぱりとしているよな」
「恋愛沙汰になるほど、パトリックのこと好きじゃないから大丈夫。それにわたし、仕事には好き嫌いは持ち込まないから」
「本当にきっぱりしてるな……」
パトリックは遠い目になって鶏飯を口に運んだ。そんなパトリックを気にせず、パトリシアは考えていたことを尋ねる。
「それで、フスマインの宝はどこにあるの? いま南へ進んでるけど、あと何日くらいで着くの?」
「宝がある場所はわからない」
「え?」
パトリシアの手から匙(さじ)が落ちた。
「どういうこと? 地図があるんでしょ?」
「地図はある。が、わからない」
パトリックは鶏飯を置き、あの羊皮紙を取り出して広げてみせた。脇から覗き込んだパトリシアは口を開ける。
地図には飛ぶ鳥を線でなぞったような、複雑な形の文様がいくつも記されており、地形を表現するような部分はまったくなかった。
「え、これ地図じゃないじゃない!」
「うん。だからわからない」
「何考えてるのよ!」
パトリシアの両手がパトリックの首を思い切り締めた。
「じゃあ、金貨五千枚っていうのも、嘘?!」
「う、うそじゃない。こ、これは、神官が使う、し、神聖文字で、ほ、方角と距離が、きょ、距離が、か、書かれているんだ」
「あ、そう。方角と距離はわかるのね」
パトリシアの手からパトリックの身体が落ちた。
「まあ、精確な方角と距離がわかれば、たどり着けるわね」
パトリックは胸元につるした小袋の位置を直しながら、うなずく。
「今いるところから、あと三日、南へ進めば、南洋群島に着く。群島中の一番小さな鷗島(かもめじま)がちょうど目的地になる」
「そこに金貨五千枚が……」
パトリシアはパトリックの鶏飯を食べ始めながら、うっとりとつぶやいた。
「たどり着くのが、楽しみね」
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